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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

北新地の恋

イチゴタルトに赤い糸

 昼が少し回って、13時。

 枕元に放り投げた携帯電話から、目覚まし代わりの音楽が鳴り響く。流れるのは名前も知らないクラシックだ。

「……はいはい」

 誰も聞いてなどいないのに、思わず声が出る。美奈はファンデーションで汚れた手で、鳴り響く音楽を止めた。

 普段ならこの音楽とともに目覚め、さらにもう少し惰眠を貪るところだが今日の美奈は少し違う。

 目の前の鏡に写った自分は、ぼさぼさ頭に疲れ果てた青白い顔。昨夜は客に付き合わされ朝まで飲んだ。ホステスとして働いて1年目。夜更かしや朝帰りは慣れたと思ったが、

(次の日に残るんなら、まだまだやなぁ)

 ……とも思い、少し落ち込む。

 不貞腐れた顔にファンデーションを塗り込んで、粉でふんわり包み込む。疲れた瞼にピンクとグリーン・イエローのシャドウで、一足早めに春らしく。

 きりりと黒いラインに、まつげを包むブラウンのマスカラ、目元に落とす眩しい赤。頬にオレンジを置けば、鏡に映る美奈の顔はどんどん明るく元気になっていく。

 美奈は化粧が好きだ。化けるのが好きだ。綺麗になっていく自分を眺めるのが好きだ。

 30分も鏡の前でにらめっこ。立ち上がり、全身鏡に自分を映してみれば、寝起きの時からはまるで違う、柔らかい笑みに包まれた自分がそこにいる。



 昼と夕暮れの合間の、15時。

 日差しがかすかに傾き始めた冬の空は、薄雲に覆われていた。

 光がかすかに漏れても暖かさには程遠いが、美奈は短いスカートから覗く足を見せつけて堂々と歩く。通りすがるサラリーマンが、一瞬だけ美奈の足を横目で見た。しかし長くは見つめてこない。忙しいのか、次の瞬間には彼もまた雑踏に巻き込まれていく。

 年が明けてすぐのこの季節は、歳末の忙しさを引きずった空気を持っている。

 特にここ、北の繁華街・北新地からビジネスの中心街である梅田を繋げる道は一日を通して人が多い。昼にはサラリーマンたち、夜には繁華街で生きる人々。

 様々な思惑で、道は多くの人々に踏まれていく。

 昼と夜で顔を変えるこの道を、美奈もまた梅田に向かって早足に駆けていた。

 足早な人の群にせかされるように、美奈の足もどんどんと速くなる。

 どこかで車が詰まっているのか、クラクションがあちらこちらで鳴り響き、人々の足も乱雑に音を立てる。

 その音に誘われたように、美奈はふと足を止めて顔を上げた。

「あっ」

 ……その、美奈の腕を、誰かが掴んだ。

 勢いよく引かれ、一歩、二歩、たたらを踏む。おろしたてのハイヒールが足に食い込んで、痛みが走る。睨んで振り返れば、見知らぬ男がそこにいた。

 むっちりぱつぱつと身体に張り付いた銀色のスーツ、くたびれた鞄、疲れた顔立ち。男は美奈の腕を掴んだまま顔を舐めるように見つめて、にやりと笑った。

 おそらく彼は、にこり。と笑ったつもりなのだろう。しかし太った頬はさほど持ち上がらない。そのせいで、いやらしい笑みに見えるのだ。

「あらぁ」

 それでも嫌悪感を見せず、美奈は営業スマイルを浮かべて見せた。北新地という繁華街の水に慣れたせいだろう。

「お久しぶりですう」

「やっぱり、アユちゃんやった」

 地響きのような声が、美奈の源氏名を呼んだ。そのせいで、今日のメイクに合わせた和らいだ気分は一気に消滅する。代わりに顔を出したのは、営業用の顔である。

「びっくりしたわぁ」

「アユちゃん、どこいくの」

 その声を聞いて、美奈の脳内に二人の男の顔が浮かぶ。が、そのうち一人は細身だ。それを削除すれば残ったのは一人だけ。

「課長さん、お久しぶりですう」

 確か、ずいぶん前に熱心に通ってくれていた男である。美奈の働くクラブは薄暗く、男も女もどこか薄く影が生まれる。その影の中でも、むっちりとしたスーツの表面、そのてかりを覚えている。

