テラルの決意 フォアロと共に飛び出します!
冬の澄んだ空の中ほど、すばらしい場所はないと思う。何にも穢されず、ぴんと張った空気を切りながら滑空する。刺すような冷気が常に体温を奪っていくが、それが気にならないほどこの世界が好きだ。
相棒の竜、フォアロは風の流れを上手く読み、小さな軌道でその流れを乗りこなす。フォアロが大きな翼で一振り風を叩くと、ぐうんっと身体が持ち上がり、さらに高度が増した。
輝くような赤い鱗に、らんらんと光る金色の瞳は、見る者を圧倒させる美しさを誇る。竜の中でも、最も大型であり、その強力な破壊力に勝る竜はいない。獣の王と呼ばれる竜。そして、その竜の覇者として、レアーテルはその名を轟かせる。
肩まで伸びる黒髪が、風に踊って舞う。冷気にさらされているせいか、その肌は白い。そのためか、朱の指した頬はより引き立っていた。満面の笑みを浮かべ、心底から楽しそうに笑い声を響かす。フォアロを使い竜とし、その使い手たる少女の名は、テラル。今年十七歳になる。そして、竜使いの一族族長の長女でもある。
ふと、視線の先に黒い点々が四つ青い空に浮かんでいた。浮かんでいただけではなく、その点々はぐんぐん大きくなっていく。
「あれは・・・」
目を眇めて見ていると、耳を劈くような鋭い音が鳴り響いた。強弱を付けられたその音は、竜の使い手が使用する笛の音であり、その音を聞いたテラルは喜色の色を浮かべて、同じ音を吹き返した。
子供の小指ほどの大きさの銀色の笛は、竜と人間、または、飛行中の使い手同士の会話手段の一つである。使い手は何度もその音を聞き、訓練を積めば、それで日常会話が成立するほど笛の音を操ることができる。普段は首から提げている。
「兄者!兄者が帰って来た!フォアロ、兄者!」
テラルの兄、カナルは現在二十歳の次期族長である。一族みんなからの信頼も厚く、面倒見の良い一面もある。
『偵察組、帰って来た・・・?』
フォアロの言葉―いわば鳴き声だが―にテラルは弾むように頷いた。
「うん!今日は何のお土産かなあ・・・!」
偵察組。この国の情勢や、近況報告を行う者たちだ。竜使いの一族は、このアスタリア国の保護下にあり、そのお陰で毎日を平和に送ることができている。昔は、竜を操ることのできるという稀有な力を利用されたり、奴隷狩りにあったりと、平和とはほど遠い生活を強いられていたらしい。竜使いの一族が拠点としている峡谷は、王都から徒歩で十日、早馬を使って七日はかかる辺境に位置している。あらゆる情報が入ってこないため、その情報の収集を行うために、王都に七名ほどの竜の使い手を一月交替で派遣する。
「ああ・・・。あのホクホクした赤林檎の焼き菓子・・・。真っ白のお米・・・。ピリッと辛いあの・・・」
『テラルが欲しいの、食べ物ばかり。他にないのか』
フォアロの呆れの入り混じった声音に、テラルは「なーい!」と言って叫んだ。
「だって、こんな寒い所じゃ、稲は育てられないし、果物も限られてんだもん!いも類とか、肉とかばっかり!たまには王都の美味しいご飯が食べたーい!」
と言いつつ、テラルはさっと笑みを消して、不審げにその偵察組を見つめた。
「だけど、帰ってくるのが十日も早い・・・。それに、あとの三人はどうしたんだろう・・・」
次の偵察組との交替は、十日後のはずだ。いくらなんでも、帰ってくるのが速すぎる。
そうこうしているうちに、偵察組は進路を変えて、西に向かっていく。あの向こうには、竜を使ってでしか、立ち入ることのできない場所がある。そこが、竜使いの一族が住む郷である。
「私たちも郷に帰ろうか!」
テラルの言葉に、フォアロは一つ大きく吠え、西へ向かって羽ばたいた。
竜使いの一族が住む郷は、高度の高い峡谷の狭間にあった。人間だけでは、決して生きていけるような土地ではない。地面に土はなく、ごつごつとした岩がにょきにょきと伸びているような場所である。峡谷を下れば、豊かな森林が広がっているが、その森林にも凶暴な野生の動物が多い。普通の狩りをしようにも、その危険度は高く、人間は住み着かない。しかし、皮肉にも、竜使いの一族はそういった土地を欲していたのだ。
竜使いの一族は、その類稀なる身体能力と竜を操る能力を他の人間から奇異の目で見られる立場にあった。そうでなかったとしても、権力ある者は、人間としてではなく、武力として、道具として、彼らを欲しがった。少数民族であったことから、奴隷狩りの被害に遭うようになると、急激にその数を減らしてしまうことになった。
