13.虎の威を借りてもこれが限界です
月明かりが降り注ぐ石牢の床には、いつか私が煉炭で描いた不恰好な召喚陣――いや召門陣なんだっけ――がまだうっすらと残っている。
その円の中心で、奴は待ち構えていた。
私たちの姿を確認しても逃げだす素振りもみせず、まるで自室かのように悠々とした態度で片膝を立てて胡座を描きながら、踏み込んできた来訪者を迎え入れ、ニィ――と口の端を吊り上げて男は笑う。
「よぉ、神の鍵」
左目の下には二連の泣きぼくろ――赤銅色の髪の間から爛々とした赤と緑のオッドアイが覗き、妖しげに揺らめいた。
「なんっで私を名指しするんだよぉお!? もっと目立つ人がふたりもいるじゃんか。こっちみんな変態!」
と、正面から言える度胸はないので、とっさにローブを引っ張ってアルトゥールを前に出し、サッと素早く後ろに隠れた。
アルさんバリアー発動!
どうだ、この位置ならすぐに手は出せまい。
「……私をなんだと思っている」
「ごめんなさい無理ですあいつマジで無理なんです」
生理的に。なんか、こう、うまく言えないけど、近寄ったら最後というか、絶対に関わっちゃいけないというか、捕まったら逃げられなさそうというか。
ついでにアルさんのことは魔除け効果つきの万能バリケードだと思ってます。
男は鼻で笑い、アルトゥールを睨み上げた。
「へえ? すっかり守護者気取りじゃん、異端サマ」
「どう解釈したらそうなる。こいつが勝手にやったことだ」
あ、待って。引っ張り出さないで。ご容赦を。どうかお慈悲を。
「…………」
決死の形相でしがみついた甲斐あり、アルトゥールは私を背中から引き剥がすことを諦めた。ありがとうございます。あとで土下座して拝みます。
「だったら邪魔すんじゃねえよ。思いっきり蹴り飛ばしてくれやがって。こっちは最初から伝えてんだろ――『落とした鍵を拾いに来ただけだ、あんたに用はない』って」
そのとき、白銀の魔術光が散って、宙に浮かんだ複雑な陣が男の身体を取り囲む。さっきからずっとフォノンさまが大人しいなとは思っていた。これ、祝詞の完全省略――無言詠唱の魔術発動だ!?
「場合によっては」って言ってたのに、有無を言わさず出会い頭に思いっきりいったあ!
鬼教官の所業に絶句して震える私の目の前で、男が鬱陶しそうに手で術式を払ったかと思えば――。
「やめとけよ、祝福の無駄だ」
いつかアルトゥールを取り囲んでいたものと同じくらい眩しい強力な術は、数秒ともたずにガラスが割れるような音を立てて砕けて消えてしまった。
うお、まじか。
「あら、耐性が高いとは聞いていたけど、鏡術以外も全部弾くなんて。アストレアが涼しい顔しているわけだわ――月の民、というだけではなさそうね」
フォノンさまは興味深そうに目を瞬かせる。
さっきの一瞬でどれだけの術が使われていたのか。発動できるのも意味わからないけど弾き返すのも意味わからない。
「あなた、聞いていた印象より随分と理性的なようだけど、話し合いは可能と考えていいのかしら?」
「あ? あー、ありゃあ、そこの兄さんが悪い。ひさびさの遊びがいのある獲物、興奮するなって方が無茶だね、続きやらせてくれんなら喜んで――」
「貴様の相手は二度と御免だ」
「連れねーの」
即答したアルトゥールに残念そうな顔で肩をすくめながら、男に本気でやりあうつもりはないらしい。何考えてんだあいつ。
「こっちも聞きたいことがある。ボクに絡みついてる鎖はなんだ? 外れねーし壊せねーし、『神の鍵』と繋がっているように見えんだけど」
「あなた契約が目に見えるの?」
「契約? ……ああ! まさかこれアレか? 人間どもが獣と結びたがる妙な絆……へえ、なるほど、こんなんなってんのか。このボクを縛るとは、いい度胸じゃん」
ほらやっぱりぃぃいい!
それ召喚契約でしょ、認めたくないけど絶対にそうでしょ。
だがこれだけは言わせろ。アルさんの影から顔を出し、ピシリと奴に向けて指を突き出しながら叫ぶ。
「私の意思じゃない! 誰がお前なんかと契約するか!」
「こんだけ熱烈なアプローチをしてくれてんだ、その鍵はボクが貰い受けて構わないってことだよなあ?」
「聞けぇえええ!」
アプローチなんぞしていない。わざとじゃないあれは事故だ。誰も予想できなかった不慮の事故というやつ――だよな、あれ、自信なくなってきた。
そういえばアルさん狙ってやった説なかったっけ。でも私にそんなことさせて何の得が……得が……ありますね。
他の契約対象ができる
↓
魔力障害問題解決
↓
アルさん解放
「なんてこった裏切り者め!」
「いまの一瞬でどういう論理の飛躍をした」
いきなり矛先を変えて非難の眼差しを向ける私に、アルトゥールは頭の痛そうな顔をした。眉間に皺よってますよ。顔面偏差値の高い美人なんだからそういうの良くないと思うよ、なぜって怖いからね!