 男は美奈の顔をのぞき込んで、また笑う。美奈はひきつる顔を必死に隠して、一歩下がった。

「アユちゃん、メイクがいつもとちゃうね。いつもより、あいらし感じ」

「今日はお休みですもん。お店がないときは、あいらし作るんです」

「今日はお店休みなん? せっかく、行ってあげよ思ってたのに」

 絡みつくように言葉を吐く男を見て、美奈は心のなかで罵倒した。……最近、店どころか北新地にさえ顔も出さないくせに。

「今日は、ダメ。ちょっと用事あんねん」

「冷たいなあ。デートか」

 男は暇なのか、それとも機嫌が悪いのか、機嫌がいいのか、ひどく美奈に絡む。

「秘密」

「デートなら、俺といこ」

「もう。お仕事中でしょ。お仕事せなあかんよ」

 梅田の隅で男に絡まれる若い女、など掃いて捨てるほどいる。そのせいか、二人の隣をすぎていく人々はちらりとも、こちらを見ない。

 男は美奈の反論が無いことをいいことに、手に指を絡めた。

「課長さんたら、ほんまに……」

 苛立ちを喉の奥に飲み込んで、美奈が無理矢理微笑もうとした、瞬間。

「ちょっと」

 まるで冷たい風が吹き込むように、男と美奈の間に手が差し込まれた。

 指先には、まるで夜を切り抜いたような黒のネイル。

 その細くて長い指が、美奈の腕を掴む。そして、二人の間に細身の身体が滑り込む。

 その影は自然な動きで美奈を背に庇うと、挑むように笑った。

「誰やと思ったら、課長さん」

 赤い口紅が、にっこりと笑みの形に彩られる。

「ずいぶんお見限りでしたね」

 その体はすらりと長い。美奈自身、22歳女子の平均より少し高い。というのに、そんな美奈が見上げるほどの長身だ。

 黒のロングコートのせいもあるが、引き締まった細身の身体。そして、そんな身体によく似合う小さな頭。顔が小さいせいか、短く切り込んだ髪がよく似合っていた。

 太陽光に夕陽の色が交じり合う。そのオレンジに似た光が、彼女の横顔を包んで輝いている。

 その顔を、美奈はとろけるような目で見上げた。美奈の中から、男の存在も不快感も全て消えている。

「お、おお。ミヤビちゃんか。髪、えらい短こうなって……」

「うちら、今日はオフなんですよ。それに、私普段はこの髪です。お店んときは、ウィッグ。気づきませんでした?」

 ミヤビ、というのは源氏名だ。本名は亜由美。少し低い声で紡がれるゆったりとした言葉を、美奈は目を閉じて聞く。

(……あーちゃん)

 心の中で、美奈は彼女の名を幾度も呼ぶ。彼女のコートの隅を握り額を押し付けると、細い手がぽん。と美奈の手を撫でた。

「デートのお誘いうれしいですけど……せやけど、今日以外で」

 亜由美はあくまでもしとやかに、男に手を振った。

 男もまた毒気が抜けたように、ぽかん。と立っている。そこに気の早い夕日が、しらじらと差し込んでいる。

「頼みますわ、課長さん」

 あくまでも営業の顔を崩さない亜由美は、美奈の手を強く握ると素早く人波の中に滑り込む。あとはもう、人に流されるばかり。

 あっという間に男の顔は雑踏に消え、ただ美奈の手の中にぬくもりだけが残っている。



 たまの休日は、二人で梅田の喫茶店に向かう。話があるにしろないにしろ、二人で揃って喫茶店で好きなものを食べて小一時間すごす。

 それはどちらからともなく決まった、二人の約束である。

「あーちゃん」

 美奈は、フォークを握りしめたまま、目の前に座る亜由美を見る。

 亜由美は机に置かれたコーヒーとカレーを無視して、柔らかいソファに身体を投げ出している。そしていつのものか分からない、ぼろぼろの女性誌を睨むように見つめていた。

 乱雑に組んだ長い足、その先につん、と光る銀のハイヒール。どこを切り抜いても完璧すぎて、美奈はとろけるように見つめてしまうのである。

「あーちゃん」

「美奈、もうええから、はよ食べ。ぬるくなるから」

 亜由美は美奈の前に置かれたケーキを指さし言う。それはわざとらしいほど、赤いイチゴがたっぷりと乗ったタルトである。

「ぬるくなったら、美味しいないで」

 しっかり焼かれた硬めタルト生地の中に、甘くて優しく少し固いカスタードクリーム。その上には、真っ赤なイチゴが山のように乗っている。上からかけられているとろけるような赤いゼリーが、このくすんだ店内の中で美しく輝いている。

 美奈はいちごの上に乗せられた透明なビニールを丁寧に取る。どれだけ丁寧に取っても、赤いジュレがビニールに持っていかれるのが少しだけ悲しかった。

「うん、あーちゃん。ありがと、あーちゃん」

「ええから」

 美奈が繰り返して名前を呼ぶと、亜由美はあきれたように、ふっと笑う。

 普段感情の薄い亜由美の白い肌がゆるむ。その瞬間が、美奈は好きだった。

「でもあんたも、新地の女なら、あれくらいの手合いは自分でどうにかせな」

「……うん」

「ちょうど、会えてよかったわ。まさか、あんなのに引っかかっとるなんてな」

 ため息をつくように、亜由美が小さな息を吐く。仕事のない日、彼女の顔からは化粧が消える。しかし、最後の抵抗のように、赤い口紅を引くことだけはやめない。

 その口紅が、少しゆがんで息が吐き出される。まるで赤い糸が吐き出されたような錯覚を覚えて、美奈はまた見とれる。

 それもこれも、この店が暗いせいだ。

 梅田にある古い駅ビル。そのまた古くて暗い片隅にある喫茶店。

 いつ始まったのかも分からないくらいの、アンティーク。壁にかけられた古時計はとうに壊れて、9時08分をさしたまま止まっている。

 店に入ると、コーヒーとカレーにタバコをミックスさせたような香りに包まれる。それはいつも一瞬で消えるものではあったが、木の椅子、椅子のクッション、床、観葉植物、全てに染み着いているのだ。その中に座っていると、自分がまるで香りと一体になれるような気がした。

「ん。すっぱ」

 甘酸っぱいイチゴを口の中に放り込んで、かみしめる。堅くて酸っぱい味わいと共に、とろりと甘いカスタードが口の中いっぱいに広がった。

「雑誌、おもしろい?」

「んーん」

 美奈がケーキの半分ほど食べ進んでもまだ、亜由美は本に夢中だ。夢中、とは少し異なるかもしれない。彼女は、何に対しても夢中になることはない。

 ただ、失笑するように雑誌を開いて美奈に見せつけた。

 よくある恋愛相談。理想の彼氏の作り方。占いに、おまじない。

「ふるくさ。運命の赤い糸、やって」

「信じるの、あーちゃん」

「信じへん」

 雑誌はあっさりと机の片隅に放り出された。

「縁とか、赤い糸とか、信じんようにしてるし私……ん。電話や、ちょっとごめん」

 ぶる、と亜由美の鞄がかすかに振動している。亜由美は素早くそれを掴むと立ち上がる。店外で誰かと話をするその背を、美奈はぼんやりと見つめる。

 すらりと高い彼女の背と、放り出された古い雑誌。ふと目を下げると、自分の小指が赤く染まっているのが見えた。亜由美を目で追っているうちに、指がイチゴジュレに触れたのだ。

