プロローグ
「最後にもう一度だけ聞くわ。本当にいいのね?」
薄暗い部屋に呼ばれた私は、互いの顔が辛うじて見える距離で足を止めた。
「はい」
間髪入れずに返したその言葉に嘘はなく、何度問われようが答えが変わることも無い。
「……そう、わかったわ」
「すみません、自分勝手なことをしてしまって」
「気にしないで。こっちはこっちでなんとかするわ」
エリカさんはスーツのポケットから煙草を取り出して火を点ける。それは何も無い殺風景な室内を照らし出し、同時にエリカさんの姿も浮かび上がらせる。
欧州風の端正な顔立ちを、パーマがかった赤茶色の長髪が際立たせる。日本人離れしたスタイルの良い身体が黒のスーツを着こなす容姿は、知らない人から見れば洋画に出てくる女優のようだと思うかもしれない。
そして私にとって見慣れたはずの、煙草を咥えた横顔はいつもと違う気がする。
カチン、とライターを閉じる音と共にそれぞれがまた不鮮明になる。エリカさんは狭い密室の空に一つ煙を吐いたあと、それに、と続けた。
「私があなたの立場だったら、私も同じことをすると思うから」
それは間違いない。私が初めて会ったときから、いやきっとそれよりずっと前からエリカさんはそういう人なのだ。
「あなたの力になってあげたいんだけど、状況が状況だから……ごめんね」
「そんなっ!」
望まない謝罪を受け、つい声を大きく張り上げてしまった。そんな自分に驚きつつも、一呼吸おいてから冷静さを取り戻す。
「……エリカさんにはこれ以上ないくらい便宜を図ってもらいました。それに上の目もあります。もしこのことが知れたら、私以上にエリカさんの立場が危うく――」
「自分の立場なんて気にしてないわよ」
私の言葉を遮ったのは、叱るでも律するでもない、柔らかい言葉。
「そんなものに執着がないのは、あなたがよくわかってるんじゃない?」
薄暗い室内でも判る白い歯を浮かべながら私を指さす。
差し出された人差し指へと私は目を落とした。それを見つめながらひたすら悔いる。
不格好な煙草の火とは比べものにならいくらいの鮮やかな紅。
人差し指の爪に塗られたマニキュアは、何年も前から使っているエリカさんのお気に入りだった。
いったい私はどれだけ長い間この人の背中を追い続け、側にいたのだ。
立場なんて気にするような人じゃ無い。この人が気にするのはもっと別なもの。
「すみません、失言でした」
「いいのよ」
少しも気に掛けた素振りがなかったのが私を救い、そして躊躇させる。
――でも、これだけは言わなくては。
「今回の件は私の問題です。これ以上、エリカさん達を巻き込むわけにはいきません。後は全て私に任せてください」
勇気を振り絞った私を待っていたのは、つかの間の沈黙。
視界の隅でエリカさんの持つ煙草の灰が落ちた。まさにそれが合図だったかのようにエリカさんは口を開く。
「……そうね。何度もあなたの決意に水を差すような真似をしちゃいけなかったわ」
言い終えると、――突然、持っていた煙草を真横に投げ捨てた。
私が反射的にそれを目で追う一瞬の間に、エリカさんは早足で私との距離を詰める。次の瞬間にはエリカさんに両腕に包まれていた。
「エリカ……さん……?」
呆気に取られた私を、エリカさんは強く抱きしめる。
「あなたのこと本当の妹みたいに思ってた。たった一人の大切なっ……!」
耳元で囁くわずかに震えた声。
「……でも、それはあなたも同じなのよね」
煙草の臭いと香水の香りが交わるエリカさんの胸の中。
昔、私が煙草の臭いを嫌がったら、何も言わずに香りの強い香水を付けてくれるようになったのを私は知っている。
私が眠っている隙に、両手両足にマニキュアを塗られたのがこの間のようだ。周りが茶化す中、エリカさんだけがよく似合っていると褒めてくれたのが気恥ずかしくも嬉しかった。
他にもたくさん、この人との思い出は数え切れないくらいある。
その懐かしさに後ろ髪を引かれなかった訳では無い。
だが、それでも私の答えは変わらない。
「はい」
先ほどと同じく、たった一言だけ告げる。
どれだけの時間が経ったのか。
私にとって、とても尊い時間が終わった。
「わかってると思うけど」
私を両腕から解放し、そう切り出したエリカさんは、いつもの声音と表情を取り戻していた。
「帰ったら私の言うこと、何でも聞いてもらうからね」
「覚悟はできています」
私の勝手な行動が原因なのだから、どんな罰だろうが甘んじて受け入れるつもりだ。
「まずはあなたがいない間に溜まっちゃう洗濯物を片付けてもらわないとね。それと久しぶりにあなたの手料理が食べたいわ。あっ、そうそう私の肩もみも忘れずに」
笑顔を見せ冗談交じりに言う。そんな気の抜けた罰に、つい私も笑ってしまう。
「エリカさん、それ私がいつもしてることと変わらないじゃないですか」
「あれっ、そうだったかしら?」
二人でしばらく笑い合った後、エリカさんが腕時計に目を落とした。
「そろそろね」
この掛け替えのない時間を惜しみつつも、改めてエリカさんと向かい合う。
「行ってらっしゃい。絶対に帰ってくるのよ」
「はい。行ってきます」
踵を返し、出口へ向かう。
「あ、それと」
ドアノブに手を掛けようとしたところで呼び止められた。
「お土産、忘れないでね」
いたずらっぽく笑うエリカさんにすっかり呆れた私も、口元を緩め、肩をすくめる。
それ以上、私たちが会話を交わすことは無かった。扉を開け、部屋を出る。
私はこの人の元に帰りたいと切に願った。
でも、私にはどんなものに代えてもやらなくてはならないことがある。
たとえ自分が自分でなくなってしまうとしても。