竜使いの一族は、血に塗られた悲しみと怒りの歴史を持つといっても過言ではない。
そして彼らの先祖は、静かに暮らせる場所を求め、相棒である竜と共に、普通の人間では決して暮らせない、しかし、竜使いの一族だからこそ、居座ることのできる場所を探した。二百年ほど昔、彼らはこの峡谷の狭間を見つけ、そこでようやく最低限度の安寧を得た。
竜の力を借りて、狩りをし、居住を構え、時にその力をもって、敵と戦い、数少ない他の少数民族を友人として得ながら、少しずつ、だが着実に、その数を増やし、力を増大させていた。そして、彼らは今に至る。
「兄者、お帰りなさい!」
テラルはフォアロから降り立ち、弾むような足取りで、背の高い兄の元へ駆け寄った。兄のカナルは微笑を浮かべて「ただいま」と静かに返した。
「今回はどうしたの?兄者。交替まで、まだ十日もあるのに・・・。それに、他の三人は?」
カナルと同じく帰って来た偵察組の男たちは、それぞれの使い竜の頭を撫で、これまでの働きに労いの言葉をかけ、世話をしている。
カナルの使い竜はウェスタと呼ばれる種である。ウェスタは竜の中でも平均の大きさで、威力や力は他の竜に比べ劣るが、速く安定した飛行をするので有名である。緑色の鱗を持つその竜をカナルはテーラと呼んで可愛がっている。最近わかったことなのだが、テーラはメスらしい。ちなみにフォアロはオスだ。
テーラは知っている人間には人懐っこく、従順だが、見知らぬ人間の命令には頑として従わない。忠誠心の高い竜のようだ。平均の大きさと言っても、その気になれば、成人男性をパクリと一口で食べられるような大きさの竜である。テーラの安定した速い飛行は、一族に重宝されている。
「ちょっといろいろあってな・・・。父さんは?今どこに?」
カナルはテラルの質問に答えず、はぐらかした。
他の者も、偵察組の帰還自体は喜ぶものの、七人のうち四人しかいないこと。また、交替の定期日より、十日も早いことから、不審げな色も浮かべている。
テラルはカナルにはぐらかされたことに、少々不満になったが、それ以上追求はしなかった。
「兄者、お帰りなさい。お早いお帰りですね。父様なら今間もなく」
テラルの後ろから、二つ年下の妹エイルがやって来た。テラルよりも、女の子らしく、兄を見て可愛げに微笑んだ。長く結われた黒髪を揺らしながら、大きな天幕を見やると、丁度、父のオルムが天幕の布を持ち上げて出て来た。
父は引き締まった筋肉のついた手で、笑いながらカナルと偵察組にどーん、と背中を叩いた。父なりのお礼、または挨拶に使われるものだ。
(うわあー。相変わらず、やられたら潰れそー)
テラルは内心でうへえ、と叫んでいると、背中を思いっきり叩かれた男たちはごほごほと咽ている。エイルはにこにことその光景を微笑んで見ているだけで、これといって反応はない。
「と、父さん。そ、その、報告をしたいのですが。・・・大幕で」
カナルは背中を叩かれたためか、言葉をつっかえながら言った。父はその言葉にすっと笑みを消し、「わかった」と一つ肯定の意を伝え、踵を返して行った。
(おやおやおや・・・)
テラルの唇がにやっと弧をかいた。大幕というのは、重要な会議を行うための天幕である。どの天幕よりも最も大きくこれまでに何度かこの国、アスタリア国現第一王子が宿泊したこともある。
そんな場所へ行って報告するなど今までにない。王都で何かあったに違いなかった。面白そうになってきた、とテラルは思い、気配を殺してその場を去った。
「テラル!母さんを大幕に呼んでくれ!」
カナルがそう声をかけたときには、テラルの姿はもうなかった。カナルが辺りを見渡してもその姿は見えない。
「兄者、姉者はフォアロのお世話に行きましたよ」
エイルがそう言うと、カナルは「ああ、そうか」と呟き、「また何かしださなきゃいいが」とぼやいた。
はあ、とカナルは大袈裟にため息を吐くと、申し訳なさそうにエイルを見た。
「エイル、悪いが・・・」
「私が母様を呼んできます。・・・姉者には、厳しいですね、兄者は」
エイルは眉を下げて、困ったように小さく笑った。
