1.いざ、召喚! 憧れのもふもふ
練炭の塊を握りしめて、冷たい石の床に膝をつく。長ったらしくて邪魔な横髪は、後ろでくくり、裾がまとわりつくローブは、とっくの昔に脱ぎ捨てた。
「あと、少し……」
一本一本、丁寧に、細心の注意を払って。もう、すっかり覚え込んだ図面を、正確に映していく。
ひとつでも間違えたら、大変なことになる。
召喚術の失敗は命に関わる。だから、普通は、何人もの目を通して確認する。
……でも、今回は、私ひとり。絶対に、失敗は許されない。
何百回、何千回も練習した。そして、やっと、完璧に再現できるようになった。『呼び水』に使う星泉水も手に入れた。あとは、決行あるのみ。
日が落ちると同時に、部屋を抜け出した。練炭をくすねて。カンテラを握りしめて。一直線に、立ち入り禁止の地下牢へ降りた。
こんなこと、ばれたら最後、退学だ。
だけど、いまさら、引くわけにはいかない。だって、私には、もう、これしかないんだ――。
「で、き……た」
練炭を投げ捨てて、壁際に下がる。
丸めたまま放っておいたローブで、真っ黒に染まった手を、乱雑に拭う。学園指定の、夜烏の羽で織られたローブだ。替えはないけど……どうせ黒いし、洗えばいいや。
カンテラの脇の本を取り上げて、ページをめくる。
いまは絶版になっている、召門書『聖樹の宿し子』の初版、六十九ページ。古びた本特有の、カサカサした手触りがする。埃に咳き込みながら、何度も開いたそのページ。もう、すっかり癖がついてしまっていて、見つけるのは簡単だった。
「えーっと、『白狐』……『星豹』……あった、『聖狼』!」
記された召喚陣は、まさに、床一面に広がるものと同じ。
じわじわと、興奮がわきあがる。
星泉水の入った小瓶を握りしめて、ごくり、と唾をのみこむ。
本を閉じ、元通りの場所へ、ていねいに置き直す。薄汚れたローブを羽織って、カンテラの灯りを消した。
天上近くにある小窓から、霊月の明かりが、微かに差し込んでいる。
薄青に照らされた地下牢に浮かび上がる、幻想的な陣。線を消さないように気をつけながら、その中心へ足を踏み入れる。
心臓の音が、バクバクとうるさい。
「我、望む。汝と相見えんことを」
震える手で、小瓶の栓を開ける。澄んだ天色の液体を、弧を描くようにして振りまく。
星泉水に触れた場所から、陣に明かりが灯っていく。
淡い光が、室内を一周する。それを確認して、ぐっとこぶしを握り、深く息を吸って――叫んだ。
「我が名は、クラヴィス。喚び声に応えよ、聖狼!」
足元の召喚陣が、鮮烈な光を放った。
まぶしい。とても、目を開けていられない。まぶたを下ろしても、まだ足りなくて、両手で顔をおおった。
*****
次に目を開けたとき、目の前には、憧れの聖狼――ふわふわ、もふもふ、黄金の毛並みの、気高い、美しい、伝説の、Sランク召喚獣――が、いる、はず、だった。
「貴様、何者だ」
すぐ近くから聞こえた、低い美声に、頭が真っ白になる。
恐る恐る、両手を下ろして、まぶたを持ち上げる。
「え、っと……?」
――どちら様ですか?
ぽかん、と落ちたあごが、戻らない。正面に立った男が、絶対零度の眼差しを投げつけてくる。
見上げると首が痛いほど、長身の男だった。
背中の中ほどまで伸びた、さらさらの黒髪。それを首の後ろでくくって、肩にかけている。
身にまとう外套は、見るからに旅装束。口元から足首まで、すっぽりとおおっている。……この辺りでは、見ない形だ。
なにより印象的なのが、星泉水のような綺麗な天色の瞳。怖いほどに整った顔の、怜悧な印象に、拍車をかけている。
総合的に見て、そうそうお目にかかれないレベルの、超美形。ついでに、次元が違い過ぎて、年齢不詳。
「な、……ないないない、ありえないー!」
――聖狼の代わりに、イケメンが召喚されました。どういうことでしょう。
「騒々しい」
チャキ、という音とともに、首すじに突きつけられる、金属光沢。立ち昇る冷気に、ぎくり、と身をすくませる。
粗くまとめていた髪が、はらり、と落ちた。
装飾は一切ない、シンプルな剣。極めて実用的な見た目だ。それでいて、抜き身の刀身は芸術品のように美しい。切れ味は推して知れようというもの。
……表面にこびりついた赤黒い汚れについては、見ないフリをする。
「横髪だけを長く伸ばす風習……ルシオラの出身か。一体、何をした?」
「わ、俺は、聖狼を喚ぼうとしただけで……」
「ルプス?」
謎の麗人は、身の程知らずを蔑む眼をした。ちょ、怖い怖い怖い。やめて、イケメンのその表情は迫力が……。
すくみ上がる私を、鼻で笑う。
「Sランクの聖獣を、貴様に扱えるとは思えないが。身の程というものを知った方がいい。そもそも、あれは18歳未満の乙女にしか懐かない」
「知ってるよ! だから、これが最後のチャンスだったの! いまパートナーが空いてるのは聖狼しかいないんだから、しょうがないじゃないか」
衝動的に叫び返して、はたと我に返る。
ああ、……まずった。
「最後のチャンス、だと?」
宝玉のような天色の瞳が、いぶかしげに細められる。
「まさか、貴様……女か」
つかの間、空気が凍った。
サアァ――と血の気が引いた私の顔を、神レベルの男前がまじまじと見つめている。
どどど、どうしよう。まじかよ、墓穴掘った? 絶体絶命? どうするよ、私!