 それは赤い染料のように、べたりと小指に絡んでいる。それを見て、美奈は首筋まで熱くなった。

「……もう、美奈。指にケーキつけて。はよ拭き」

 冷たい手が、唐突に美奈の手を掴んだ。

 は、と振り返ればいつ電話を終えたのか亜由美が真後ろに立っている。

「子供みたいやな、美奈」

 彼女はあきれたようにそう言って、美奈の指を紙で拭った。

「あ、あ、ええねん。ええねん」

「ええことあるかいな。もう、高校生ん時から、なんも変わってない」

 そんな風に美奈の世話を焼く、亜由美こそ高校生の時からなにも変わっていない……と言い掛けて、美奈は口をきつく閉じる。

 もう7年も前に二人は出会った。

 彼女を初めて見たのは、大阪より遠く離れた田舎町の高校の教室である。

 亜由美の人を寄せ付けない空気は、今より昔のほうがずっとひどかった。

 母親が不倫をして出て行ったのだとか、父親の愛人が家に居着いているのだとか、そんな噂が流れるたびに彼女はどんどん孤立して、それに比例するように態度もかたくなになった。入学式の3日目には、もう彼女はただ一人になっていた。机を要塞のようにして、誰とも目を合わさない。声も交わさない。ただ、机の上に積んである難しそうな本ばかりを読んでいる。

