暗瀬ヒカリ2
それから今に至る帰りのホームルームまで暗瀬と話す機会はなかった。
一方川嶋は、体育の授業を含め隣で何か話しかけてくるが、ほとんど内容を覚えていない。俺の対応はいつも通り適当に相づちするか、無視するかのどちらかだ。
「今、名前を呼んだ二人はこのあと職員室にくること。それじゃ」
担任教師が締めの言葉で括ったところで本日は終了。『ゲーセン寄ろうぜ』だの『今からバイトめんどくせー』だの口々にしつつ、それぞれが教室を後にする。
俺は前後に二つしか無い扉から所狭しと一斉に十人も二十人も出て行くことに耐えられない性分なので、クラスの連中がいなくなるまで一、二分ほど待つのが常だ。教室が落ち着いてからゆっくりと帰ることにしている。
そして、そんな騒がしい中でも熟睡できるのが目の前にいる、暗瀬ヒカリだ。
暗瀬は俺が五限目の体育から戻ってくると既に机に突っ伏していた。着替えもせず体育着のままだった暗瀬は、六限目開始のチャイムが鳴っても起きる気配は微塵もなく、今の今まで寝入っている。
無論、俺は暗瀬を起こす気など髪の毛先ほどもない。そんな義理はないし、起こしたら起こしたで面倒くさそう――否、面倒くさいからだ。
「嘘……、この子、まだ寝てるの!?」
驚嘆の声を上げたのは昼休みに暗瀬を体育に誘った近藤だった。すっかり暗瀬の寝床と化した机の側にいる彼女は、なぜか訝しげな顔をしている。
「うーん、どうしよっかな……」
一通り暗瀬の様子を見た近藤が呟く。
何をどうするっていうんだ。起こしてやらないのか?
不思議に思う俺の視線に気づいたのか近藤と目が合う。
「――っ」
声にならない声が喉の奥から漏れ、気まずさから俺はとっさに顔を逸らした。
「あ、えーと……、明石君……、だったよね……!?」
名前を呼ばれ自然と肩がビクッと震える。話し掛けられては無視するわけにもいかず、おずおずと視線を元に戻す。
「ヒカリのやつ、体育で人一倍走り回ってたから暫くしないと起きないと思うんだよね。気持ちよさそうに寝てるから今起こすのも可愛そうだし……」
だ、だから俺にどうしろって言うんだ。
「でも私はすぐ部活に行かなきゃいけないから……。もしまだ教室に残るんだったら、明石君が帰るときに起こしてくれないかな?」
申し訳なさそうに言う近藤。
「え……な、なんで俺が……」
「お昼一緒に食べてたから、仲いいのかなと思ったんだけど……」
「い、いや、一緒に食べてた訳じゃ……」
「……もしかして、このあと用事とかある?」
「よ、用事っていうか、その……えっと……」
次々に追い打ちを掛けてくる近藤に返す言葉が出ない。
「僕でよかったら見てようか?」
口ごもる俺に救いの手を差し伸べたのは、隣で俺たちの会話を聞いていた川島だった。
「えっ、いいの!?」
「うん。僕まだ残って勉強するから」
「ありがとう。じゃあお願いね」
川島に謝辞を述べた近藤は足早に教室を後にした。
「明石君も用事があるんでしょ? 暗瀬さんは僕が見ておくから帰っても大丈夫だよ」
ゆっくりと落ち着いて深呼吸でもしたかったが、それ以上にこの場から立ち去りたい衝動に駆られた。
俺は乱暴に鞄を引っつかみ、勢いよく席を立つ。そのせいで椅子が倒れそうになったが気にも止めなかった。
「あっ、じゃあね明石君。また明日」
俺の背中に向けて挨拶する川嶋を無視し出口へと向かう。 途中、どうしても気になったので暗瀬の机の脇を通るついでに、様子をちらっと確認する。
教室側に向けた頭を枕代わりの両腕に落とし、後ろからは分からなかったが涎を垂れ流している。汚ねえなおい。
だが近藤の言うとおりだ。全く、起こしづらい面して寝てやがる。