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girls

プリンとツーブロック

作者: 丸屋嗣也

 そろそろ寒くなり始めたので、長くなった髪の毛を切ってみた。

 そう切り出すと、皆一様に変な顔をする。中には、「それ、今一つ理屈が通らないんだけど」と言ってくる人もいるけど、僕はそうは思わない。

 僕の仕事はパソコンの前で完結する。だから、夏の間だろうがなんだろうが髪の毛が長かろうが短かろうがどうでもいい。そして、夏の間は超絶に忙しくて、ようやく秋口に入ってから暇になった。その二つがあって、ようやく涼しくなったこの時期に髪の毛を切ることが出来たのだ。

 というわけで、洗面所の鏡の前でにんまりとする。

 今回は結構剃り上げたなー。サイドの髪の毛を持ち上げながら、僕はひとりにんまりとする。

 僕がしてもらった髪形は、いわゆるツーブロックというやつだ。トップの髪の毛はそこまでボリュームを変えず、サイドを剃り上げる。普段はトップの髪の毛でそれを隠している。髪の毛が多く、伸ばしている間はなんとなくもわっとしてしまう髪質の僕がそれをすると、頭の大きさが三分の一になる。

 とは申せ、僕もサラリーマンなのでそこまで派手な髪型には出来ない。

 なので、この数か月、僕は牛歩戦術をとっていた。

 最初はほんの少し、二回目は少し剃り上げる範囲を広げる。三回目は剃り上げる髪の毛の長さをさらに短くする……。そうやって、服務規定にうるさい上司や、後輩の足を引っ張るのだけが生きがいとしか思えない先輩方の視線をごまかして、ついにはいわゆる絵に描いたようなツーブロックが完成したのだ。

 まあ、おかげさんで誰にもこのツーブロックに気づいて貰えないのだが。

 会社で社内SEのようなことをやっている、要は誰とも交渉事をせずに過ごしている僕だって、一応は男なのだ。受付の女の子とか、営業の女の子に「キャーかっこいい」とまでは言われないまでも、「あれ、髪の毛切ったんだ」くらいのことは言われてみたい。でも、会社の中でそもそも存在感のない僕は、どうやら彼女たちの目には映らないらしい。それどころか、同期の営業職・杉崎が髪の毛を切ってきたことが話題に上っているようだった(ようだ、と伝聞でしか語れないのは、今度入る新人さんのためにパソコンの設定をしている横で、女子社員たちがそんな話をしていたからだ。当然僕はその会話に参加していない)。

 はあーあ。

 髪型を変えたくらいじゃあ、変わりはしないか。

 そうため息をついていると、玄関の方からブザー音がした。

「ああ、はいはい只今」

 スウェット姿のまま玄関のドアを開くと――。

「開けるのが遅いよ」

 うわー、来ちゃった。僕は心の中で声を上げた。

 Tシャツにデニムのパンツというラフな姿が、短く揃えられた髪型によく似合う。僕よりも頭一つ分高い上背をふんぞり返させながら不機嫌そうに立つのは――。

「よ、よう、七海」

「おう」

 幼馴染の七海だった。

 今年で大学一年生になる七海とは、かれこれ十数年の付き合いになる。親同士が知り合いだったとかで、それこそ三歳児の頃から見知っている。

 でも、僕は正直、七海にいじめられた記憶しかない。

 断じていじめたのではない、いじめられたのだ。

 小さい頃からきかんぼうの癇癪持ちで僕のことをサンドバックよろしく殴る蹴るしてくる子供だった。それは、僕が社会人になって、七海が僕の身長を超した頃になっても変わらなかった。小学校からやっていたバスケットボールのおかげでぐんぐん身長が伸びた七海が、僕の頭をボールに見立ててダンクシュートの真似事をした時があった。その時には、ぐきっという嫌な音と共に意識が飛んだ。

「あ、あれ、七海、学校はどうした? 大学、東京のほうだろ?」

「帰省中」

「え、でも、今この時期に帰省? なんで」

 にべもなく、七海はこめかみのあたりの髪の毛を払った。

「ん、夏の大会に、世界大会で夏休みがずれ込んだだけ」

 小学校から始めたバスケットボール。最初から相当ずば抜けて上手かったらしいのだけれども、気が付けば上級生たちを抜いて学校のエースになった。のみならず、県選抜の選手になり、県チームとしてはさほどの成績を収めなかったながらも個人タイトルをいくつか得たようだ。そのままスポーツ推薦で地元の強豪高校へと進み成績を上げ、今では東京の大きな大学でバスケットボールをやる毎日だという。今や、全国大会で七海の名前は知れ渡り、ユースの世界大会でも注目され始めているという。