「姉者の役は私がやります。私はそういうのが好きですから。適材適所、臨機応変は我が一族の言葉ではありませんか」
そう言うとすうっと笑みを消し、完全な真顔になって兄を見上げた。カナルはそんな妹を見て、「参ったなあ」と明るい声で言った。
「俺の妹たちは、なかなか手強いな」
「それは嬉しいです。私は姉者のように素直になれませんので、本当に姉者を尊敬しているのです。これ以上、姉者を困らせないであげてください。姉者はフォアロに乗って短剣と共に舞うのが好きなのですから」
エイルは小さな微笑を浮かべた。しかし、それはエイルが滅多に見せることがない心の底からの微笑だった。
これを見たら、一族の者は口を揃えてこう言うだろう。「ムダ遣い」だと。
テラルはターン、と地面を蹴って、跳び上がった。ここの小さい岩の小山を越えれば、最も早く大幕へ辿り着ける。次の瞬間、にょきにょきと天へ伸びるような偏屈な岩柱が現れる。にいっと一人で笑みを浮かべると、帯に下げている短剣をひらりと抜く。短剣の剣先が太陽の日に照らされて輝いた途端、その短剣は岩を砕いた。
常人では岩を砕くなんてことはできない。しかし、竜使いの一族の一人として生まれた彼女には、可能なことだった。
「あいってえっ!」
砕いた岩の破片が首筋を掠ったのだ。痛みからすると、多少傷が残るかもしれない。しかし、テラルはそんなこと全く気にしない。今頭にあるのは、ただ一つ。
(大幕に早く行かないと!)
ただそれだけである。
膝を屈伸させて硬い岩の地面に着地。跳躍し、岩柱を蹴る。短剣の閃き。砕かれ、破片を蹴り上げる。それを繰り返し、ぽつん、と大幕の頂きが見えた。
走るのをやめ、高いそこから大幕を見下ろす。父様たちはまだ着いていないようだ。
テラルは高い身体能力でその高さを跳び下り、大幕に先に入る。天幕の大部分を支える中央の柱によじ登り、天井の役割をしている布の中に忍び込んだ。柱となっているそれに乗り、父様たちがやってくるのを待つ。暗闇の中で、息を殺して待っているとしばらくして大幕の入り口から人の気配がして、父様たちの声が聞こえてきた。
「それで、何があった」
父様の低い声にカナルの声がした。
「単刀直入に言います、父さん。・・・アスタリア国がピア帝国に攻め落とされました」
テラルは驚きのあまり、ひゅっと息を吸ってしまった。慎重に体重を移動させなかったために、ぎしっと柱の軋む音が鳴り響いた。しまった、と臍を噛むも遅く、しん、と大幕の中が静まり返っていた。
「族長、これは俺にやらせて下さい」
幼馴染みのラーマの声がした。話の内容からして、ばれなかったのだろうか。そう思っていると、不意に風を切る音が聞こえ、短剣が閃いた。
テラルの短剣が相手の短剣を弾き飛ばしたのだ。耳障りな音と共に相手の短剣は宙を舞い、布を裂いて落下した。
「やっぱ、おまえか。テラル」
幼馴染みの呆れと感嘆の入り混じった声にテラルは応じることはなく、舌打ちをする。幼馴染みの目が暗闇の中で赤く瞳の奥が光っている。
「族長、娘さんですよ」
ラーマのどこか面白がっているような声音に父の苛立ちの声が聞こえ、テラルはうっと詰まった。父はテラルの言動に毎回何も言わない。耳がたこになるほど何かを言ってくるのは兄と母だ。だが、父の無言の圧は、兄と母よりも堪える。
いや、今はそれよりも大切なことがある。
テラルは勢いよく跳び下り、その勢いのまま兄の前に近づいた。「うおっ!」という兄の驚く声を聞き、数歩下がる。
「ユド!ユドはどうなったの?」
「おい、殿下に対して馴れ馴れしいぞっ!」
他の男からの罵声をテラルは無視し、カナルに詰め寄る。カナルは険しい表情を浮かべ、姿勢を正した。
ユドとはアスタリア国第一王子ユドリアムのことである。
「それを今から報告する」
カナルの有無を言わせないその圧にテラルは、早く知りたいのを渋々抑えた。他の男たちもカナルを倣って姿勢を正し、その雰囲気にテラルは苦いものを感じた。
「アスタリア国国王、王妃陛下斬首刑。第二王子タリアム殿下流刑。王女御三方はピア帝国にて幽閉。敵の監視下に置かれました」
父とテラルは驚愕のあまり言葉を失くし、テラルは抑えても震えが止まらなかった。
「ユドは?ユドはどうなったの・・・?」
一番大切な人。数少ない理解者で勇気付けてくれた人。辛いとき、苦しいときは彼の姿と言葉を思い出し、その度に自分を励ましていた。