 綺麗なだけに、背が高いだけにそれはひどく目立つのだ。

 そんな亜由美に、美奈は見惚れた。

 窓から差し込む夕陽が彼女の顔を照らした時、まるで天女のように見えたのだ。

 その顔を見た瞬間、なぜか彼女に近づきたい、話をしてみたい。と、そう思った。

 数百回はねのけられて何十回も避けられて、数回怒鳴られて、それでもめげずに彼女に声をかけ続けた結果、二人は友人となっていた。 

 そして、高校1年生が終わろうとする冬の頃。

 はじめて彼女から諦めたような顔で「一緒に帰ろう」と言われた時、美奈は周囲を憚らず大泣きした。

 二人の関係はあれから7年、ずっと変わっていない。手間のかかる美奈と、クールな亜由美。性格が真逆だからこそ仲がいい……大親友。

「な。なんなん。電話終わったん」

「あんた、せっかく手が綺麗なんやから汚すのはもったいないって」

 美奈の手を綺麗に拭い、亜由美は満足そうに笑う。その声を聞いて、美奈はひどく照れた。

「お……お客さんから、電話?」

「違うよ。新地で節分の時にする、おばけ。あるやろ? それのミス北新地」

 面倒くさそうに椅子に腰を落として、亜由美は携帯を投げ出す。そしてすっかり冷め切ったカレーをスプーンですくい上げる。

 それを無表情のまま食べながら、亜由美は美奈に携帯の画面を指さしてみせた。

 そこには、二人の働くクラブのママ、その携帯電話の着信履歴が残っている。

「私に決まったって」

「すごい!」

 店内の人の半数が振り返るほどの大声で、思わず美奈は叫んだ。

 隣のサラリーマンが驚いたような顔でこちらをみるので、美奈は顔を赤くしてすぐに椅子に沈む。

 亜由美は構わず、ただカレーを食べ続けるばかりだ。

「ほ、ほんまに? ほんま、決まったん?」

「冗談じゃないなら、そうやろな」

「自慢いこ、な。あーちゃん。どっか、どっかのお店、あ。せや、あのラーメン屋のおっちゃんに」

「ばからし」

 彼女の手元にある水から、氷がとろけて崩れる音がした。

「毎年、誰かしらなるねん。それが来年はたまたま私だけやったってことだけ……そんな自慢したいなら美奈、変わる?」

「いやよ。だって、あーちゃんの……あーちゃんの」

「変わってほしいわ」

「だって、あーちゃんが綺麗って、それをみんなが認めたってことで」

 美奈の声が聞こえているのか聞こえていないのか。本気で嫌がるように、亜由美は細い眉を寄せた。

「……ああ。面倒やわ、ほんま」

 心底面倒くさそうに、カレーをかきこむ亜由美の細い指だけが薄暗い店内のなかで輝いている。



 外にでるとすでに薄暗い、18時。

 亜由美と別れたあとも美奈の足取りは軽い。夜の匂いが立ち込め始めた北新地の町を駆け抜けて、彼女は小汚いのれんをくぐった。

「おっちゃん、おる?」

「おるよ。おらなんだら、商売ならんしな」

 それはラーメン。とだけ簡素に書かれたのれんが吊り下がる店である。まるでプレハブのように小さい店構え。

 今にも崩れそうな、小さな店がビルの隙間に立っている。

 扉を開けると煮干しの香りが美奈の鼻をくすぐった。続いて、温かい湯気が顔を包む。カウンターしか無い狭い店は小汚く、壁も床も油まみれだ。

 古いカウンターの奥で、顔を上げたのはこれまた油ぎった男。彼は美奈の顔を見て軽く手を挙げる。

「アユちゃん、オフの日もあいらしーな」

 にこりと笑った顔は、愛嬌がある。同じ太っていても、声をかけてきたあの課長より、こちらの男のほうがどれだけ素敵だろう。と、美奈はつられて微笑み手を挙げる。

「おひさし。店長」

「ラーメンたべてくか。おっちゃんのおごりで」

「ええの」

「ただしインスタントやで」

「ラーメンやさんやのに?」

「今日寝坊したから、まだスープの用意できてないもん。これおっちゃんの秘蔵」

 店長はにやっと笑ってカウンターの下から小さなカップ麺を取り出す。塩味の量販型。それを受け取り、美奈は口を尖らせた。

「なん。カップヌードルやん」

「でも美味しいやろ、嫌いやないやろ?」

 柔らかいビニール外装を剥がして、蓋を取る。そこに熱湯を流し入れ、店長は大皿で蓋をする。

「インスタントでよろし。なにより便利や。それにおいしい。なんでもかんでも、手間かけたらええいうもんでもない」

「聞いて、聞いて。あーちゃん……ミヤビちゃんな」

 あたたかいカップ麺に手を絡めて、指先を温めながら美奈はそさくさ席に腰をおろした。

「ミス北新地に決まってんて、おばけの」

「ああ、もうそんな時期かいな」

 店長は壁にかけられた油まみれのカレンダーを見た。1月の隣は、2月。2月3日の節分には、小さく『おばけ』と書かれている。

 それを眺めて、店長はため息を漏らした。

「綺麗な子やもんなあ」

「そうよ、当たり前。あーちゃんがしなくて、誰がするんよ」

 うきうきと、美奈は手を合わせる。心が浮き立ち、まるで足が地についていないような感覚だ。

 それもこれも、おばけが楽しみすぎるせいである。

 ……一年を通してお祭り騒ぎの大阪北の繁華街、北新地。しかし、本当のお祭りが2月の節分にやってくる。

 それは、北新地の隅にある堂島薬師堂のお水取り、という神事からはじまる。

 小さなお堂に祀られた弁財天が龍に化して北新地の町を練り歩く。それについてあるくのは、その名の通り「化けた」北新地の女たち。そして節分らしく、鬼に扮したホストたち。

 女たちは舞妓にナースにバニーガールになんでもござれ。寒い季節に思い切り仮装して、手を振って町を練り歩く。

 普段は店の奥で過ごす女たちが、大手を振って総勢200名近くの集団で夜の町を歩くのだ。ちょうど昨年、この世界に足を踏み込んだばかりの美奈は、おとぎ話のようなドレスをまとって町を歩いた。

 その華やかさと賑やかさは、一度経験してしまうと癖になる。

「もともとは明治やら、もっと前からこの辺にあった風習や。とは聞くな」

 もう一つ、インスタントのカップに湯を注ぎながら店長は腹を掻く。

 少なくとも、美奈がホステスになってから、彼女の前でこんな風にくつろいだ顔を見せる男はいなかった。

 それは美奈に対してだけでなく、誰に対してもそうなのだ。だからホステスたちはまるで吸い寄せられるようにこの店に来てしまう。

「健康に過ごすためにとか、まあ節分やから、縁起のもんで……でも、ミス北新地の花魁姿は綺麗なもんやけど」

 蓋の上、灰皿で重石をしておいて、店長はレジの奥を探る。ひらりと出てきたのは、昨年行われたおばけの写真である。

 それには、美しい花魁の姿が写っている。真っ白な顔にきりりと引かれた赤のシャドウ。ミス北新地と書かれた布を自慢げに胸に飾り、隣にはお付の禿とちょんまげ姿の若衆に扮した女の子を連れている。

 ミスに選ばれたホステスは、とくに装いも美しい花魁姿に化け、行列の先頭を切って歩くことができる。

 むろん、用意には金がかかる。小さな店では出してやることができない。しかし出せれば店の宣伝にもなる。つまり名誉だ。

 そして花魁に扮するホステスにとっても名誉だ。どの女も、顔をしっかりあげて凛と歩く。妬みや謗る目線を受けても、堂々と跳ね返して歩く。

 それは、夜の街にふさわしい美しさである。

 そしてその花魁を通りがかる男たちがとろけるような顔で見つめる。寿命が伸びたといって拝む年寄りもいる。美しさは、人の心に何かを残す。

「そら綺麗やろ。おっちゃんも、見に行こかな」

「来て、来て。私もな、花魁の隣について歩く若衆のかっこしようと思うねん、二人の晴れ姿やで」

 美奈は弾けるように、言った。

 花魁には、女をリードする男装の若衆と、禿が付き従うのが決まりである。特に男装役は、花魁とともにトップを切って北新地の町を歩く。堂々と、花魁の手を取り共に歩く。

 それを告げると、店長が気持ちいいくらい大声で笑った。

「アユちゃんが、ちょんまげか。えらい、あいらし若衆やなあ。これはますます、見にいかんと」

「でもなあ、ミヤビちゃん、全然嬉しそうちゃうねん」

「……あの子、たぶん家庭ややこいやろ」

 遠慮がちに、店長が口を開けた。静かになった店内に、サラリーマンの声が響く。外を歩くサラリーマンが、部下を叱責したのである。

 18時という夕方と夜の隙間の時間。まだ北新地は、昼と夜の両方の顔を併せ持つ。

「店長、わかるん」

「わかるよ。仕事は仕事で割り切ってやってるみたいやけど、人を寄せ付けんとこがあるな」

 きっかり3分。カップめんの蓋をはずして、店長が箸を割る。美奈も慌てて手元にあるカップ麺の蓋を外した。

 普段のラーメンより温く軽いそれを、ひとくち。ふたくち。

 麺は縮れてやわやわ。麺の奥深くまで染み込んだ塩辛さが喉に絡み、癖になる。口の中で、くしゅり。と崩れた麺が優しく喉の奥に落ちていった。

 おとなしく食べる美奈のことを、店長は子供でも見るように眺める。

「ホステス同士、昔からの知り合いやったら仲の悪い子も多いけど、あんたらは仲がええ。やから見てて安心や。それにミヤビちゃんみたいな子は、自暴自棄になってもおかしないけど」

 ずるり、と店長が麺をすする音が店内に響いた。

「アユちゃんがおるから、安心やな」

「……せやろか」

 冷蔵庫にもたれかかるようにして、店長は朗らかに笑う。美奈は思わず顔をうつむけた。

「店長、あんな。ミヤビちゃんは、人を、好きになれへんの」

 人を好きになれないのだ。と彼女が言ったのは高校の卒業式。

 それはまぶしいくらいの夕日が射し込む教室である。大人びた顔立ちの亜由美は、制服が似合っていなかった。

 その制服を真っ黒なコートで隠して、亜由美は吐き捨てるように言った。

 直前に、彼女は見知らぬ男から告白を受けた。そんなこと、これまで何度もあった。亜由美は綺麗で目立つのだ。

 最後に告白してきた男は、亜由美にあっさり断られると途端に態度を変えた。人を好きになれない亜由美を異常者だと馬鹿にして、去っていった。

 そのあと、初めて亜由美は怒りという表情を見せた。

 そんな亜由美を慰めることも、取り繕うことも、当時の美奈にはできなかった。

 亜由美の言葉が、美奈の胸を貫いたのだ。

 その傷はいまだに癒えないし、見えない血がいつまでも流れている気がするのだ。

「それは男に対してやろ。友達に対してはまた違うで。それにアユちゃんは、故郷から追いかけてきて、心配して一緒にホステスなったくらい友達孝行な子やん。そないな子に冷たくできるかいな」 