 そんな七海は、あんまり地元へと帰ってこない。

 どこか七海がやってこないのを喜ぶ僕がいて、七海がやってこないのを寂しく思う僕がいて。

 と、ふいに七海は不機嫌な顔をした。

 どしたの、と聞くと、七海は頬を膨らませた。

「いつまで玄関先に立たせるつもり」

「あ、ああ」

 やっぱり上がっていくの、なんて言ったら、いつぞやの顔面ダンクシュートを受けかねない。しぶしぶ、

「じゃあ、上がっていく? あ、いや、嫌ならいいんだけど」

と声をかけると、七海は靴を脱ぎ捨てて玄関に上がり込むや、僕の脇をすり抜けた。

 その瞬間、甘い香りが僕の鼻をくすぐった。

 柔軟剤と髪の毛と、そして女の子の甘い香り。

 ああ、大きくなったんだな。

 僕はやたらに大きな七海の背中を見上げながら、小さくため息をついた。

 と、七海は僕の方に振り返った。

「ねえ、いつまでそこに立ってるのよ」

「あ、ああ、ごめん」

 僕が示すでもなく、七海はリビングへと向かっていった。この一人暮らしの家は、高校時代、毎日のように七海が来ていた。そのころから全く模様替えしていないから、きっと七海は目隠ししてもこの家の中を歩き回ることが出来るんだろう。リビングに寄る前にキッチンに折れて、冷蔵庫を物色して舌打ちをするや、七海はまたリビングへと向かっていった。その七海の手には、なけなしの百円プリンが握られていた。

「あのう、それ、僕の楽しみにしてたプリンなんだけど」

「しけてんね」

「うるさい」

 きっと僕を睨む七海。けど、ふいに柔らかく微笑んだ。

「もらうね」

 そう言い終わる前に、七海はその蓋を開いていた。

「ああー」

 そんな僕の断末魔になど知らんぷりを決め込んで、リビングの座卓の前に座った七海は、大きな体を折り曲げるようにして座って、いつの間にか持ち出していたスプーンでそのプリンをすくった。猛獣を前に己の死を覚悟する哀れな子羊よろしくふるふると震えるプリン。そのプリンを見やりながら、猛獣、もとい七海はにんまりとしてひとさじ分のプリンを口に流し込んだ。

「おいしい」

「ああ、そうだろうね」

 遅れてリビングに入った僕はため息をついて七海と差し向かいに座った。

 小さなプリンを後生大事そうに食べる七海は、僕の視線に気づいたのか、む、と首をかしげた。

「もしかして、プリン、食べたい?」

「うーん、もういいや」

「まあ、そう言うなよ」

 スプーンですっとプリンを切り取った七海は、座卓越しにそのスプーンを僕に差し出してきた。

「はい」

「いや、だからいいって」

「――はい!」

 いこじな顔をして七海は僕に向かって顎をしゃくった。

 食べろということなのだろう。

 こうなっては七海も何も聞かない。なので、差し出されたスプーンを口に近づけた。ひんやりとしたスプーンの感触が僕の唇に当たる。それに遅れて、冷たいんだけどふにふにと柔らかい、プリンの感触が僕の唇を撫でた。吸うようにしてそのプリンを口の中へと入れた。

 すると、満足げに頷いて、七海はまたプリンを食べ始めた。

「七海」

 七海はプリンを食べるまま、僕に向いた。好奇心でいっぱいの大きな瞳は子供の頃から変わらない。でも、僕の前に無防備に胡坐をかいて座るのは、子供の七海じゃない。その事実に、なぜか心臓が弾んでしょうがなかった。

「最近どうなんだ、これ」

 僕がシュートをする真似をしてみせると、途端に七海は不機嫌そうな顔をして、長い腕で僕の頭を小突いた。

「何すんだ」

 と、七海は下を向いてしまった。

「どうしたんだよ」

 下を向いたままの七海は、ゆっくりとデニムパンツの袖をまくり上げた。

 白い七海の足。その途中に、ぐるぐる巻きにされた包帯があった。

 これは――。

「怪我、しちゃって」

「そりゃ、治るのか」

「微妙、かな」七海は苦笑いを浮かべた。「腱を傷めてるくさいんだよね」

 運動というものをまったくしてこなかったから、腱なるパーツを傷めることでどうなるものか分からない。でも、プロ野球選手なんかが腱の故障をくせにすることもたまに聞く。もしかすると、スポーツ選手にとってはそれこそ選手生命に影響するようなものなのかもしれない。

 きっと深刻な顔を浮かべてしまっていたんだろう。そんな僕のことを七海はまた小突いた。

「そんな顔しないでよ」

「ごめん」

 と、七海は、諦めたように笑った。

「もしかすると、駄目かも」

「え」

 七海は堰を切ったように喋り始めた。この故障で数か月は選手としての活動ができないこと、復帰できるかどうかも不透明なこと、復帰できたとしたって今の立場を守れるかどうかもわからない。それに、もし回復したって爆弾を抱えた足でどこまで出来るかわからない……。