「第一王子ユドリアム殿下は行方不明です・・・。殿下の処遇はまだ我が情報網も捉えていません」
「行方不明・・・。つまり、逃げおおせられたわけだな。命は助かったのか。・・・しかし、両陛下の命は助からなかったのか」
父は無念とも言える悲しみに暮れた姿で、しばらく黙祷を捧げていたが、すぐさま目を開き、口を開いた。
「お亡くなりになった国王陛下は我々を含め、少数民族の者たちにも分け隔てなく接してくださった。特にユドリアム殿下は、この辺境にまで足を運び、温かく迎えてくださった。あれ以上のお方は我々の歴史を見てもおられないだろう・・・」
父の言葉は竜の一族だけでなく、この国に位置する少数民族全員が頷けるものだった。少数民族は権力も財力もない。差別や虐げられることが多く、全うな生活をするのは容易ではない。しかし、この国はそれをせず、民族の多様性を認めながらも国民として迎え入れてくれた。この地域は第一王子ユドリアム殿下の管轄地であり、竜使いの一族はユドリアム王子を慕っていた。
「これからいかが致しましょうか。念のため、一人はマハの一族に同様の内容を伝えに行かせました。他二人は王都に残って引き続き情報収集に当たらせています」
カナルが口を閉じると重苦しい空気が辺りを包んだ。息をすることさえも、憚られるような雰囲気にしばらく誰も沈黙を破れなかった。
「殿下は生きている。やることはわかるな」
父の腹に響くような低い声が静かに沈黙を破り、全員がごくりと息を呑む。テラルはぎゅっと無意識に手を握り、次の父の言葉を待った。
「はい!」
「これより、竜使いの一族はユドリアム王子を救出に向かう!よって、偵察組、防衛組の再編成、使い手と使い竜の増強を命じる!」
「私も偵察組に入れてください!」
「駄目だ。おまえは女だし、わざわざ戦いに身を投じる必要はないだろう?何度も言わせるなよ。今は忙しいんだから」
テラルは必死に懇願するが、カナルは厳しい声音でそう言って跳ね除けた。
父の宣言の後、竜使いの一族は偵察組と防衛組の再編成を進めた。具体的な内容として、偵察組は成人男性三十人を五つの班に分けて派遣した。防衛組とは、アスタリア国から命じられている辺境の国境を防衛する者たちのことだ。アスタリア国が陥落した今、隣国が国境を越えてくる可能性は高くなった。それを防ぐために、多くの男と竜がその防衛線へ派遣された。未成年男子は使い竜と共に、万が一の場合に備え、強化された訓練を受け、合図があればいつでも飛び立てるように準備もしている。女たちは食料を確保する工夫を行い、また、男たちが怪我をした場合の治療に必要な道具や薬草を揃える。大型の竜を使い竜としている数人の女は未成年男子と同様のことも行っている。
「待ってください!」
踵を返して行こうとするカナルをテラルは追いかけて、行く手を阻んだ。カナルは少々不機嫌そうに眉を寄せ、テラルを見下ろした。
「私たちは絶対に役に立ちます!私も強くなりました。この前、男三十人と腕相撲をして、二十人に勝ちました!そこらの使い手よりもずっとずっと強いし、フォアロも他の竜と比べて速く飛べます。今は一人でも多くの使い手と使い竜が必要なときです。私たちを使ってください!」
テラルの宣言にカナルのふらっと姿勢が傾いた。どこか苦しげな表情で俯き、肩が微かに震えている。変なことを言っただろうか。訳がわからず、黙っているとカナルがようやく顔を上げた。その顔はどこか赤い。
「俺と父さんには、腕相撲しないのか?」
カナルはどうやら「腕相撲」の話が気に入ったらしい。テラルは想定外のことに目を瞬かせた。
「父様はラスボスで、兄者は準ラスボスですので」
「そ、そうか」
素直に答えると、カナルは神妙な顔つきになって頷いた。
本題はそれではない。いずれ、父とカナルには「腕相撲の勝負」をするつもりではあるが、今は違う。テラルは歯を食いしばって深く頭を下げた。
女だから、という理由でどれだけのことを蔑まれたか。取り上げられそうになったか。こんなときでさえも、その理由で何もできないのだろうか。
(私、強いのに。強くなったのに)
嫌で、悔しくて全身がどろどろになりそうなほど熱かった。
テラルは頭を下げたまま、意地でも動くまい、と心に決めてカナルの返事を待った。しばらくの間、刺すようなカナルの視線がふっと薄れたような気がした。大きなため息に驚き、テラルが思わず顔を上げると目が合った。