 店長はなにも知らない顔で朗らかに笑う。すっかり温くなったラーメンをかみしめて、美奈は泣きそうになった。

 美奈がこの道に入ったのは1年前。しかし亜由美がホステスになったのはもう、4年も前のことだ。

 亜由美は高校を卒業すると同時に、すべてを捨てて大阪に出た。そしてホステスになった。 

 卒業式の一件以来、美奈は一度も亜由美に出会えずにいた。出会えたのは奇跡だ。たまたま就職活動で大阪に出た際、彼女を見かけた。

 問いつめ、避けられ、怒られ、あきれられ、まるで出会った頃と同じことを繰り返したあと、美奈は亜由美の働くクラブに半ば強引に入店した。

 ホステスとして働くのはもちろん、飲食店のバイトだってはじめてだ。客には泣かされ、ホステス仲間には幾度も小馬鹿にされた。昔はもっと、客にも舐められていた。

 それでも辞めずに働き続けてこられたのは、亜由美の存在があったから。

 この地でラーメン屋を開き多くの女達を見てきた店長は、これまでいろんな恋物語を見てきたはずだ。

 そんな人の心の機微に詳しいこの店長にも、美奈の秘めた想いはわからないだろう。

「アユちゃんとミヤビちゃんは、姉妹みたいで見てて安心するんやわ、おっちゃんは」

「そうやろうか……」

 そうではないのだ。と美奈は心の奥で必死に叫んだ。そうではない。そうではないのだ。

 いや、亜由美にとって美奈はそうなのかもしれない。手間のかかる、泣き虫な妹。

「……でも、ちゃうねん」

「何が?」

 店長が顔をのぞき込んだので、美奈はカップ麺のスープを啜ることで顔を隠した。

「なんでもない……安心してくれるなら、そうなら、ええんやけど……」

 ……美奈は、亜由美に恋をしていた。おそらく、高校の時代から。

「それなら、ええねん」

 塩辛いラーメンのスープを飲み干して、美奈はつぶやく。

 それは、いつか飲み込んだ涙の味に似ている。



 1月も半ばになると、寒さは一段と増した。風は冷たく、町を歩く人に容赦なく降り注ぐ。

 しかし北新地で働くのであれば、薄着であっても寒がってはならない。凛と、胸を張って歩く。

 なんとか震え顔を押し隠し、美奈は最後の客を送り出す。ホッと安堵したのはその一瞬だけ。

 そののち、店のママより告げられた一言に美奈の心は大いに乱れた。

「……え、私、ドレスなんですか? ドレス、着るの?」

「しゃあないでしょ。この店の人気順なんやから」

 化粧を落としながら、ママが美奈を睨む。営業終了の看板が店の前に吊り下がると、アフターのない女の子たちは揃って化粧を落とし始める。それは、年増のママでも同じこと。

 指が顔を撫でるたびに、皮膚から歳相応の疲れた色が滲み出る。それを隠すこともせず、彼女は堂々と鼻の下を掻いた。

「アユは去年のドレスが人気やったからね。あんた、幼い顔してるし、かわいいドレスが似合うんやわ。今年は去年より可愛らしいふりふりで歩きな。でも、ドレスのほうがましやで、ミキはバニーガール、ケイはナース、こっちはドレスより冷えるからなあ」

 ママは太い足を組んで、かかかと笑う。綺麗な女ではないが、いかにも豪快だ。おかげでこの店には、豪快な女が多い。

 名前を呼ばれた女たちもまたメイクを落としながら黄色い声をあげる。

「ママァ、バニーは寒いわ。せめてキグルミにしてえ」

「ミキ、さっぶい節分に、バニーするのは女の意地よ。ホッカイロ貼って根性見せとき……そんで、ミヤビは花魁。そのお付の若衆は、シノブやな。うちの店の人気ナンバーワンのシノブがちょんまげ男装、ナンバー2のミヤビが花魁。これは目立つで」

 メイク落としのクリームを鼻にのせて、ママは笑う。しかし美奈は笑えない。立ち尽くしたままおろおろと、周囲を見る。

 しかし、誰も美奈を見ない。意地悪なホステスたちは顔を見合わせにやにや笑い、亜由美は興味もないのか隅っこで足を組んだまま目を閉じている。

 ナンバー1と名を挙げられたシノブもまた、このような話に興味もないのかそさくさと着替えをしているところである。

「いやです」

 美奈は駄々っ子のように、唇をかみしめる。シノブの、綺麗に整った顔を、ぐっと睨む。彼女は不思議そうにきょとんと首をかしげた。

 彼女は確かに、目を惹く容姿をしていた。薄暗い店内でも、どうすれば綺麗に見えるか完璧な計算の上で動いていた。

 彼女は数年前、ミス北新地に選ばれたことがある。顔の美しさはもちろん、所作から性格から、北新地の奇跡と呼ばれた。今もまた、疲れた顔ひとつ見せはしない。

 話術も巧みで、仲間のホステスへの気配りもうまい。新人の美奈に優しく声をかけてくれたのも、彼女だ。

 しかし、美奈は震える声で泣きそうな声で、つぶやいた。

「……シノブさん、男装や似合わへん」

 言ったあとに、美奈の顔から血の気が落ちる。気がつけば、ホステスが全員、ぽかんと美奈を見つめている。

 それに気づいて、美奈は思わず店外に駆け出す。皮膚に冷たさが突き刺さる。その寒さも忘れて、がむしゃらにビルを飛び出し、おろおろと道を渡る。しかし、行く宛もなく、足をとめる。