「あいかわらずキャンキャンうるせえ……おい異端、そいつ邪魔だろ、こっちに寄越せ」
「否定はしないが……」
「頼むから否定して! アルさんの薄情者! 鬼! 悪魔!」
ここで突き出されたら一生恨む。私に呪術の素養は一切ないが、んなことは関係ない。全身全霊をかけてでも呪ってやる。
「メルフィ。話の途中よ」
「はいぃ! すみません」
少しお黙りなさい、とフォノンさまの目が語っていた。逆らえるはずもなく速攻で口を閉じ、両手でふさぐ。
「あなたの状況を説明する前に、こちらの質問に答えてもらうわ。あなたは何者? なぜ魔術が効かないの?」
「魔術? ありゃもともと人間の力じゃないだろ。効かなくて当たり前だ。ボクはお前らに祈られる側の存在だぜ?」
一瞬、不自然な沈黙が落ちた。
いやいや、ちょっと待てよ、それはおかしいってさすがの私でもわかる。
捧ぐ言葉は神への祝詞。魔術は、唯一神デアモルスの祝福の為せる技。大切なのは心。人の想いを女神は量る。
つまりこの世界において、祈りの対象といえば。
「……随分と品のない女神がいたものね」
「おいおい、あんなものとボクを一緒にするな」
心底嫌そうな顔をして男はため息をつく。
「ま、信じねえのは勝手だけどなあ、こちらは答えたぞ。鍵を渡すのか渡さないのか、さあどうする?」
ゆっくりと立ち上がった男の視線は、まっすぐにアルトゥールと、その影に隠れる私のみに向けられていた。
「せっかちな男は嫌われるわよ」
男の視線を遮るようにフォノンさまが立ち塞がる。
「時間がないんでね。ボクが話があるのはそっちの奴らだ。どけ」
「うちの子に妙な真似をしたら殺すわ」
「好きにしな、やれるもんならな」
一触即発の空気にハラハラする。魔術が効かないのが本当だとしたら、あくまでも魔術のスペシャリストである『鏡光のフォノン』にとっては、やりにくい相手だ。
「フォノン、通せ」
さりげなく剣の柄に手をのせながらアルトゥールが言う。
ここにくる前に彼の剣は手元に喚び出されている。武具保管庫の武器はいつでも召喚できること、すっかり忘れていた。取り出せても戻せないから勝手にやると厳罰だけど、今回は生ける罰則規定ことフォノンさまが味方についているんだから問題はない。
「……『神の鍵』を手に入れてどうする気だ?」
「あんたの願いとそう変わらねえさ。ボクに任せれば勝手に終わらせてやる。言ったろ、お前らにとっても悪い話じゃない」
「私には関係ない話の間違いだろう」
「よく言うねえ。あんたが作らせた鍵だろうに」
「え……」
思わず指の間から声が漏れる。
なんだそれ。どういうこと?
見上げたアルトゥールは苦々しい顔をしていた。私の位置からはフォノンさまの表情はわからない。だけど何も言ってくれない。教えてくれない。
なにか知っている。この男の話を二人は理解している。当事者であるはずの私だけが置いていかれている。
なんで?
そんなに私に知られたくないこと?
だったら連れてこなければいい話だ。どうしても知られたくないことなら、私は知らないままでいい。なのに、まるで――いつかバレることを承知の上で言い出しづらい失敗を隠す、子供のような。
「ハッ、こいつは傑作だな! このガキなにも知らされてねえのか」
豪快に笑った男は足音もなく距離を詰めると、色の違う両眼でアルトゥールをじっと見据える。視線の高さから、幻術が効いていないのは本当なんだなとぼんやり思う。
「なあおい異端サマよ。あんた腑抜けじゃねえよな。その目――そう、その目だ! 負け犬や脱走者の目には見えねえが、復讐者と呼ぶにゃあ弱すぎる、妙な目をしてやがる」
うわ、あの美貌に自ら顔を寄せにいくとは勇気ある……と思ったけど、意外なことに見劣りしない。自称神様は伊達ではなかった。長めの前髪の間から覗く垂れ目と泣きぼくろ、なにより赤と緑という強烈な色彩が、毒々しい色気を放っている。
そういえば、ヒャッハァしてなければ美形なんだよなこいつ……。
表情ひとつで印象をがらりと変える、地味に整った顔立ちは、真顔になると一際不気味だ。アルトゥールとはちがう意味で近寄りがたいし近寄ってほしくない。でも怖いもの見たさで覗き見てしまう。そして目があったら最後、逃げられなくなる。
なんとなくそんな予感はしていたけど、こいつに近づかれると逃げられないのだ。足が動かないどころか、ふらふらと引き寄せられそうになる。
嫌だ。
聞きたくない。知りたくない。逃げたい。
だけど身体は正反対の行動をとる。
「ナニを願った?」
それはまさしく悪魔の囁きだった。
「クラヴィスは都合よく自然発生なんざしねえ。そいつを引き寄せられるのは、女神と取り引きできるトクベツな連中だけだ。異端の民だよ。あんた以外に誰がいる? ――十八年前、地獄を見たんだろ。打ち棄てられた無数の同胞の骸を。夥しく広がる血の海を前に、てめぇは一体ナニを願った?」