「どうしてそこまで必死になるか、俺には理解できない。なぜだ」
「それは・・・」
カナルの問いにテラルは言いよどみ、視線を逸らした。幼い頃のユドリアム王子の笑みがぱっと浮かんで消え、これをどう形容してよいかわからず、歯切れが悪くなる。
「で、では、なぜ兄者は私たちを使ってくださらないんですか!私が女だからだと、この非常事態であっても言うつもりですか!」
テラルは怒気を込めてそう言い返し、カナルの様子を見守った。カナルをぴくりと眉を動かした。
「ああ、そうだよ。おまえは戦をわかっていない。女が敵方に捕まったらどうなるか・・・。知っているのか?死ぬよりも苦しいよ」
カナルの静かだが、厳しい瞳にテラルは気圧された。慌ててぐっと唇を噛み、深く頷く。
「はい、知っています!足手まといにはなりません。そのときは死ぬ覚悟です!」
「テラルッ!」
女の甲高い、悲鳴に近い声がした途端、パンと破裂音がしてテラルはその場に座り込んだ。じんじんと痛む左頬を手で押さえ、呆然とその女を見上げる。
「なんてことを言うんです!死ぬだなんて、そんな簡単に言うものではありませんっ!何度も言っているでしょう!そんなことをする必要はないと!」
「母さん、何も叩かなくても・・・」
母は目を見開き、怒りで顔を上気させ、娘を見つめている。その娘は驚きのあまり声が出ず、微動たりしなかった。
「どうして、どうして・・・。あなたは女の子なの!強くなる必要もないし、戦う必要もないわ・・・。あなたは族長の長女。やるべきことをせずに何を無駄なことをいつまでやるつもりなの」
母の本心なのだろうか。あまりの怒りのせいか、いつも聞くことのない言葉がうわ言のように呟かれる。
(母様がそう思っていたのは知ってた。知ってたけど・・・)
面と向かって言われたことはなかった。
(「無駄」だなんて・・・)
怒りとは違うものが込み上げてくる。苦く、冷たいものだ。心臓を冷たい手で掴まれたように息苦しくなり、母が何かを呟く度に全身の皮膚が強張る。
「誰にも好かれないわ・・・。ええ、そうよ。このままでは、誰にも・・・。かわいそうな子よ」
「母さん!それは言い過ぎだ!」
カナルの怒鳴り声にびくり、と母は反応すると、すっと息子を見た。
「そう?十七歳になってもここにいて?」
「母さん・・・」
カナルは母をどこか恐怖したような目で見た。
確かにこの時世、普通、女性は十六歳で嫁ぐ。たった一年だが、その一年は大きいのだ。母は竜使いの一族の親戚、「マハの一族」から嫁いできた。母の弟はマハの一族の族長でもある。
「兄者、ありがとうございます。もう、母様には何も言わないで」
さらに言い募ろうとするカナルをテラルは制してそう言った。その声は小さく、掠れていた。鉛のように重くなった身体を動かして立ち上がり、強張った頬に何とか笑みを浮かべる。
「母様、私は全て無駄だと思ったことはありません。誰にも好かれないことなどありません。私は『迎えに来てくれ』と仰ったユドの元へ行くために強くなりたかった。ただそれだけです。
それでも、母様が受け入れてくださらないと言うのなら、捨ててくださって構いません。私は・・・、無駄じゃない」
自分がしてきたことを否定されるということは、自分自身の存在を否定されることに等しかった。テラルは震える声でそう言い切り、泣きそうなるのを唇を噛んでぐっと堪えた。
母の目は虚無だった。母は「捨てる」とは言わなかったが、それ以上も以下も言わなかった。求めていたわけではなかった。しかし、傷ついている自分がいることにも気づいていた。
どれほどその場に座り込んでいただろうか。・・・よくわからない。
「テラル、防衛組に行くことを許可する。詳細は組長から聞くといいから」
「それは哀れみですかっ!」
テラルが噛み付くように言った。カナルは眉一つ動かさず、淡々とした目でテラルを見ている。何を考えているかわかならない目だった。このとき、カナルの顔がとても母に似ていることに気づいた。
「おまえたちは役に立つ。前線には立てないと思うが、戦力にはなるだろうし、国境線に向かえ」
母が来る前なら、喜べたであろう、その言葉に今はただただ虚しい寂しさしか感じない。ぎりっと歯軋りをし、熱い塊が込み上げてきそうになってきて、ぎゅっと力強く瞼を閉じた。