 その美奈に鋭い声が突き刺さった。

「美奈!」

 追いかけてきたのは、意外にも亜由美である。

 逃げ出そうとした美奈の手を、亜由美は乱暴につかむ。引っ張られたが、美奈は顔もあげられない。

「美奈、シノブに謝りな」

 低く、静かな声だ。しかし、その声は怒っている。7年間、怒らせ続けた美奈なら分かる。

「あの子、そんくらいじゃ怒らへんけど……でもあんな言い方、あんたが悪いわ」

「だって」

「だってでも、ない。なんでシノブを悪くいうの。若衆、あの子がするのそんなに悪いことなん」

 冷たい1月の風が肩出しドレスの上を滑っていく。

 しかし震えるのは、寒さのせいだけではない。

「嫌なんやもん」

「なにが」

「……嫌なんやもん、あーちゃんが花魁するなら、隣でリードする若衆は私やないと、嫌なんやもん」

 早口に言葉を吐き出すなり、美奈は駆け出す。

 美奈。と叫ぶ声が耳に刺さったが、足を止めることはできなかった。

(……嫌なんやもん……)

 ドレス姿の細いピンヒールのまま、駆け出した北新地は夜の帳に覆われ黒の世界。

 光も差し込まない道の真ん中で、美奈は子供のように泣きじゃくる。

 通りすがる酔っぱらいの下卑た笑いが美奈の心をさらに暗くする。そんな声を、払ったのは明るく綺麗な声だった。

「ごめんごめん、この子酔ってて」

 背に温かいコートが乗る。それは人のぬくもりを吸い込んだ暖かさだ。

 どろどろに泣き濡れた顔を上げると、そこに笑顔のシノブが立っている。

 美奈の不用意な一言のせいで嫌な思いもしたはずだ。しかし、その顔に怒りも呆れもなにもない。ただ、きかんきのない子供を見る顔で笑う。

「かえろ、アユちゃん」

「し……シノブさん」

「な。寒いから、もどろな」

 泣いていることも、涙のせいで化粧が剥げてどろどろになっていることも、シノブは笑わないし嫌な顔もしない。

 ただ、ぽん。と美奈の背を叩いた。

「ほんとは、ここにおるのが私じゃあかんのやろうけど、今は私で堪忍してな」

 困ったように微笑む彼女の顔に、今宵最後、名残のネオンの光が差し込む。

 疲れも見せない彼女の顔は、化粧がとれても綺麗なまま。自分はどうなのだ、と美奈は恥じ入るように俯いた。

「私もさぶなってきた。なあ、お店にもどろ。あったかいココア入れてあげるから、一緒にのも」

「……うん」

「ココア、マシュマロいれよな。アユちゃんの好きなイチゴ味のマシュマロ、買ってあるねん」

「……うん」

 子供のように落ちた涙が、冷たい地面にいくつも跡をつける。それだけが美奈の脳内に焼きついた。



 久しぶりの休日。

 目覚めるつもりもなかったのに、気がつけば13時前。

 目が覚めて、美奈は自然に鏡に向かっていた。そしてまるで手癖のようにメイクが終わる。鏡に写った自分は、いつもよりも落ち込んだ顔だった。

 どんよりとした冬らしい日差しが鏡の向こうに見える。

 携帯には、亜由美の着信が数度あったが、無理やり電源を落とす。ベッドに投げつけようとしたが、投げきれず抱きしめる。その冷たい塊が、いつか握った亜由美の手のようで、美奈は一回だけ泣いた。

 まるで癖のように外に出たものの、いつもの喫茶店には足が向かなかった。カレーとコーヒーの香りを今、嗅ぐのは辛かった。

 仕方なく、さまよい歩いた結果たどり着いたのは小さなカフェ。

 いかにも女の子好みしそうな、緑と白を基調にした雰囲気のカフェの中、イチゴのタルトを注文する。間もおかずテーブルに運ばれてきたそれは、いつもの喫茶店のものよりおしゃれで小振りだ。

 イチゴの上にビニールなんて乗っていない。

 広い皿の真ん中に、赤いケーキがぽつんと置かれている様が寂しかった。

 一口、食べて美奈はフォークを置く。酸っぱくない、優しく甘い。カスタードもミルク風味のとろける味わいで、柔らかい。生地もバターの味がたっぷりで、口の中でほろりと崩れる。しかし。

(美味しくない)

 と、美奈は思った。申し訳程度に食べて、席を立つ。

 外はもう冷たい風だ。空気も薄暗い。それでも北新地は変わらずぎらぎら輝いている。

(……かえろ)

 足を返そうとした、その瞬間。

「あ」

 目があって、どちらからともなく声が漏れた。

 まるで偶然。人の雑踏の向こうに、亜由美の顔がある。

 例の一件のあと、店でも亜由美と美奈は口をきかなかった。

 ママやシノブが気を使う様子も見えたが、美奈はけして亜由美に近づかなかったし、亜由美もまた様子を探るように沈黙を守っていた。

 二人のせいで店の空気は重苦しく、叱られたのは昨夜のこと。

 目を合わせることもできず、突入した休日。明日以降、どのように過ごすべきか。悩んだ矢先に本人がそこにいる。

 逃げ出そうと背を向けたが、それより早く亜由美の体が美奈の前に滑り込んだ。

「待ち」

 珍しく亜由美の目が尖っている。彼女は無言で美奈の手を取ると、無理やり歩き始めた。その勢いに、周囲の人間がさっと道を譲る。高いヒールで、彼女は遠慮なく歩き、気がつけばいつもの喫茶店の前に立っていた。

