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第一話 花の香りがする人

リトが彼女に声を掛けたのは、秋の終わりのことだった。


その日は、朝から風がよく吹いていた。


駅前の銀杏並木は黄色く色づき、歩道には乾いた葉が幾枚も重なっていた。人々はそれぞれの行き先を急ぎ、信号機は律儀に赤と青を繰り返していた。


リトは仕事帰りだった。


獣人専用のジムでインストラクターをしている彼は、鍛えられた大きな身体に、少しばかり窮屈なコートを羽織っていた。頭の上には狼の耳が二つ。後ろには、歩くたびにゆっくり揺れる尻尾がある。


すれ違う人の何人かが、彼を見るとわずかに歩幅を変えた。


もう慣れたことだった。


慣れたからといって、気にならなくなったわけではないけれど。


そんなときだった。


花の香りがした。


秋の街には少し似合わない、甘くて、清潔で、どこか春を思わせる香りだった。


香りのする方へ目を向けると、駅前の植え込みのそばに女の子が立っていた。


プラチナブロンドの短い髪。白いコート。閉じられた瞼。手には白い杖を持っている。


彼女は誰かを待っているようだった。


けれど、迎えに来る人の姿はない。


風が吹くたび、短い髪が額の上で小さく揺れた。


リトは少し迷った。


道に迷っているのかもしれない。けれど、勝手に声を掛けるのも失礼かもしれない。


それでも、彼女の立っている場所は人通りが多く、何度か肩がぶつかりそうになっていた。


「こんにちは」


彼女の少し手前で、リトは声を掛けた。


「……こんにちは」


女の子は、声のした方へ顔を向けた。


「誰かを待っているのかい?」


「いいえ。少し、お散歩をしていたの」


「そうなんだ。ここ、人通りが多いからね。少し端に寄った方がいいよ」


「まあ、ありがとう」


彼女は微笑んだ。


それから、ほんの少し首を傾けた。


「君は、どなた?」


「リトだよ」


「リト。素敵なお名前ね」


「そりゃどうも。あなたは?」


「フアールよ」


彼女の名前を聞いたとき、リトはなんとなく、さっきの花の香りを思い出した。


「あなた、狼なの?」


唐突な質問だった。


「そうだよ」


「まあ。やっぱり」


「やっぱり?」


「さっきから、ふわふわした気配がしていたのよ」


リトは思わず笑った。


「気配までふわふわしているのかい?」


「ええ、きっとそうだわ」


それが、二人の最初の会話だった。


そして、リトが初めて、花の香りのする女の子に声を掛けた日でもあった。


⸻


それから二人は、メールを送り合うようになった。


今どき珍しいことに、二人の連絡手段はLINEではなく、昔ながらの電子メールだった。


リトが最初にメールアドレスを尋ねたとき、フアールは少し困ったように笑っていた。


彼女の携帯電話は、音声読み上げ機能を使って操作するものだった。


文字を読むことも、画面を見て入力することもできない。


メッセージを送るときは、音声入力で言葉を吹き込み、読み上げられた文章を確認してから送信する。


一通のメールを送るにも、少し時間が掛かった。


けれど、フアールはそれを不便だとは言わなかった。


「メールなら、ゆっくりお返事できるでしょう?」


そう言った。


リトも、それがいいと思った。


最初のメールは、リトからだった。


『今日はありがとう。無事に帰れたかな?』


しばらくして、返信が届いた。


『ええ、無事に帰れたわ。君もお仕事お疲れさま。今日は狼さんとお話しできて、とても楽しかったのよ』


狼さん。


自分のことをそんなふうに呼ぶ人間は、初めてだった。


リトは画面を見つめて、少し笑った。


それから二人は、他愛のないメールを送り合った。


朝は何を食べたのか。

今日はどんな天気だったのか。

ジムにはどんな人が来るのか。