「わかったわ、兄者。国境線に行く」
今はただただこの場所にいたくなかった。ここにいれば、家族と顔を嫌でも合わせてしまう。無言の視線に耐えられるほど、今のテラルには余裕がなかった。
どこかで竜たちの遠吠えがした。
息を呑むほどの美しい夜空が上空に広がっている。あれは命の光なのだと、ユドリアム王子が言っていた。あれは一切の穢れのない尊いものであり、この世界の誰のものでもない唯一のものであると。世界には多く思想があり、国があり、種族があり、宗教がある。全ての人々が理解しあい、争いをなくすことは難しい。でも、この夜空には皆が同じことを感じるだろう。「美しい」と。
「これほど様々な人々がいる中で、一つのことを感じあえるのは、すばらしいことではないか」
そしてこの美しい夜空は皆が見ることができる。身分も、生まれも、職も関係なく、誰からも制限されず、平等に見ることができる。夜空ほどすばらしいものはない。
アスタリア国第一王子ユドリアム。当時十歳のことであった。彼はもうそのころから、人の上に立ち、導いていく為政者であった。
彼も今この夜空の下で生きているのだろうか。
会ったのはそれっきりだった。テラルは当時、八歳。既にフォアロと共に空を滑空し、短剣を手に走り回っていた。ユドリアム王子が帰ってしまうという日になったとき、テラルは大泣きしてしまった。
その時、彼がわざわざ二人っきりになってこの話をしてくれたのだ。今思えば、よくそんなことができたなと思う。彼は次期国王となる身で、危険を冒してこの辺境に来たのである。従者も護衛の者も慌てていたのを覚えている。
「残念だが、私は二度とここには来られぬだろう。この場所は好きだが、私は王城から出ることさえも、滅多にないからな。・・・だから、そなたが会いにきてくれ。迎えに来てくれ。そうすれば、また会えよう。テラルは強くなるのだろう?私も遠くから応援する。偵察組になり、私の所まで来てくれ。歓迎する」
あれから、九年の月日が経った。淡い恋心も、今では良い思い出である。
「あーあー・・・」
テラルは理由もなくため息を吐いた。
『テラル、どうした』
脇に佇んでいるフォアロがほぼ棒読みといった調子で伝えてきた。ムッとフォアロを睨み、また小さくため息を吐く。
「人生、うまいこといかないなあって。当たり前だし、わかっているんだけどさ」
『・・・・・・』
どんよりとした闇がテラルの周りに漂っていた。フォアロは疑問符を浮かべて、若干引き気味になる。
『テラルが変。単純でバカじゃなくなった』
「ばっ、バカってどういうこと!ええっ!フォアロ、私のこと単純なおバカだと思ってたの!」
驚愕の告白にテラルは衝撃を受けて固まった。悩んでいたことも吹っ飛ぶほどの衝撃だった。ぎゃあっと叫び声を上げ、べしべしとフォアロの巨体を叩く。
『ああ、そうだ。大抵、美味しい食べ物で機嫌が良くなる。これが単純でバカというものなのではないか?』
フォアロは冗談を言わない。全くと言っていいほど言わない。言うことは本心で、そのせいか、たまに言うことを聞かない。あまりに融通が利かないときは喧嘩になるほどだ。
「そ、それ、誰から聞いたの・・・」
テラルが羞恥で震えていると、
『ラーマ』
とフォアロが答えた。
「ラーマァ!許さないっ!私のフォアロに余計なことをっ・・・!」
ラーマは冗談や大袈裟に何かがすることが大好きだ。火薬を使って大騒ぎを起こし、父から大目玉を食らっていたこともあった。
「アイツー・・・。絶対に、絶対に許さん!」
『テラル、この肉美味しい。焼いて食べたら元気になる』
フォアロは自分のせいでテラルの機嫌が悪くなったと勘違いしたらしく、自分が狩った大きな牡鹿の半分を差し出した。テラルはフォアロの優しさにじいんと胸を打たれながらも、どこか叫びたくなった。
「フォアロ、違うの!ちがーうっ!」
そうは言いつつも、うきうきと火熾しを始めるテラルであった。
フォアロは口にこそ出さなかったが、テラルは単純でバカだなと、微笑ましく思っていたのだった。
竜使いの一族は野宿をするとき、近くで火を熾し、竜の翼の下で眠る。竜は獣の中で最たる位置にあり、その上位種はいない。小型竜であっても、すぐそばにいれば人間にとって他の獣に対する身の危険はなくなる。テラルもそれに倣い、フォアロの翼の下で小さく丸まって眠っていた。
