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妖かしとしての自分の存在に、さほど戸惑うこともなかった。
むしろ生き返ることが出来たことに純粋に喜んでいた。
ミラノはあの時のことをまるで記憶していないようだ。それを自分が望んだからかもしれない。つまり、人の記憶を奪う力が自分にはあるのだということをマリノは知った。
あの子猫の生命を奪うことにはなってしまったが、自分の中にちゃんとその魂は残っている。むしろ以前よりもずっと強く結びつけたような気がする。
身体能力も以前とは比べ物にならないほど上がっている。それを隠すことが難しいほどだ。それはヴァイオリンの演奏にも影響していた。以前は苦労した曲も、あれ以来、スイスイとこなすことが出来るようになった。いくつものコンクールで優勝出来るようになり、プロから声をかけてもらえるようにもなった。
マリノは今の状況を受け入れることが出来る気がした。
しかし、それも長くは続かなかった。
ある時、自分の奏でる音色がまるでつまらないものに感じられたのだ。一方、ヴァイオリンをはじめたばかりの妹の音色は、決して上手ではなかったが新鮮で自分なりの音楽になっている。
(私のはただのマネごとだ。一度死んだことで、私の音も死んだんだ)
それに気づいた時、マリノは愕然とした。
これが今の自分なのだ。以前よりも能力は上がっているとしても、それは妖かしとしてであり人間としてではない。
(私は一人になった)
そんな時、一人の少女と出会った。
ヴァイオリン教室が終わった後、一人で残って練習をしているマリノの前に彼女は突然姿を現した。彼女は人懐こい笑顔を見せて当たり前のように近づいてきた。
「ねえねえ、すごいねぇ。すごく綺麗な音だねぇ」
「あなた、誰なの?」
「私は鈴音夏希。あなたも私と同じだよね」
「え?」
夏希は自らが妖かしとして生き返ったことをマリノに話してくれた。
彼女は隣町に住むマリノと同学年の少女だった。彼女は一ヶ月前、交通事故で生命を落としていた。それは老人による暴走事故で、当時、その老人は持病が発症していたとされ逮捕されずにいた。老人がかつて政治家の秘書を務めていたこともその原因ではないかと巷では噂されていた。
その恨みによって、彼女は妖かしとして甦ったらしい。
彼女との出会いは、マリノにとってわずかな救いになった。自分と同種である彼女の存在がこれほどまでに自分にとって安心感を与えてくれるとは思いもしなかった。
夏希は毎日のようにマリノの前に現れた。彼女は自分の死を悲観することはあったが、事故を起こした老人を恨む言葉を発することはなかった。今思うと、彼女もまた迷っていたのかもしれない。マリノと過ごすことで自分の存在を肯定したかったのかもしれない。
マリノにとって夏希は同じ悩みを共有する唯一の仲間だった。不思議なことだが、夏希と一緒にいる時だけは、自分が妖かしであることを忘れていることが出来た。
だが、そんな日々は、突然、終わりを告げた。
ある日、突然、彼女は自らの中にある恨みを昇華させた。
原因はあの事故を起こした老人が再び車のハンドルを握ったことだった。彼女はすぐにそれに気づき、その老人が運転する車を襲った。
マリノが近づいていくと、ひっくり返った車の横で彼女は穏やかな表情をしていた。
「どうして?」
「やっぱり恨みを忘れることは出来なかったよ」
その夏希の姿が徐々に薄れていく。
「夏希ちゃん……身体が……」
「これをするために私は妖かしになったんだと思う。だから、もういいの」
「そんな……いかないで」
「ごめんね。私、恨みを忘れようとした。でも、出来なかった。どうしてもこの男を許せなかった。それで私はもう十分なの」
「そんな……」
「バイバイ」
最後に彼女は弱々しく明るい笑顔を見せた。
あの時の夏希の顔が忘れられない。
いずれ、自分もそうなるのだろうか。
そして、そのことをミラノが知ったらどうなってしまうだろう。
妖かしとなった原因を作ったミラノへの憎しみ、妹であるミラノへの愛情。その二つの想いにマリノは自分を失っていった。
自分はここにいてはいけない。
そんな思いが強くなり、マリノは周囲の人の記憶から自分の存在を消して家を出た。