 覗きこめば、いつものマスターが申し訳なさそうに手を合わせる。

 普段はそれほど混み合わない店内が、白い煙に覆われていた。この店は少し時間をずらしただけで、サラリーマンの憩いの場となってしまう。

 安堵と、ほんのすこしの落ち込みを顔の奥に隠して美奈は数歩、下がる。

 が、亜由美の手は美奈を離さなかった。

「無理かな、お店」

「珍しくいっぱいで……ああ、奥のソファー狭いけど詰めたら二人並んで座れるわ。荷物どけるし」

 毎週のように訪れる常連客に対する気安さからか、店主もまた二人を引き止める。そして店の一番奥、二人がけの小さなソファーが開けられた。

 案内されて仕方なく、美奈は腰をおろした。狭いソファーは並んで座ると肩が触れ合う。触れ合ったところが熱く、美奈はそっと体をそらす。

「美奈、こっちおいで」

 が、すぐさま亜由美の手が美奈の体を引いた。

「ここエアコン届かんし、寒いしこっちくっついて」

「……あーちゃん」

 ケーキと紅茶と珈琲にカレー。注文しなくても、机の上に並べられる。それを見つめながら、美奈はようやく口を開いた。

「私な、知ってんねん」

 ぷん、と鼻に届くのはコーヒーにカレーに、そしてタバコ。

 ふんわりと染み付いた、因果のような香りだ。

「あーちゃんが私に、責任感じて優しくしてくれてるって知ってるねん」

 小さな声だが、亜由美は明らかに動揺した。めったに感情の動かないその黒い目が、泳ぐ。

「あーちゃんのせいで、私がこの道に入った、そう思って責任感じてる。知ってるねん」

「美奈」

「うぬぼれんといて」

 美奈は吐き捨てた。

 一年前、飛び込んだ水の世界は厳しく苦しくそのくせ、不思議と明るい世界だった。

 確かにきっかけは亜由美だった。溺れる亜由美を助けるつもりで飛び込んだ。

 しかし、そこは冷たく暗い世界ではない。今では、この町から離れられない。

「それはそうやったけど、今はすごい楽しいし、すごい合ってると思うし」

 そうだ、この町は思ったよりも冷たくない。思ったよりも苦しくもない。

 毎日がネオンと化粧で顔を覆って馬鹿騒ぎ。浮世から離れられる、それがこの町。

 その馬鹿騒ぎは、おばけの日に最高潮に達する。

「……だから、あーちゃんがミスに選ばれたのが本当に嬉しいし、私がその隣を歩きたい……私は、あーちゃんの」

 ソファーの席は店の隅っこだ。そのせいで、エアコンの温かい風は届かない。足元から上がってくる寒さに指が震え、ケーキの上に乗ったビニールがうまくはがせない。

「あーちゃんの……」

 亜由美の手が見かねたように、ビニールを剥がした。赤いジュレが、宙を舞う。

 美奈の手についたジュレを、亜由美の細い指が拭う。

「……友達やから」

「……そうやな」

 亜由美が美奈の頭をなでた。それはひどく冷たい。もしかすると美奈を探して、ずっと梅田のあたりでさまよっていたのではないだろうか。そう考えると、胸が締め付けられるように痛くなった。

「シノブが、美奈に譲ってくれるって、男装役」

 しん。と店内が静まり返った。ちょうど、音楽が切り替わるところである。軽快なジャズのかわりに流れ始めたのは聞き覚えのあるクラシックだ。

 そうだ。この店で何度も聞いた音楽を、めざましの音楽にしたのである。

 目が覚めるたびに、カレーとコーヒーの交じり合ったこの空気を思い出す。それと同時に、亜由美と過ごす1時間を思い出す。

 これからは、触れ合った肩の暖かさを思い出すに違いない。

 それは、ひどく切ない思い出の上書きだ。

「お礼言うときや」

「……うん」

 俯いたまま、口に含んだ赤いいちごはいつもより酸っぱい味がした。



 おばけの日。大阪には珍しいくらいの雪が降った。

「ひゃあ。積もってるで。これは歩くのきっついなあ」

 どこかのホステスが悲鳴をあげる。その通り、見慣れた北新地の町並みには白い化粧が施されている。

 おばけに扮したホステスたちが集められたのは北新地の隅にある、無機質な建物の中。そこでは、僧侶が集まり、声明という歌声を上げている。

 美奈に小難しいことはわからないが、朗々と響くその声は寒空のなかに高く低く響いて夜の空気を震わせる。

 それが終われば、法螺貝の音とともに布の龍が町をゆうゆうと泳ぎはじめる。

 そのあとを、ホステスのおばけが続いて歩く。

 それまでは、待ちぼうけだ。

(……寒いなぁ)

 薄い着物に身を包んだ美奈は手で腕をいくどもさすった。

 息を吐くと闇の中に白い煙が吸い込まれる。普段と同じ夜なのに、どこか空気が引き締まっている。非日常な町で、非日常が起きているのだ。

 仮装を終えた周囲のホステスたちもどこか落ち着きがなく、そわそわとお互いの写真を撮り合ったりしている。

 厳かな声明の声に、舞踊の音楽。そして携帯のシャッター音が賑やかに夜の町に響く。

「やっぱり可愛いわあ。私がするより、ずっと可愛い」

 ふ、と美奈の前に影が落ちた。慌てて顔をあげると、そこには綺麗なOLが立っている。どなたさま。と声を掛けかけて、美奈は、あ。と口を抑えた。

「シノブさん!」

 目の前に立つ女は綺麗な髪を一つにまとめ、薄化粧。

 白いシャツに紺色のベスト、そしてタイトな紺色のスカート。ピンク色のカーディガンに身を包み、小さな鞄を手に持つ姿はどこからどうみても、ただのOLだ。それも、相当に綺麗な。