「そのこと、おばさんには?」

 おばさん、七海のお母さんだ。

 でも、七海は何も言わずに首を横に振った。

 親にも喋れない。

 僕には分からない。でも、もしかすると、自分の身一つで世間に挑もうとする人っていうのは、大なり小なりこういうところがあるのかもしれない。自分で全部決めないとならない。自分で乗り越えるなり諦めるなりしなくてはならない。

 すごく遠いところに七海がいるような気がした。座卓一つを隔てたその距離が、ひどく遠い。

 と、七海はぽつりと口を開いた。

「どうしたらいい? 私」

「え? どういうことだよ」

「聞いてるの。どう思う、私、このまま頑張れるかな」

「えっと……」

 答えに窮してしまった。

 僕は医者じゃない。七海の足のことなんてわからない。それに僕は七海の親じゃない。七海の心の強さなんてわからない。僕はただ、七海の成長をずっと傍観してきただけの――近所の兄ちゃんだ。

 でも。

 七海は、僕の答えを待っている。

 僕は答えた。

「頑張る頑張らないは七海の自由だよ。――でも、もし駄目だったら帰っておいで。僕だったらいつでもここにいるから」

 すると、七海ははっと顔を上げた。

 いつの間にか七海を覆っていた陰気の気が吹き飛び、いつもの不敵な七海の表情に戻っていた。

「生意気!」

 そう呟いた七海は、怪我人とは思えないような俊敏さで座卓から乗り出して、僕のこめかみあたりに拳骨に握った両手を伸ばした。間違いない、これは、両拳骨でこめかみを潰す技、ウメボシだ。

 でも、あ、と短く呟いた七海は、握っていた両手を広げて、優しくこめかみのあたりを触った。

 ざわざわとした感触が走る。くすぐったいのと温かいのが混じり合って、なんだか心地よかった。

 しばらく僕のサイドを撫でていた七海は、思い出したように声を上げた。

「あ、ツーブロックにしてるんだ。生意気」

「なんで生意気なんだ、ツーブロックで」

「だって、私が覚えてるのは、髪の毛をぼさぼさに伸ばしっぱなしの姿だもん」

「それ、何年前だ」

「――似合うと思うよ、ツーブロック」

「あ、うん」

 七海は顔を真っ赤にして僕のことを見やっていた。気恥ずかしくなって、僕は視線を落とした。と、そこには、大人になった七海の、大きな胸のふくらみがあった。


 すげえなあ。

 リビングに寝そべりながらニュース番組を見やって、僕は缶コーヒーを流し込んだ。テレビの向こうのコメンテーターたちは総理大臣表彰だの国民栄誉賞ものだのと騒いでいる。

 大きな世界大会が終わってもなお、世間は大フィーバーだった。

 女子バスケットボールの世界大会で、日本女子がメダルを取った。ニュースはその大金星でもちきりになっていた。もともと、メダルなんか取れるはずなく勝ちが一つでも稼げれば上々というのが下馬評だった。でも、今大会から招集されたという期待の若手新人が、その下馬評をひっくり返した。卓越したセンスと日本人離れしたフィジカルの強さで外国人選手とも互角に競り合い、ディフェンスの手前からシュートを決める姿は日本中を熱狂させ、世界中を驚かせた。そうして日本はその選手の活躍に引っ張られ、なんと金メダルだ。

 きっと、あいつは自分で自分の殻をぶっ壊した。そういうことなんだろう。

 帰ってきてもいい。

 それはきっと、あいつにとっては屈辱だったんだろう。あのあと東京へトンボ帰りした後、あいつはここへは戻ってこなかった。そして、ユースを飛び越えて日本代表、そしてこの栄光だ。

 まあ、これでいいんだろうな。

 きっと、帰ってこない。高く飛んだ鳥は、後ろを振り返ることなんてない。

 むくりと起き上がって、胡坐をかいたままテレビを消した。

 なんとなく空しくなって、あくびをこいた、その瞬間だった。

 僕の頭の両サイドに、くすぐったくてやわらかい感触が走った。温かくて懐かしい。

 あれ、これは――。

 すると、後ろから声がした。はっきりと、クリアーで、テレビの取材なんかで何度も聞いた、あの声が。

「戻ってきたよ。プリンある?」

 その声に、僕は振り返りもしないで応えた。

「あるよ。僕の分だけど」

「じゃあ、もらう」

「なんでお前はいつもそうなんだ」

「いいじゃん」

「まあ、いいけど」

 すると、後ろの女の声は楽しげにからからと笑った。

「でも、ツーブロック、本当に似合うね」

 柔らかい感触に背中が包まれた。それとともに、懐かしくて甘い、女の子の香りが僕の鼻の奥を撫でた。

 そういえば、僕がツーブロックにしたことを最初に気づいたのはこいつだった。そんな些細で重大なことを思い出しながら、僕はいつの間にか大人になった七海の香りの中で、ゆっくりと瞳を閉じた。


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