8.期待はもたせない御家柄のようです
ネームプレートの横に在室を示す魔術光がともった白銀の扉。
フォノンさまの研究室だ。
室内からは、なごやかな談笑の声が漏れ聞こえていた。
「――のレポート、よく書けてたわよ」
「本当ですか?」
やっぱり学生が来ているらしい。来客者の存在を知りながら、アルトゥールは躊躇なく戸を押し開いた。
え、ちょ……っそんな堂々と行く!?
「アルさん、待って誰かいるって」
「気にする必要はない」
いやあるでしょ。
あるよね。
「おいフォノン――」
……あるんだっけ?
フォノンさまの向かいには、学園指定のローブをきっちりと着こなした女子学生の姿があった。ちょっとプライドの高そうな横顔……あー見たことあるかもしれない……たしか魔術理論コンぺで表彰されてた成績優秀者の……名前は思い出せないけど私のような模擬戦に進級かけてる人種とは関わりのないタイプの先輩だ。
鬼のフォノン研に通うような学生は自信と向上心の塊かフォノンさま信者が大半なんだけど。
「一般魔術と鏡魔術の式構成の違いについての章、魔力特性に囚われずに文化的背景から考察したのはいい着眼点ね」
「ありがとうございます! あの、じつは卒業テーマに鏡属性の固有術式である広範囲自律型幻術を選びたいと思っていて」
「そうねえ、あれに興味を持つ子は多いけれど」
「フォノンさまの代名詞ですよね? 詳しいお話を聞かせていただけませんか」
「鏡の高位魔術は現実の境界を危うくさせるから、魔力特性が合わないと教えられないのよ。たとえば」
こちらに視線を流したフォノンさまが、パチッと鮮やかなウィンクを決める。銀色の魔術光が火花のように散って、年齢不詳の美魔女を飾った。
「私の『作品』を看破できるくらいにならなきゃね?」
ふっと微笑んだフォノンさまが一歩踏み出すと、もう1人のフォノンさまがその場に残り学生との談笑を続ける。抜け殻のようにもう1人の自分を脱ぎ捨て分裂したフォノンさまはというと、颯爽と部屋を横切ってくる。けれど、真横を通り抜けるその姿に、もう1人のフォノンさまと話してる学生は全く気づかない――。
「このあたりを膨らませたテーマはどう? 術式研究からの繋がりも生きるしまとめやすいわよ」
「それは、そうなんですが……」
「どうしても鏡術がいいのね? 広範囲自律型は難しいけれど、領域固定や遠隔型の論文ならあるわ。いくつか読んでみる?」
もう1人のフォノンさまが指先を弾くと、ひとりでに戸棚が開いてファイリングされた資料が次々と宙に浮かび、パラパラとめくられ始める。その中から二、三の束が飛び出して学生の手元へと泳いでいった。
あいかわらず何がどうなってるのかわからない。本当に分身してるとかならまだわかるけど(現実にそんなことは不可能だ、精神を複製することはできないとどっかの偉い人の名前がついた理論で証明されている)、だってあれだけのことをしておいて、本物は――。
「いらっしゃい。メルフィ、アルトゥール。ついてきて、奥の部屋に準備してあるの」
柔らかく私の手を掴む、こちらのフォノンさまだけなのだ。
「あれはいいのか?」
アルトゥールが目線で示したのは、幻のフォノンさまと術式論議を続ける先輩だ。
いいのよ、と肩をすくめる本物のフォノンさまは突き放すように続けた。
「鏡術研究を志望する熱意は買うけれど――領域固定遠隔型の応用例を見せても気づかないなんて、全然ダメねえ」
さすが鬼のフォノン研。
一つしかない実体を、これだけ完璧に隠してしまえるのって本当にすごいことだ。ないものをあるように、あるものをないように、自在に認識を操る幻術士の技量は、本物を本物と悟らせないことにかかっている。
いくら優秀な学生でも、フォノンさまの技術を見破れないのはしかたないと思うんだけど……。
「厳しいと思う? 鏡術に限らず、幻術全般を究めるためには頭の固さは致命的なのよ。強固な像を作るにも、精巧な幻に騙されないためにも、柔軟な想像力が必要になるの。……鏡系統と一般系統の幻術の違いって、共通科目で教えていたかしら?」
「え……、と」
「術式対象と効果範囲の違いだろう」
「ジュツシキタイショウ? コウカハンイ?」
どうしよう、移動しながら交わされる親子の会話がハイレベルすぎてついていけない。そっと逃げたいところだけど、私の手はフォノンさまに掴まれていた。
「一般系統の幻術は、限定された対象に効果範囲の誤認を誘導するなんらかの行動を示すことで事実を隠蔽あるいは偽装する。鏡系統は、設定条件を満たした不特定多数を対象とし、限定された効果範囲に関しての認識を即時的に書き換えあるいは歪ませる」