 しかし、その顔をよく見れば、シノブなのである。

「男顔やないアユちゃんがどう変わるんかと思ったけど、やっぱり、プロの腕はすごいねえ」

 彼女はいたずらっぽく微笑んで、美奈の顔を覗き込む。

 今や美奈は、すっかり男装の成りである。青い着物に格子模様の帯を締めて、頭にはちょんまげのかつらをかぶり、目元は男らしくきつく彩った。

 恐る恐る鏡を覗き込み、美奈自身が驚いた。そこにいたのは、目元も爽やかな男だったのである。

「これなら立派に花魁を守って歩けるね」

「シノブさん、私、あの私」

 驚きの声と謝罪の言葉が美奈の口で震えて交じり合う。今にも泣きそうな美奈に気づいたのか、シノブが慌てて首をふる。

「ええのよ。もう。謝らんといて。また泣いたらお化粧落ちる。それに、もともと男装はしたくなかってん」

 シノブはその場でくるりと回って見せた。

「ほんまよ。だって私、このコスプレがしたかったんやもの」

 寒い空気を払うように、彼女が動くと不思議なあたたかみが生まれた。紺色のタイトスカートから伸びる綺麗な足は北新地の雪をしっかり踏みしめていた。

「どう、似合うやろ」

「はい、すごく」

「慣れてるもの」

 そしてシノブは悪戯っぽくウインクして見せた。

「見たことないでしょ、私のOL姿。初披露よ」

「してるの、普段?」

「お客さんにも、みせたことないの。私のこの格好知ってるのはひとりだけ」

「え、彼氏?」

「まさか」

 ぱっと花が散るように、シノブが笑う。周囲の女達が振り返るほど、大きな声で。

「ちょっと縁のある人。今日、たぶん、来るとおもうから、見せておどかそ、おもて」

 シノブの目は、群衆を挑むように見つめている。カメラを持った男たち、テレビ局、通りすがりのサラリーマン。みんな、華やかな女達の化け姿を興味津々に見つめている。

 その目線に、優しく挑むように彼女は胸を張る。

「お互い、化かそ。それが、私達の仕事やろ」

 まるで踊るようにシノブが去ったあと、雪がまた降り始めた。いい加減寒さにも震え飽きた頃、美奈の背に温かいものが触れる。

「……アユ」

 振り返らなくても、分かった。

「おまたせ」

 男役の美奈よりも、圧迫感がある。足元を見れば、雪に映える赤漆のぽっくりが見えた。こんなものを履いているから余計に、背が高い。

「……」

 振り返り、美奈は息を飲んだ。

 目の前に、花魁がいる。

 艶やかな赤い着物はどっしりと重く、高く結い上げた髪には絢爛豪華な飾りもの。垂れた帯には金糸に銀糸が贅沢に縫いこまれ、赤いぽっくりに白い素足が痛々しく眩しいほど。

 顔は真っ白に塗りつぶされ目元と唇だけがくっきりと赤い。上品に抜いた襟から見える肌も白く塗られ、それは雪に溶けてしまいそうなほどである。

 しかしその目の奥は見覚えがある。美奈もよく知っている亜由美のものだった。

「あーちゃん……綺麗」

 思わず本名でつぶやくと、つややかな赤い唇がゆるやかに微笑んだ。

「美奈も、かいらし」

 微笑んだ彼女の体を支え、震える足で一歩二歩。いつもの癖で彼女の袖を握ると、亜由美は帯につながる組紐をそっと差し出した。

「……転ぶと危ない。これ掴んどき」

 西陣織の組紐は手触りもつややかで心地良い。それをきゅっと握れば、真後ろにいた女がくすくすと笑った。

「なんや深刻な顔して、まるで心中物みたいやわ」

 それは見知らぬ女であるが、明らかに花魁に対する妬みが見て取れる。安っぽいセーラー服を着込んだその女は、へらへら笑いながら、すぐさま去っていく。追いかけようとした美奈を留めるように、亜由美が組紐を引いた。

「……」

 風が急に吹き付けて、女達が楽しげに悲鳴を挙げる。真っ白な雪が舞い吹雪く。

 その中で、組紐の赤だけが不思議と眩しい。

 そういえばこのパレードでも、曾根崎心中で知られるお初の人形が舞うのである。叶わぬ恋の女郎の物語は、美奈の心に刺さるのである。

「死なへん……」

「せやな」

 肩を落した美奈の横に寄り添って、亜由美が妖艶に微笑む。

「私も死なんよ。死ぬならもうずっとまえに死んでる」

 赤の組紐を、亜由美がしっかりと美奈に握らせる。美奈はそれをそっと、小指に巻きつけた。

 亜由美から伸びた赤い糸はまっすぐ美奈につながる。それを見ても亜由美は何も言わない。ただ、急かすように歩き始めた。

「しっかり私のこと、リードして、守って、隣で歩いて」

 目の前は、真っ白だ。雪がますます強くなる。これまで見たことのないような北新地だ。その町へ、女達は堂々と挑むように歩き始める。

 足が、じゃりりと雪を踏みしめた。

「さあ、化かしにいこか」

 誰かが言った。それを合図にしたように、行列が進み始める。

 先導するのは薬師堂の提灯だ。そして鬼に扮した男たちに山伏の行列。響く法螺貝の音に、鬼たちが狂ったように舞う。

 ……そして闇の中、まるで宙を泳ぐように龍が現れた。

 布で作られているはずのその龍は、凄みのある顔で町をにらみ宙を泳ぎ始める。その長さ、十メートルはゆうに超える。真っ赤な体をくゆらせて、多くの持ち手によって運ばれる。

 その龍は薬師堂に祀られる弁財天の化けた姿。

 弁財天は芸の神様なのだから大事にしなくてはならないと幾度もママに叱られた。そんな弁財天も化けるのだから、ホステスが化けるのも道理である。

「打ちましょ」

 胸を張って、一歩二歩。歩きながら亜由美がつぶやく。

「もうひとつせ」

 それは、大阪手締めと言われる独特な手打ちの声だ。

「祝うて三度」

 二人のふるさとは大阪ではない。しかし、その言葉は自然と覚えた。

 手を小さく打鳴らす、一度二度、そして三度。

「……祝うて三度」

 行列の先頭に立ってまっすぐ顔をあげ、一歩一歩と進む亜由美は眩しいほどである。

 その隣に立ってせめて背をまっすぐ整えて、美奈も歩き始める。

 悲しいことも嬉しいことも飲み込んだこの街で、化けた行列が進む。

 真っ白な雪が、おばけたちの進む道を祝福するように眩しく輝いていた。

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