フアールは花の匂いをどれくらい知っているのか。


フアールは質問が多かった。


狼は寒さに強いのか。

尻尾は自分の意思で動くのか。

耳を触られるとくすぐったいのか。

満月の夜には眠れなくなるのか。


リトはそのたびに、ひとつずつ答えた。


ときどき、質問の答えになっていない質問も返ってきた。


『君の尻尾は、嬉しいときにも動くのかしら?』


『動くよ。自分では止めにくいね』


『それなら、君が嬉しいかどうか、私にも分かるかもしれないわね』


そのメールを読んだとき、リトは自分の尻尾が揺れていることに気がついた。


それから何日か経った頃、リトはフアールをお茶に誘った。


駅前に、小さな喫茶店があった。


窓際には季節の花が飾られ、古い柱時計がゆっくりと時を刻む店だった。紅茶の種類が多く、焼き菓子もおいしい。


『今度、一緒にお茶でもどうかな』


送信してから、リトは少しだけ緊張した。


返信は、その日の夜に届いた。


『ええ、ぜひ。私、紅茶が好きなのよ』


それから待ち合わせの日時を決めた。


初めて二人で出掛ける約束だった。


⸻


その日、フアールはいつもより少し早く家を出た。


待ち合わせは午後二時。駅前の時計台の下。


白いコートに、柔らかな手触りのマフラー。髪には何も飾らなかった。短い髪は風に揺れても、どこかに引っ掛かる心配がない。


リトが駅に着くと、彼女はすぐに分かった。


花の香りがしたからだ。


「フアール」


「……あら、リト?」


「こんにちは。待たせたかな」


「いいえ。私も今来たところよ」


「それならよかった」


リトは彼女の隣に立った。


「今日は寒いね」


「ええ。でも、風が気持ちいいわ。何か甘い匂いがするの。これは何かしら?」


「焼き芋かな。駅の向こうで売っているんだよ」


「まあ。焼き芋って、あんなに遠くまで匂いが届くのね」


「お腹が空いてくる匂いだろう?」


「ふふ。君もお腹が空いているの?」


「少しね」


二人は並んで歩き始めた。


リトは歩く速度を少し落とした。フアールは白い杖を手に、足元の感触を確かめながら歩いている。


彼女が歩きやすいように、腕を貸そうかと尋ねようとして、やめた。


必要なら、きっと彼女の方から言うだろう。


そういうことを、リトは少しずつ覚えていきたいと思っていた。


喫茶店は駅から五分ほどの場所にあった。


扉を開けると、ベルが小さく鳴った。


「いらっしゃいませ」


店員の声に、フアールは小さく会釈した。


「こちらのお席でいいかな?」


「ええ、ありがとう」


リトは椅子を引き、彼女が座るのを待った。


席に着くと、店員がメニューを二人の前に置いた。


フアールはメニューに手を伸ばさなかった。


「私、ロイヤルミルクティーをお願いするわ」


まだ注文を取りに来てもいないのに、彼女はそう言った。


リトは少し不思議に思った。


「もう決めているのかい?」


「ええ。いつもロイヤルミルクティーなのよ」


「好きなんだね」


「そうね。どこのお店にもあるでしょう?」


「まあ、大抵はあるね」


「だから、これなら困らせないと思うの」


彼女は何でもないことのように言った。


「珍しいものを頼んだら、お店の人が困るかもしれないでしょう。それに、説明してもらうのも申し訳ないし。だから、どこにでもあるものを頼むのが一番なのよ」


リトはメニューを閉じた。


彼女の声は穏やかだった。


けれど、その言葉の奥にあるものは、あまり穏やかではなかった。


彼女はきっと、ずっとそうしてきたのだろう。


迷惑を掛けないように。

手間を取らせないように。

誰かの時間を奪わないように。


自分が何を飲みたいのかよりも、相手が困らないことを先に考えてきた。


リトは、テーブルの上に置かれた彼女の手を見た。


「フアール」


「なあに?」


「今日は、自分で選んでみないかい?」


「……自分で?」


