妹
教室を去り際にあった妙な感覚も、電車を降りる頃にはすっかり無くなっていた。
改札を出てから十分も掛からずにそれは見えた。たとえ考え事をしながらでも足が勝手に運んでくれる。それくらい何度もこの場所には来た。
病院は昔から好きじゃなかった。
どいつもこいつも無理矢理に笑顔を作り、かと思ったら唐突に泣き出すこともある。喜怒哀楽が滅茶苦茶になるような場所に隔離されている奴の気持ちなんて考えたくも無かった。
病院が好きな人間なんてほとんど居やしないだろうが、漏れなく俺もその一人だった。
――そして、あいつも。
受付で必要事項の記入を手早く済まし、消毒液臭い廊下を突っ切りエレベーターに乗って十一階のボタンを押す。
途中で乗ってくる者はおらず、エレベーターの中は俺一人だけだった。ポーンと鳴った高音が目的の階に到着したことを知らせる。廊下に踏み出し、行き交う看護師たちを横目に、目当ての病室まで足を運ぶ。その扉の前で一つ呼吸を吐いてから、形式的に軽く二度ノックをした。
「どうぞ」
向こう側からすぐに返事があった。それを合図に片手でスライド式のドアを滑らせ、病室に入る。
「お兄ちゃん」
窓際にあるリクライニング式のベッド。そこで上半身を起こし薄いピンクのパジャマ姿で俺を呼ぶ、この世でたった一人の妹。
「佳澄」
「メール無かったから来ないのかと思ってた」
最愛の妹は俺の呼びかけに少しだけムッとして答えた。
元来、素直な性格ですぐ顔に出てしまうタイプだ。そのままだと目を覆い隠してしまいそうな前髪も、ピンで左右に留めているので表情の変化は分かりやすい。そこに俺の経験を加える。
そこから求められる解はご機嫌斜めだということだ。原因はもちろん俺が連絡し損ねたからだ。
「あー、ごめんごめん」
俺は頭を掻きながらベッドの側にある丸椅子に腰を掛けた。
普段なら帰りのホームルームが終わり次第、佳澄にメールを送るようにしている。だが今日に限っては色々と面倒なことがあって連絡する暇が無かった。
「でも来てくれたから許します」
案の定、あっさりと曇り顔は消え去る。佳澄はこういう子なのだ。
「……それに、一つ良いこと気づいちゃったし」
「良いこと?」
「うん。あのね、お兄ちゃんだとノックで分かるの」
「? ノックの音が人と違うってことか?」
「なんていうかね……、お兄ちゃんの叩く音が一番優しい気がするの」
佳澄は嬉しそうに唇を綻ばせる。
「そっか……」
俺はポンと佳澄の頭に手を乗せた。佳澄は気持ちよさそうにくりっとした大きな目を細める。
「でも、すごいな。ノックだけで誰だか分かるなんて」
さすが我が妹。他人が持っていないユニークな特技を持っている。
「分かるのはお兄ちゃんだけだよ」
「えっ、俺だけ? 母さんのは?」
「だってお母さん、ノックしないで入ってくるんだもん」
「はは、母さんらしいな」
家では大概ノックしないで部屋に入ってくるからな。
ん、ということは。
「じゃあ俺も次からはノックしなくていいか」
「お兄ちゃんはダメ!」
「何でだよ!? 母さんはいいんだろ?」
「男の人が無断で女の子の部屋に入るなんて絶っ対にダメだからね」
「男の人って……俺、佳澄のお兄ちゃんだぞ」
「お兄ちゃんでもダメなものはダメなのっ!」
佳澄は両腕をクロスしてお兄ちゃんの無断侵入断固拒否をアピールする。ここまで嫌がられると流石にショックだ。
「子供のくせにそんなこと気にしやがって……」
ぽつりと俺の口から出た言葉に佳澄は猛反対する。
「いつまでも子供扱いしないで!」
「ついこの前までランドセル背負って学校行ってたやつが子供じゃないって?」
「もうっ! お兄ちゃんってば!」
佳澄は小さい拳を振り上げ、口を尖らせる。
「ははは、冗談だよ。ああ、そうだ。これお土産」
ビニール袋をベッドに付属しているテーブルの上に置く。先ほど駅で降りてから近くのコンビニで買ったものだ。
「うわっ、プリンだ!」
袋の中身をのぞき込んだ佳澄はさっきとは打って変わり感嘆の声を上げる。ご機嫌取りの秘密兵器だ。
「プリン好きだったろ?」
「うん、大好き!!」
「やっぱり子供だな」
「むー!」
両頬を膨らませる佳澄。通常、怒りを露わにするそのポーズも、佳澄がやればとても可愛いらしくなるから不思議だ。
「どれ、お子様には俺が食べさせてやろう」
テーブルに置かれたプリンに手を伸ばす。しかし俺よりも速く佳澄がプリンをかっ攫い、大事そうにプリンを抱きかかえる。
