GoToトラベル危機
神田律子は派遣社員。
ようやく仕事が決まり、働き始める事になった律子だが、GoToトラベルができなくなりそうな気配が漂い始めたので、慌てて夫の陽太と予約を入れようとインターネットで検索をした。
幸い、まだその段階ではなかったので、旅館の予約はできた。
「駆け込みみたいで、ちょっと気が引けるね」
パソコンの電源を落としながら陽太が言った。
「仕方ないよ。朝令暮改の政府がやる事だから、いつどうなるかわからないんだもん。しかも、前の首相に比べて、今度の首相は何考えてるのかよくわからないんだもん」
律子は派遣社員がいつも割りを食っていると思っているので、どこを向いて政治をしているのかよくわからない現首相に大いに疑問を抱いていた。
「毒舌だなあ。嫌いなの、あの人?」
「嫌いではないけど、少なくとも好きではないわね」
律子は憤然として言う。陽太は苦笑いをして、
「それを一般的には『嫌い』って言うんだよ」
「違うよ、好きではないのと嫌いはかなり開きがあるんだから! 嫌いっていうのは、積極的にその人をよく思っていないって事で、好きではないはその人を積極的に好きにはなれないって事なんだから」
律子が非論理的な事を言い出したので、
「はいはい」
陽太は両手を挙げて降参のポーズをとると、浴室へ向かった。
「もう! すぐ逃げるーッ!」
逃げ出した夫の背に怒りの雄叫びをあげる律子である。
「どうしたの?」
風呂から上がると、律子がスマホにエキサイトしているのが見えたので、陽太が声をかけると、
「今、母さんから電話があって、旅館の予約、取り消してくれって言われたの」
律子は目を吊り上げて陽太を睨んだ。陽太は思わず一歩退いて、
「どういう事?」
律子はスマホをテーブルに置いて、
「予約したの、母さんの実家の旅館でしょ? 陽太の名前で予約を入れたんだけど、それが叔母夫婦に知れて、母さんの所に話があったのよ」
「ますますわからない」
陽太は律子の回りくどさが気になった。律子はムッとして、
「わからないってどういう事よ? 要するに、叔母が母さんに『感染が拡大すると困るから、親戚にはなるべく来ないように頼んでいる』って言ってきたのよ。そんなのっておかしいでしょ?」
「仕方ないよ。東京から来る人は、みんな感染者だと思っている人、地方には多いんだから」
「感染してる訳ないじゃん! 陽太は会社が厳しくて、毎日検温とアルコール消毒している上に場合によっては陰性証明書も出せって言われる程よ。私はまだ仕事をしていないし、雪だって学校では毎日検温してるんだし」
律子の体温は今なら入場できないくらい上がっているのではと陽太は思った。
「無症状の人が多いからね。熱もなければ、感染している事にも気づけないよ」
陽太は律子を落ち着かせようと微笑んで告げた。
「それはそうなんだけどさ……」
律子は口を尖らせて椅子に座る。
「それで、予約は結局どうなったの?」
陽太が訊くと、
「母さんが叔母さんに切れちゃって、断っちゃったって。気が短いんだから」
律子は溜息混じりに言った。
「そうなんだ」
気が短いのはしっかり遺伝しているよ。陽太は言いたかったが、今後の家庭の平和のために呑み込んだ。