なんでも屋稼業その2 マヤという女
秋田にある北陽大学付属病院には、東藤博士が瀕死の状態で入院している。
彼は、レーザー核融合研究の第一人者である。
21世紀後半に核融合発電の実用化が見込まれていたが、この東藤博士により、その時間は大幅に短縮され、わずか1年後には実用化の目途が立った。
しかも東藤博士は、当初重水素と三重水素を融合させて核融合反応を起こさせようとしていたが、これでは高エネルギー中性子線が発生してしまい、放射線の危険性を伴い、炉の耐久性に問題が出ることを懸念していた。
そこで東藤は、重水素同士を融合させてエネルギーを得る事を目指した。ただしこれは重水素と三重水素の反応に比べて、格段に難しくなる。
しかし、東藤博士はこのような障壁を奇抜なアイデアを持って克服していった。
この実績が認められ、多くの国家予算が投入され、世界に先駆けて実用化まで、後一歩のところまで漕ぎつけた。
こうしてマスコミは、核融合や東藤博士に対して特集を組み、日本国内ばかりでなく、世界中にその名前が知れ渡った。
この核融合炉が実現すれば、人類は無尽蔵と思われるエネルギーを手に入れる事ができる。しかも、二酸化炭素の排出は無いし、現行の核分裂による原子炉のような暴走もない。それに原料は海水で事足りる。
これにより世界のエネルギー事情は大きく変わる事になる。すでにシエールオイルや原油価格はじりじりと価格を下げ始めている。
既存の利益にしがみつく者達にとっては脅威に思えるだろう。
世界のエネルギー産業に携わる企業も活発に動き始めている。
そんな折、東藤は大学からの帰宅途中に、酔っ払い運転と思われる対向車に衝突され大怪我をし、意識不明となった。特に、頭部の損傷が激しい。現代医学では手の施しようがない。傷が治ったとしても植物人間となる公算が高かった。
東藤博士が居なくなれば、核融合炉の早期実現は難しくなる。世界人類にとっては大きな損失である。
そこで、開発されたばかりのナノマシーンの登場となった。
ただ、この交通事故には何か裏がありそうだ。警察はこの事故を酔っ払い運転ということで断定しているが奇妙な点が幾つかある。
この車は事故に遭った後、不自然な爆発を繰り返し、その後炎上した。その爆発はガソリンに引火したものと比べて、はるかに強烈なものだったらしい。更に、車も人も跡形も無く消失しているのだ。
それに、その酔っ払いが誰なのかも判明していない。
東藤博士に恨みを持つ何者かが暗殺を企てたのではないかという説も浮上している。
その為か、屈強なガードマンがその病院を守っているような状況だ。
そんな所へ士郎はナノマシーンを運んでいくのだ。
要するに、東藤博士の命を狙う者、またナノマシーン自体を狙う組織などが渦巻く渦中へ身を投じる事になる。
士郎がナノマシーン研究所を出たのは、午後2時頃だった。
このナノマシーンは、東藤博士の容態から考えて遅くともあさっての午前中には持って行かなくてはならない。
士郎は明日の午前中にでも持って行こうと思っている。
交通費と一泊分のホテル代を貰っている。かなり贅沢なホテルに泊まったとしても充分過ぎるくらいの金額だ。
東北方面には、今まで行った事がなかったので、知らない場所に行くという不安よりも、好奇心の方が強かった。
川口ジャンクションに着いた頃には、既に午後4時を過ぎていた。都内の渋滞に巻き込まれたが東北自動車道に入ると、車の流れがスムーズになる。
愛車のバイクも順調だ。
暫く進むと、小腹が空いてきたので、次のサービスエリアに寄り、コーヒーとサンドイッチを注文し、オープンテラスの席に座った。
コーヒーはお代わり自由なのが気に入った。
9月とはいえ、まだまだ暑いので外の風が心地よい。
そうやって、暫しの休憩を取っていると、その平安を破るように、男と女の互いに呶鳴り合う声が響いてきた。
「あんた、私のドレス、どうしてくれんのよ!」
そう叫んだのは、若い女性である。見ると白いブラウスにコーヒーが無残にも飛び散っていた。