「自分一人で食べれますっ!」
俺に向かって悪戯っぽく小さく舌を出す。佳澄に抱いて貰えるとは世界一幸せ者のプリンだな。今だけプリンに、いや、プリンの容器になりたい。
「はいはい、分かったよ佳澄さん」
俺は諸手を挙げ、降参する。
佳澄が備え付けの小型冷蔵庫にプリンを仕舞い終えたのを確認し、ところでさ、と俺は切り出した。
「今日は母さん来たのか?」
「お昼過ぎに私の服とか持ってきてくれたよ。……お母さん、この前よりも疲れた顔してた」
俺たちは母子家庭で育った。
俺の学費や佳澄の入院費も全て母さん一人が賄ってくれている。それもあって仕事が忙しいときは佳澄の見舞いに来られないことが多い。それでも週に三回は必ず来るのだが。
「わたし達が大人になったらお母さんを楽させてあげようね」
真っ直ぐで揺るぎのない視線を受け、俺も佳澄に覚悟を返す。
「もちろんだ」
母さんの苦労はこの世界の誰よりも俺たちが知っている。
一拍おいて、俺は言葉を付け足す。
「でも俺は母さんだけとは言わずに、佳澄の面倒もちゃんと見てあげるからな」
「自分の面倒は自分で見ますよーだ」
佳澄は冗談交じりに笑って返す。
「それとお母さん、昨日のお兄ちゃんが作ってくれたご飯美味しかったって」
「おお、そうか。そいつは良かった」
母さんは帰りが遅く、帰ってくるのは早くても真夜中、遅いと朝方になることもある。 そのため俺が夕飯――母さんにとっては朝食や昼食になる場合もある――を作るのが日課になっている。
「お兄ちゃん、何作ったの?」
「大したものじゃ無いよ。余り物で適当に炒め物を作っただけだ」
昨夜作ったのは、冷蔵庫にあったものをぶち込んだだけの野菜炒めだった。
「ふうん……。でもいいな、お母さんは。お兄ちゃんの手料理食べられて」
「簡単なものだったら佳澄にもまた作ってきてやるよ。何がいい? えっと、この前は何だったかな……」
以前、入院している佳澄のために作ったメニューを思い出す。タッパーに詰めて持ってきたのは卵焼きだったか……いや、それは前々回だったか――。
「……こんなところでじゃなくて、お家で食べたいよ」
俯いた佳澄が震えた声でぽつりと呟く。
「佳澄の病気が治ったらそうしよう。俺と佳澄と母さんの三人で一緒に作るんだ。佳澄の好きな食べ物ばかりをね」
「……本当に?」
「本当に。約束する」
今にも泣き出しそうな佳澄の前に、そっと小指を差し出す。それを見た佳澄は逡巡するように俺を見る。
「約束だ」
もう一度繰り返す俺の言葉に後押しされたのか、佳澄はもう何秒か躊躇したあと、小指だけ残して拳を握る。そして俺より一回りも二回りも華奢で小さな指をぎゅっと掛けた――。
――その瞬間、佳澄の上半身がビクンと激しく上下する。ベッドが軋むほどの動きに唖然としたのも束の間、俺は明らかな異常を感じ取った。
「佳澄!? 大丈夫か!? 佳澄!!」
何度呼びかけても応答が無い。顔面は瞬く間に蒼白になり、両目を見開き焦点はどこにもあっていない。
俺は佳澄の身に只ならぬ危険を察知し、枕元にあるナースコールに手を掛ける。あわやボタンを押すところで白くて小さな手を俺の手首を掴んだ、
「ご、ごめんね、お兄ちゃん。……ちょっとびっくりしちゃっただけ。もう……大丈夫だから」
その直後、ぼろぼろと泣き出してしまった。
「一体どうしたんだ? 俺が何か悪いことしちゃったか!?」
溢れ出た感情が佳澄の頬から顎へと伝い、雫となって落ちていく。
「……ううん、違うの……、違うの……」
鼻をすすり、袖口で目頭を拭い、それでも佳澄が懸命に言葉を紡ぐ。
「ありがとう。お兄ちゃん……大好き」
今にも壊れそうな表情と喉から絞り出したような儚い言葉を受け、本能的に俺はもう片方の手の平で佳澄の頬にそっと触れる。
「俺も大好きだよ」
佳澄は泣きじゃくる顔を夢中で俺の胸に預けてくる。互いの懐かしい香りに身を寄せ合った。
僅かに開いていた窓からは、そよそよと気持ちのいい春風が一つになった俺たちの肌を優しく撫でる。
顔を上げると窓の隙間から空に浮かぶ美しい残照が俺の瞳に映った。
もう日没だ。世界は暗く深い夜へと変わろうとしていた。俺は佳澄の頭に顔を埋め、改めて両手でしっかりと抱いた。
どれくらい経っただろうか。風が冷たくなってきた。
病室を染めていた茜色も今やその温かさを無くし、不安になった俺はもう一度顔を上げた。。
もう窓の外には何も見えなかった。
ただ一つ、窓のすぐ奥にある鉄格子が、鈍く冷たく笑っていた。