フォアロは大型竜なのでその翼で雨宿りができてしまうほど、大きなものだった。だから、フォアロの翼の下にいれば、雨風を一応しのぐことができる。今は冬なのでフォアロの高い体温が暖房代わりになって丁度よいものにもなる。
強いて言うならば、竜が警戒する獣は竜だ。同種同士の争いは激しいものになる。
だから、フォアロが身動きする音にテラルは驚いてしまった。
「フォアロ・・・?」
半ば寝ぼけた頭で翼の隙間から見えるフォアロを見る。
『誰か来る。人間を乗せている』
フォアロが呟いた時、テラルにも音が聞こえてきた。小型竜独特の音程。しばらく待てば小さな羽音がした。人間を乗せた竜ならば、仲間に違いないのだが、念のための警戒は怠らない。
愛用の短剣の柄に手を置いて、ゆっくりと翼の下から出る。
「姉者!私です」
聞き慣れたその声にテラルは緊張を解いて姿を現した。フォアロの先に小型竜に乗ったエイルがそこにいた。
「よかったです。その様子では間に合ったようですね」
汗の粒をびっしりと額に浮かべ、忙しく肩で息をしている。テラルを見てエイルはほっと安堵の色を浮かべた。
エイルは滅多に竜に乗って飛ぶことはない。そのエイルがわざわざ竜に乗って、しかもかなりの速さで飛んで来たのだろう。顔が冷気にさらされていたせいか、真っ白になっていた。
「単刀直入に言います、姉者。・・・ピア帝国がユドリアム王子に懸賞金をかけ、見つけ次第、王都にて斬首刑にするとのことです」
「ユドは・・・」
「まだ見つかっていません。偵察組が今先程この事を知らせに来ました。しばらくすれば、この防衛組にも回ってくるでしょう。それよりも早くお伝えせねば、と思いまして」
エイルはテラルの質問の先を見通し、テラルが訊きたいことの粗方を言った。妹のしっかりとした性格は知ってはいたが、改めてそれを見ると感嘆してしまう。
「姉者、これを。一刻の猶予もありません。行ってください」
エイルは自分が背負っていた斜めがけの荷袋を肩から下ろし、テラルに差し出した。テラルは戸惑いつつも、それを受け取り、荷袋とエイルを交互に見やる。
「それは偵察組の必需品が入った荷です。私がいくつか違うものも補充しておきました。役に立つと思います」
「父様と兄・・・」
「知りません。私が全部盗んできました」
テラルは驚いてエイルを見つめた。滅多に笑わないエイルは不敵な笑みを浮かべている。
「私は大丈夫です。それは何年も前から用意周到に盗んできたものですから、簡単にはばれません。それに兄者は味方してくれると思います」
なんだか妹がとんでもない人物になっている。真面目でしっかり者であるのはよくわかっていた。だが、「盗む」とか「騙す」という善悪に対する思想は強かったはずである。こうも簡単にしてのけたエイルにテラルは頭の中の整理が追いつかないまま頷いた。
「そ、そう・・・」
「そうです。ですから姉者」
エイルはさらに笑みを深め、フォアロを見上げた。つられてテラルもフォアロを見る。
「行ってください。ユドリアム殿下をお救いに行ってください。姉者が殿下の元へ行くために今まで頑張ってきたのでしょう?ならば、行かなくてどうしますか。
皆がいろいろ言うようですが、そんなの言わせておけばよいのです。姉者の努力も知らないで言うような阿呆たちです。私は応援しますから、早く!」
エイルの言葉にテラルは雷に撃たれたかのような衝撃を受けた。エイルの大きな瞳が何かを訴えてくるかのようにじっとこちらを見ている。
「どうして・・・。どうしてこんなことを」
テラルは不信の色を滲ませてエイルを見つめた。今まで反対ばかりされていた家族にいきなり協力されても信用できない。嬉しいことは確かなのだが、それを超えるほどのものではない。
「私は物心ついたときから姉者を尊敬していました。ご存知の通り、私は常識の中でしか生きることのできないありきたりな人間の一人です。だから私はそういった常識に縛られず、逞しく生きている姉者が大好きなんです。私はそのお手伝いをしたかったんです」
どこか寂しげな色を浮かべながらも、悲観した様子はなく、エイルはしっかりとした口調でテラルの背中を押した。
「ありがとう、エイル。私、ユドのところへ行ってくる。必ず助けて帰ってくる」