「あら素敵。一般系統で不特定多数を対象とする幻術を実現する方法と、その場合における鏡系統の優位性は?」
「例えば効果範囲全域を覆う被膜等を用意する方法があるが、鏡系統の魔力は即応性と親和性が非常に高いため、対象の認知過程に濾過器をねじ込むような形で違和感を与える隙なく実質的に思考を支配できる」
「鏡系統の弱点と強力な点は?」
「一般系統と共通しての弱点としては、過去に遡っての記憶操作はできないことが挙げられる。鏡系統特有のものとしては、魔力特性・術式精度ともに実戦で求められる水準が極めて高く扱える術者が限られること、対象の認識を狂わせる特性上、予期せぬ副作用を齎す危険性が高いことなどが挙げられる。だが対象を限定することなく術者から提供された魔力が尽きるまで自律的かつ半永久的に継続作用させられる点において鏡系統の幻術は非常に強力と言える。……もういいか?」
すべての設問に淀みなく答えてみせたアルトゥールに、フォノンさまはニッコリと嬉しそうに微笑んで両手を合わせた。
「パーフェクトな解答ね! うちの学生もこのくらいできないものかしら」
フォノンさまの発言に、このくらいどころか全くできない、答えを聞いても何が問われていたのかわからないレベルの底辺学生としては肩身の狭さに震えるばかりである。
幻術専攻クラスじゃなくてよかった……!
アルトゥールは引きつった笑みを貼りつける私を鼻で笑い、勝手知ったる様子で部屋を横切ってソファに腰を下ろす。
「俺自身を対象から外せないのか? 身体を動かすときの違和感が酷い」
「例外を広く持たせると潜在リスクが上がって本質的に安全じゃなくなるわ。それに、周りと認識を揃えておかないと動きづらいわよ」
「安全もなにも、人間を対象とする国際規定を大胆に無視した魔術をかけておいて」
「そのくらいしなきゃ同業者にバレるじゃない」
あーなんかよくわかんないけど、すっごく怖い会話がされてる気がするー……聞こえないフリしようかな。
「遠慮せず座っていいのよ? メルフィ」
遠い目をする私に、フォノンさまは優雅な仕草で椅子をすすめた。あ、はい、ありがとうございます……。なにかと怖い親子と距離を置いて座りたかったけど、そういうわけにもいかず、私は少し迷ってアルトゥールと一人分の距離をあけた反対側の端に腰を下ろした。
フォノンさまの方が怖い、けど、うっかりアルトゥールに触るのも怖い。
「普通これだけ重ねがけしたら自分の魔力と干渉して魔力酔いを起こすものだけれど、便利な体質ねえ」
向かいに座ったフォノンさまは、足を組みながらアルトゥール――というよりたぶんその周りの幻術――をしげしげと観察している。当人は怠そうに肘掛にもたれて頬杖をついているが。
「あれ? アルさんって魔術が効かないんじゃなくて、魔力が無いんですか?」
「ええ、厳密に言うとね。魔術は効いてるじゃない? この通り」
「た、たしかに……でもなんで」
「女神に嫌われているのよ」
「――フォノン」
さらっと答えたフォノンさまを、それまで黙っていたアルトゥールが鋭く睨みつける。
「余計なことをベラベラ話すな」
「あらあら怖い顔しちゃって。こうなった以上、隠しておけることでもないでしょう」
余裕の表情で受け流すフォノンさまはさすがだけど、隣に座ってる私としては容赦なく立ち上る冷気に背筋が伸びる思いだった。
ブリザード美形は美少年になってもやはりブリザード美少年だった。無表情のまま本気で睨むのやめて怖い。……でも、女神に嫌われるって、どういうこと? むしろ愛されまくってるようにしか見えないんだけど。
「順を追って説明するわ。――まずはメルフィ、あなたはアルトゥールと契約状態にあることで魔力を平衡させているの」
「魔力……へいこう?」
平行、交わらない二本の直線がパッと思いついたけど、たぶんそういうことじゃないんだろう。まったく意味がわからなくて、首をかしげる。
ちらっとアルトゥールの様子をうかがうと、彼は今の言葉だけで大枠を掴んだようで、そういうことか、と小さく呟いていた。まってどういうことなの、理解できてないの私だけ? その頭脳ください。
「個人が保有する魔力の量は三つの要素で表されるわ。容量、生成量、最大流――単純に魔力量といったら容量を指すことが多いわね。詳細は癒術専攻でしか教えていないんだけど、稀に三要素のバランスが著しく崩れてしまうことがあって、その状態を魔力の平衡に障害をきたしている――魔力障害というの」