「え、あ……そ、その」
まともな言葉が出てこない。
眉をひそめた男は、さらにぐっと顔を寄せてきた。
つーか、うわあ、まつげ長! 顔ちっさ! なにこれ、本当に同じ生物? 人間? 人間なのこいつ? いやいや嘘だろう。
――そうか、きっと聖獣なんだ!
召喚に失敗したら術式は起動しないか、時空の狭間にのみこまれて、ハイ、サヨウナラ、だ。私が生きてるってことは、召喚術は成功してる。なら、つまり目の前の男は聖狼だ。
夢と理想が、盛大な音を立てて崩れ落ちる。
やっぱなし! 聖狼説なし! 憧れのもふもふが、こんな冷凍庫野郎だなんて私は認めない。
「金髪碧眼……典型的なルシオラ貴族の色彩だな。貴様、どこぞの家の直系だろう。あそこは、婚姻前の娘は屋敷に閉じ込めて、文字通りの『箱入り娘』に育てる慣例があるはずだが」
「し……シラナイヨ。ワタシ、ナニモ、シリマセン」
目を泳がせながら白を切れば、天色の瞳が、剣呑な光を放った。室温が、一気に二度くらい下がったような気さえする。
……寒い。
あれ、なんか、まじ寒いんですけど。寒波到来? なんで? 人間ブリザードって本当にあるんですか?
二度どころじゃない。急激に下降した室温に、がたがたと身体が震え出す。
「グルルルル」
「はぃ!?」
唐突に聞こえた獣のうなり声に、飛び上がる。
え、どういうことよ? ここは、学園だ。その地下だ。それも、打ち捨てられた古城を再利用した。
堀、結界、城壁、見張り台、常駐の警備兵。外からの侵入に対する守りは、凄まじく堅固だ。
ましてや、学生にすら知られていない、奥まったこの地下牢。そんなところに、何かが現れるなんて、そんなはず――。
「チッ」
盛大な舌打ちをした聖狼(仮)。お綺麗な顔にシワが寄って、かなりおっかないんですけど。
そうこうしている間に、正体不明のうなり声は、どんどん近くなる。
殺される? 私、ここで殺されちゃう系?
「なにをしている、さっさと『門』を閉じろ!」
「ももも、門!? 閉じるって、え、えー?」
なにを言われているのかわからない。わたわたする私に、聖狼(仮)は、どうしようもないクズを見る目をした。
「それでも召喚術師か。自分で喚んだ門くらい、なんとかしろ」
「だから門ってなに!?」
「いいから急げ、愚か者! 雪豹に喰われたいか」
投げつけられた本を、慌てて抱き止める。腕の中に鎮座するのは、まさに先ほどまで開いていた、『聖樹の宿し子』初版。……特A級の超貴重な召門書を、なんて乱雑に扱うんだ!
て、あれ、召門書……?
「まさか、これ、『門』を開く術なの……?」
呆然自失。固まる私の目の前で、召喚陣に光が灯る。
「貴様の耳は飾りか」
底冷えするような声に震え上がった、直後。力任せに突き飛ばされて、壁際まで吹っ飛ぶ。大切な、『聖樹の宿し子』だけは、必死でかばう。
衝撃に咳き込みながら、大人三人分はありそうな、巨大な獣の影が、踊り出してくるのを見た。
抜き身の剣がひらめく。
「ちょ、オニーサン危な――」
衝動的に叫んだところで、どうにかなるなんて思っていなかった。
全身の毛を逆立てた、見るからに理性を失った雪豹。生身の人間が相手するなんて、無謀だ。――無謀なはず、だった。
聖狼(仮)は、雪豹の鋭利な爪を、完璧に受け流した。続いて、襲い来る牙も、あざやかな手つきでさばく。
「うっそ……まじ?」
一撃でもまともに受ければ、一瞬で剣は折れる。
なのに、男は余裕の表情。まるで、曲芸でも見せられているみたいだ。
あんぐり、と口を開けたまま、棒立ちになる。
ナニアレ。おかしい。絶対、おかしい。
私だって、少しくらい、剣をかじったことがある。だから、わかる。あんなの、化け物だ。
真白い巨獣は、形成の不利を悟って、後ろに飛びのいた。距離が空く。
カッと口を開けた雪豹。むき出しになった歯列が、超迫力。――うっわ、かっこいい! って、違う!
高らかに、咆哮が響く。
ブリザードが吹き荒れて、視界一面、真っ白。なにがなんだかわからない。氷点下に到達した室温に、全身の自由が奪われる。
「うわあ!?」
あやうく、凍りつきかけた両足を、足踏みして、必死に動かす。パラパラと霜が落ちた。
不意に、白の中に、わずかな赤が混じる。
「痛ッ」
同時に、左腕に走る、鋭い痛み。とっさに右手で押さえると、密着した布地に、激痛が走った。『聖樹の宿し子』が、床に落ちる。
袖をまくった下には、10センチほどの長さの浅い切り傷。ちょうど、剣の切っ先で、ひっかいたような。
……は、え、どーいうこと?
「異端の血を代償に捧ぐ」
雪の壁の向こうで、朗々とした声がする。
「――還れ」
紫色の閃光が、ほとばしる。それが、最後の記憶だった。