テラルは力強く頷き、フォアロの背に跨る準備をする。
奥から騒がしい人の声が大きくなっている。防衛組にも正式に通達が来たのだろう。身動きができなくなる前に飛び立たねば、ここを出る機会はなくなってしまうだろう。
「あ!姉者、大事なものを忘れていました」
フォアロに着けている騎乗帯―馬でいう鞍のようなもの―の金具や命綱の点検をしていると、エイルがはっと甲高い声を上げて叫んだ。エイルの使い竜の騎乗帯に括りつけてあった長細い棒のような形をした白い布に包まれたそれを手渡してきた。
「これは・・・?」
見かけに反してそれはかなり重く、生きるものに対して拒否するかのように冷たかった。
「スペンサー銃です。姉者なら撃てますよね?」
エイルはさらりととんでもないことを言ったせいで、テラルは小さく悲鳴を上げて、危うく落としかけてしまった。
スペンサー銃は北の大陸に位置するとある国が開発した最新兵器と聞いている。偵察組がその話をいち早く聞きつけ、ここ南の大陸にこの銃が来る前から仕入れたのだ。それから竜使いの一族は銃の取扱いもできるようになった。その中でもスペンサー銃は最新式の銃である。手元で弾を込めることのできる元込め式。先込め式と比べて少しばかり命中率は劣るが、相手が一発撃つ間に約七発撃てるという利点がある。
「な、なっ!」
「弾薬も大丈夫です。荷の中に予備を入れて置きました。ですが、重さを考えると、さほど数はないので、使いすぎないでください。・・・あと」
テラルが言葉にならず、ぱくぱくと口を動かしている間にも、エイルはさらなる爆弾を落としてきた。
「はい、爆弾」
「いや、ちょっと待って!『はい、爆弾』じゃないでしょうっ!」
テラルの叫びをエイルはふっと笑みを浮かべて一蹴した。
「あと・・・」
「まだあるの!」
エイルの連続爆弾にテラルは慌てるしかない。どんどんと手元に物が乗っけられていくが、全て物騒なものである。どうすればこんなことができるのか、皆目検討もつかない。
「はい、これです。これで全部です」
最後に渡された物を見た途端、テラルは全身が痺れていくのを感じた。竜使いの一族は短剣や銃、弓矢といった様々な武器を使う。しかし、どんな武器よりも最も威力があり、恐ろしい、武器となりうるもの。それは竜だ。竜は使い手たちにとって、大切な家族であり、相棒であるが、命令の仕方によっては武器になる。
銃は人間の手で操ることはできるが、竜は違う。大抵は人間の意を汲み、命令に従うが、彼らにも意志があり、自我を持った獣だ。完全に操ることなどできない。
「黒笛・・・」
「昔の方々は戦笛、と呼んでいたと聞いています」
墨のように艶やかな黒い笛をテラルは受け取り、首に下げた。できれば使いたくない。これは竜への命令の強制力を強める笛だ。そして吹いても音がしない。竜使いの一族は他の人間と比べて驚くほど聴力が発達していると聞いている。竜使いの一族は聞こえるが、他の人間が聞こえない音程があるらしい。先祖の方々はこれを戦に使った、と史書には記されている。
「今は戦です。何があってもおかしくはありません。フォアロと共に、姉者が戦うことがあるかもしれません。そうなったときは、これを使ってください」
「そうね・・・。そのときは覚悟を決めないとね」
テラルは不意に感じた緊張を取り払うように深く息を吐き、夜空を見上げた。夜空を脳裏に焼き付けるように見つめると、エイルに視線を戻した。
「マハの一族がしばらく私たち一族と共に生活するそうです。万が一のためにということで。リナに頼んで定期的に鳥を飛ばします」
リナは従妹にあたる女の子である。マハの一族は鳥を操ることに長けている。足環に手紙を入れて、伝達を行うことができるのだ。
「お願いするね」
テラルは新たな荷を騎乗帯にしっかりと括りつけ、分厚い外套を纏った。飛んでいる最中に落ちてしまったら大変なことになる。鐙にしっかりと足を固定し、革手袋をはめた手で取っ手を握り締めた。
「いってっらしゃい!姉者!」
エイルに向かってテラルは笑みで返した後、静かにその笑みを消し、底光りした瞳でもう一度夜空を見上げた。
「フォアロ、飛行許可!適度な高度上昇の後、進路南南西より目標ガルセーク都市!」
テラルの指揮にフォアロは了承の鳴き声を一つ上げ、雷鳴が轟くような羽音と共に一気に空へ舞い上がった。