フォノンさまが指先をひらめかせると、先ほどのファイルのように黒い箱が一つ棚から飛び出してきた。机の上に着地したその箱の錠を、やはり指先ひとつで軽く開けたフォノンさまは、中身の球体を私に差し出した。
「これ……クラス分けで使った……?」
渡された球には見覚えがあった。手の中でじんわりと熱を持ち、くるくると回していると、中央にぼんやりした影が浮かんでくる。
「色味が魔力特性、濃淡が魔力量を表す簡易測定器よ。魔力の扱いに不慣れな学生向きに、一定量のサンプルを自動的に採取する仕様になっているの――やっぱり、極端に少ないわね」
「うぐ……」
わかっていても改めて突きつけられるのは悲しいものがあった。
この器具、成績優秀者ともなればハッキリとした原色の靄が渦を巻き、球全体が発光するほどの輝きを持つのだ。っていうか平均レベルでも球の半分くらいは覆われるし、こんな色さえよくわかんないようなうっすい影しか出なかったのは私くらいなものである。
「あ! これってもしかして上限突破してるとかそういう――」
「いいえ、残念ながら違うわ」
淡い期待はあっさりと打ち砕かれた。
アルさんといいフォノンさまといい、もうちょっと溜めてくれてもいいんじゃないでしょうか。
「最大流が少なすぎて測定に必要な量を確保できていないのよ。魔力障害でも特に厄介なのが、生成量が多くて最大流が少ないケースなんだけど……」
私の手から測定器を取り上げたフォノンさまは、元どおり箱に収めながら言った。もちろんその間、球の内部には白銀の靄が渦を巻き、指の間からは眩いほどの光が漏れていた。ですよねー、故障とかも無いですよねー。
「ピンときてない顔してるわね?」
「あはは……」
不出来な生徒で申し訳ありません。
「そうねえ、水を湛えた容器を想像してみて。その容器の底からは絶えず水が湧き出ている。水は生活にも必要だけれど、女神に供えれば様々な恵みを与えてもくれる、とても大切なものよ。生まれてからずっとその容器の水を使ってきたあなたは、他の水場を知らない。でも水を使うことに躊躇いはないわ。全て注ぎきってしまっても、すぐに次の水が湧き出てくるのだから」
丁寧に説明しながらフォノンさまはイメージ映像を宙に描いてくれる。水が魔力の喩えらしいことくらいはすぐに飲み込めた。
「その容器は、大きさも形も様々なの。だから、水を貯めておける量も、一度に取り出せる量も人それぞれ違うわ。湧き出てくる速さもまたそう」
いくつも並んだ個性豊かな半透明の容器の底からは、それぞれ噴水のように勢いよく、または泉のように穏やかに、水が湧き上がっている。
傾けて水を注ぎ出したり、柄杓を入れてパシャパシャ取り出したり、逆さまにひっくり返して大胆にドバーッと流したり、容器はそれぞれ違う動きを見せる。これが使うときのイメージってことなんだろう。
ふむふむ……?
「このくらいの個性だったら、水そのものの性質と合わせて『魔力特性』と呼ばれたりする好ましいものよ。でも――」
フォノンさまが指を鳴らすと、容器が全部くっついて、大きな球体を形作る。ぱっと見た感じ、口らしい口は見当たらない、ただの球。これ、どんだけ溜まっても取り出せないんじゃないだろうか? 内部にはたっぷり水が入っていて、みるみるうちに水位を上げていく。
「針穴のような口しかない容器を想像してみて。容器に空きがある間は問題ないのだけれど、口元まで水がきてしまった場合。それでも勢いよく水が湧きつづけているとしたら――」
「え、それは……なんかまずいんですか……?」
「当たり前だ」
アルトゥールが呆れた声で口を挟む。
「内部からの圧力に耐えかねた時点で破裂する」
「破裂ぅ!?」
ギョッとして立ち上がった私は、派手に膝を机の角に打ちつけてソファに逆戻りした。
同時に、ふよふよ浮いていた球体の器が弾け飛ぶ。四方八方に飛び散った水しぶきを被った瞬間、冷たく濡れた感触がした。さすがフォノンさま、芸が細かい。
「いたい……つめたい……」
「処置が間に合わなかった最悪の場合の話よ。助かったとしても魔力系統に深刻な後遺症を遺すことが多いのは事実だけど。容量が大きければ大きいほど、体質が発覚するまで時間がかかるのよね」
「まだ決まったわけじゃないんだろう」
「ええまあ、最大流が少なくても、容量や生成量と均衡が取れているなら問題ないのよ。ただ、召門陣を一人で起動したとなると少なくとも容量は――」
痛みにうずくまる私の頭上で、なんか怖い会話が交わされている。ねえ私どうなんの? どうなってんの?