「うん。せっかく来たんだから、あなたが飲みたいものを頼んでほしいんだよ」


「でも、私、メニューが読めないのよ」


「読めなくたっていいさ。俺が読んであげるよ」


「君に手間を掛けてしまうわ」


「俺がそうしたいんだよ」


フアールは少し黙った。


「あなたが飲みたいものを、あなたが選ぶ。それでいいんじゃないかな」


リトは笑った。


「世界には、あなたの知らない紅茶がたくさんあるんだからね」


店員が水を運んできた。


リトはメニューを開き、ひとつずつ読み上げた。


ダージリン。

アッサム。

アールグレイ。

アップルティー。

ピーチティー。

ミルクティー。


それぞれの産地や香りについて、分かる範囲で説明した。


フアールは頬杖をつき、楽しそうに聞いていた。


「アップルティーは、林檎の香りがするの?」


「そうだよ」


「本物の林檎が入っているのかしら」


「お店のものは茶葉に香りをつけているみたいだね」


「不思議ね。林檎を食べなくても、林檎の香りがするなんて」


「飲んでみるかい?」


「そうね……でも、今日はアールグレイにしてみようかしら」


「いいね」


「ベルガモットという果物の香りがするのでしょう?」


「よく知っているね」


「聞いたことがあるのよ。どんな香りなのか、ずっと気になっていたの」


「じゃあ、今日はそれにしよう」


「ええ。楽しみだわ」


注文を終えると、フアールは両手で水の入ったグラスを包んだ。


「ねえ、リト」


「なんだい?」


「私、いつも同じものばかり頼んでいたのよ」


「うん」


「それが一番いいことだと思っていたわ。誰にも迷惑を掛けないし、間違いもないでしょう?」


「そうかもしれないね」


「でも、今日は少し楽しみなの。知らないものを飲むのって、こんなにわくわくするのね」


リトは返事をせず、ただ微笑んだ。


彼は彼女に何かを教えたかったわけではない。


ただ、彼女が選んでいいということを、知ってほしかった。


甘いものを選んでもいい。

珍しいものを頼んでもいい。

気に入らなければ、次は違うものにすればいい。


世界は、正解をひとつだけ用意しているわけではないのだから。


やがて紅茶が運ばれてきた。


カップから、柑橘の爽やかな香りが立ち上る。


「これがアールグレイなのね」


「そうだよ」


フアールは両手でカップを持ち、そっと口をつけた。


一口。


もう一口。


「……あら」


「どう?」


「思っていたより、ずっといい香りだわ」


「気に入った?」


「ええ。なんだか、知らない街を歩いているみたい」


リトはカップを口元に運んだ。


窓の外では、銀杏の葉が一枚、また一枚と落ちていた。


「それなら、今度は別の街にも行ってみようか」


「別の街?」


「そう。紅茶のおいしい店を、いくつか知っているんだよ」


「まあ。素敵ね」


フアールは嬉しそうに笑った。


「ねえ、リト。次は君が選んでちょうだいな」


「俺が?」


「ええ。君の好きな紅茶を飲んでみたいの」


「それじゃあ、少し癖のあるものになるかもしれないよ」


「構わないわ。君の好きなものなら、私も知りたいもの」


その言葉に、リトの耳がぴくりと動いた。


フアールには見えなかったけれど、彼の尻尾は椅子の後ろで、ゆっくりと揺れていた。


窓辺の花は、もうすぐ冬を迎えるというのに、まだ小さな蕾をつけていた。


世界には、知らない匂いがある。


知らない味がある。


知らない音や、知らない手触りがある。


そして、まだ出会っていない人がいる。


その日、フアールは初めてアールグレイを飲んだ。


リトは初めて、自分の好きなものを誰かに知ってほしいと思った。


それだけの、よく晴れた午後だった。


⸻


つづく。

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