【帳】一簒奪一
夜の三時というのは、境界が曖昧になる時刻だと、誰かが言っていた。
根拠はない。
ただ、そういうふうに言われている、というだけの話だ。
私がその話を聞いたのは、古書店の奥、埃の匂いのする帳場でのことだ。
店主は年齢不詳の男で、いつも同じ角度で眼鏡をかけている。
「“帳”をご存じですか」
唐突にそう言われた。
聞き返すと、男は少しだけ笑った。
「夜と朝の境目に降りる、薄い膜のようなものです。触れることはできないが、見える人には見える」
意味のわからない話だった。
だが、私は今、その時刻に交差点に立っていた。
信号は規則正しく点滅している。風はない。音もない。それなのに、空気だけがわずかに歪んでいる。
一一揺れている。
目を凝らすと、それは確かにそこにあった。
透明な膜のようなものが、交差点の中央に垂れている。
夜の闇とは違う。もっと密度のある、押し返してくるような暗さ。
「……帳、か」
口にした言葉が、喉の奥で酷く苦く爆ぜた。
その言葉の響きだけが、剥き出しの神経を逆撫でするような、生々しい手触りを伴って蘇ってくる。
古書店に入ったのは、それより少し前のことだ。
見覚えのない路地に、見覚えのない店があった。
引き戸を開けると、紙の匂いがした。
奥に男が一人、座っている。年齢は分からない。印象も曖昧だ。ただ、そこに“いる”という事実だけがはっきりしている。
「探し物ですか」
唐突に言われた。
「……何を、ですか」
「それを探しに来たのでは」
男の声は、ひび割れた陶器を擦り合わせるような、乾いた響きを伴っていた。
「私は何も探していません。ここへは、ただ一一」
「いいえ。貴方が探している落し物は、昨日の続きだ」
会話が成立しているようで、その実、噛み合っていない。
一一己の思考能力を疑う以前に、脳髄が白い膜で障まれたようだった。
私が「言葉」を投げているつもりでも、男に届く頃には、それは意味を持たない音の羅列に変質している。
そして男は帳簿をめくりながら、こちらを見ないまま言った。
「……欠損が出ていますね」
男の指先が、黄ばんだ紙面をなぞる。その乾燥した音だけが、白い膜に障まれた私の脳に、異常なほど鮮明に響いた。
「何の」
「記録です」
「何の」
「あなたの」
即答だった。
噛み合わない。
否定する理由はあったはずだが、言葉が出てこなかった。代わりに、別の疑問が浮かぶ。
私は、自分の拳の中で握られた「物」を凝視する。
それは、私がつい先ほどまで自分の体の一部だと信じていた、名前も思い出せない「何か」の欠落だった。
「……じゃあ、私は何を失っているんですか」
男は、そこで初めて顔を上げた。
「失っている、とは限りません」
「どういう意味ですか」
「残っているだけかもしれない」
店を出たとき、違和感はすでに始まっていた。
通ってきたはずの道が、正しくない。
電柱の位置や、コンビニの明かりの距離が微妙に違う。
気のせいだと思っていたが、歩程を重ねるごとに募る違和感は確かに積み重なっていた。
だが、それは恐怖ではなかった。
ただ、正しくない。整合性が取れていない。
一一そう思っている自分が、どこか他人のよう。そういう感覚だった。
「帳に触れた人は、少しずつ“外れる”んです」
交差点の中央にある“それ”を見ながら、私は考える。
なぜ、ここに来たのか。
なぜ、帳のことを教えられたのか。
そして一一なぜ、それを“越えた記憶がある”のか。
そのとき、空気が歪んだ。
膜の向こう側で、何かが動く。
人影。
いや、違う。
“私”だ。
こちらを見ている。
鏡を見るような感覚に、わずかな遅れがある。
「やめたほうがいい」
声がした。背後から。
振り向くと、さらにもう一人の私が立っている。さっき見た“向こう側”とは違う。
こちらと同じ場所に立っている。
「戻れなくなるよ」
「戻る?」
問い返すと、そいつは少しだけ首を傾げた。
「わかっていないのか」
何を、とは聞けなかった。聞く前に、分かってしまったからだ。
一一私は、ここに“来た”んじゃない。
最初から、ここにいた。
思い出す。
古書店の棚。
並んだ本。
背表紙に書かれた名前。
どれも見覚えがあるのに、内容が分からない。
いや、違う。
内容があるはずなのに、そこだけ抜けている。
「本来はね」
男の声が蘇る。
「外にしかないんです」
何が。聞き返さなかった言葉の意味が、今なら分かる。
一一あの店は、外にある。
記憶を思い出そうとする者のために。
では、なぜ私は入れたのか。
「……罅、か」
思わず呟く。
帳の表面に、細い罅が走っている。そこから、外の残影が流れ込んでいる。
一一さっき見た“向こう側の私”もその漏洩に過ぎなかったのだ。
無理やり、こじ開けられたような痕跡。
理解した。
外にいるだれかが、これを損ったのだ。
思い出そうとして。
一一あるいは、思い出してしまったがゆえに。
頭の奥で、何かが軋む。
断片が浮かぶ。
駅のホーム。
夜。
言い争い。
落下する影。
一一やめろ。
烈しい拒絶が走る。
これは、想起してはならない事象だ。
だから封じた。だから帳を張ったのだ。
「やめたほうがいい」
背後の“私”が、もう一度言う。
今度ははっきり分かる。
これは警告じゃない。拒絶だ。
私は、不要だから。
足が動いた。
交差点を、まっすぐに進む。
止める声は聞こえないふりをした。
どれくらい歩いたのか分からない。
やがて、駅に出た。
無人駅だった。
灯りは点いているのに、人の気配がない。
ホームに、一人だけ立っている。
一一私だ。
外の私。
目が合った。
その瞬間、表情が崩れた。
驚愕でも、恐怖でもない。
もっと直接的な感情。
拒絶。
「来るな」
唇が動いた。声は聞こえなかったが、意味だけが伝わる。
一歩、近づく。
その途端、外の私は後ずさる。
足を踏み外す。
ホームの縁。
一一落ちる。
轟音。
無機質な鉄の塊が通過する。
視界が、白く弾ける。
静寂が戻る。
ホームには、もう誰もいない。
しばらくして、私は動いた。
落ちていた鞄を拾う。
中身を確認する。
財布。
鍵。
携帯電話。
どれも見覚えがある。
だが一一使い方を知っている理由が分からない。
それでも、問題はない。
機能は理解できる。生活はできる。
改札を抜ける。
駅を出る。
夜が、少しずつ明けていく。
一一これでいい。
そう思った。
どこかで、音がした気がする。
シャッターに貼られた紙が、風に揺れる音。
そこに書かれていた言葉を、思い出そうとする。
思い出せない。
ただ一つ、感覚だけが残る。
何かが、残っている。
それが何かは、もう分からない。
だから私は、荷物をまとめる。
この場所を離れるために。
どこへ行くのかは、決めていない。
決める必要もない。
選ぶ理由を、持っていないからだ。
一一だが、選ぶことはできる。そういう構造になっていると、理解している。
一歩、踏み出す。その動作に、ためらいはなかった。
行先を選ぶ理由を持っていないと同時に、ためらう理由も持っていないからだ。
それでも私は、進む。
主体として。
足は、動く。体は、正しく反応する。
それで十分だと、どこかで判断している。
一一誰が。
考えるのをやめた。
朝の光の中で、私は歩き出す。
名前のないまま。
理由のないまま。
ただ、“残っているもの”だけで構成されたまま。