「お前が急に飛び出してきたからだろうが!」
男は、ガッシリとした体つきで、頭はスポーツ刈りにしている。この男も頭に血が上っているようだ。
「あんたこそ、スピードの出しすぎよ!」
どうも、若い女がカップコーヒーを持って、自分の車へ戻ろうとしていた時、サービスエリアに入って来た車にぶつかりそうになった。車は急ブレーキをかけたが、驚いた女性は、持っていたカップコーヒーをぶちまけ、自分のドレスにひっかけてしまったようだ。
「何だと、この女! おとなしくしてりゃあ図に乗りやがって」、そう言いながら男は力任せに女を突き飛ばした。
その女性が転がってきて、士郎が座っていた所のテーブルをひっくり返した。
士郎は、宙に舞ったコーヒーとサンドイッチを見事にキャッチした。コーヒーも一滴もこぼしていない。
そして、コーヒーを一口すすり、自分の座っていた椅子に置く。片手にはサンドイッチを持っている。
士郎は大事な仕事を控えているので、面倒な事に巻き込まれたくないと思い、どうしたものかと考えていたが、やはり傍観者ではいられなくなってしまった。
「あんた、何とかしてよ!」と女が士郎の後に隠れながら言った。士郎を楯にしているような格好だ。
『えへ、こりゃだめだ』と、心の中で呟いた。
「お前は関係ねえ、とっとと失せろ!」
士郎は、その男の言葉にカチンときた。
「悪いな、それは出来ないな」、そう言いながら、後ろにいる女に「危ないから、ちょっと離れていてくれ」と言った。
その瞬間、男の渾身の一発がうなった。
士郎は、それを紙一重でかわす。
男は一瞬ひるんだが、気を取り直してパンチを繰り出す。
士郎は余裕でそのパンチを最小限の動きでかわしていく。そうしながらも、手に持っていたサンドイッチを一口、二口を食べていた。
「おお、すげえ」、「なんだ、あいつは?」、周囲から人々の声が聞こえてくる。
喧嘩が始まったと思って、周囲に人が集まってきたのだ。
士郎がサンドイッチを食い終わる頃には、男は荒い息をするまでになっていた。
「へへ、これで腹ごしらえも済んだ。さあ、どうする、あんちゃん!」
士郎は、にこにこしながら相手の様子を窺った。
男は、そう言われても今更止めるわけにもいかず、もてる力を振り絞って殴りかかる。
男の拳が、士郎の顔に当たる直前にフリーズした。
男の口から低いうめき声が聞こえてくる。
そして、ついにその場にしゃがみ込み、苦しそうにもがいている。
「おいおい、どうしたんだ?」、「急に動かなくなったぞ」、「あいつ、何か悪い病気でも持ってんじゃあないか?」
周囲から色々な声が飛び交ってくる。
実は、士郎が目にも留まらぬ速さで、男のみぞおちを打っていたのだ。それを周りの人たちは気づかなかったのだ。
「あんちゃん、もうおしまいかな?」、士郎が気の毒そうに尋ねる。
「ねえ、ねえ、クリーニング代を貰ってよ!」と、女が言ってきた。
士郎は女にうなずきながら、「どうかなあ、クリーニング代を払ってくれないかなあ?」と、男に向かって言う。
男は低くうめき声を出しながらも、何とか財布を取り出し、一万円を差し出した。
士郎は、それを受け取り、女に手渡した。
「これで、許してやれよ」
それに対し、女はコクリとうなずいた。
男は腹を押さえながら、ヨタヨタとした足取りで、その場から立ち去る。
それを見ていた周囲の人たちから、歓声と拍手が沸き起こる。
「良かった、良かった」、「これにて一件落着か、はっはっは」
そう言いながら周囲の人たちも、1人、2人と立ち去っていく。
「さあ、君、大丈夫か?」
「ええ、ありがとう。本当に助かったわ」
「そうか、それじゃあまた気を付けろよ」
「また今度、お礼でもしたいから、名前と連絡先を教えてくれるかしら?」
「お礼なんかいいよ。名前は士郎だ」
「私はマヤよ。また何処かで会いそうな気がするわ」
「はっはっは、そうかもな。マヤさん、その時はまたよろしく」
それに対し、笑顔で応えるマヤの顔がまぶしかった。