表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

【帳】一簒奪一

作者: 吴云
掲載日:2026/04/29

夜の三時というのは、境界が曖昧になる時刻だと、誰かが言っていた。



根拠はない。

ただ、そういうふうに言われている、というだけの話だ。



私がその話を聞いたのは、古書店の奥、埃の匂いのする帳場でのことだ。



店主は年齢不詳の男で、いつも同じ角度で眼鏡をかけている。



「“とばり”をご存じですか」



唐突にそう言われた。



聞き返すと、男は少しだけ笑った。



「夜と朝の境目に降りる、薄い膜のようなものです。触れることはできないが、見える人には見える」



意味のわからない話だった。



だが、私は今、その時刻に交差点に立っていた。



信号は規則正しく点滅している。風はない。音もない。それなのに、空気だけがわずかに歪んでいる。



一一揺れている。



目を凝らすと、それは確かにそこにあった。



透明な膜のようなものが、交差点の中央に垂れている。



夜の闇とは違う。もっと密度のある、押し返してくるような暗さ。



「……帳、か」



口にした言葉が、喉の奥で酷く苦く爆ぜた。



その言葉の響きだけが、剥き出しの神経を逆撫でするような、生々しい手触りを伴って蘇ってくる。





古書店に入ったのは、それより少し前のことだ。



見覚えのない路地に、見覚えのない店があった。



引き戸を開けると、紙の匂いがした。



奥に男が一人、座っている。年齢は分からない。印象も曖昧だ。ただ、そこに“いる”という事実だけがはっきりしている。



「探し物ですか」



唐突に言われた。



「……何を、ですか」



「それを探しに来たのでは」



男の声は、ひび割れた陶器を擦り合わせるような、乾いた響きを伴っていた。



「私は何も探していません。ここへは、ただ一一」



「いいえ。貴方が探している落し物は、昨日の続きだ」



会話が成立しているようで、その実、噛み合っていない。

一一己の思考能力を疑う以前に、脳髄が白い膜でつつまれたようだった。



私が「言葉」を投げているつもりでも、男に届く頃には、それは意味を持たない音の羅列に変質している。



そして男は帳簿をめくりながら、こちらを見ないまま言った。



「……欠損マイナスが出ていますね」



男の指先が、黄ばんだ紙面をなぞる。その乾燥した音だけが、白い膜につつまれた私の脳に、異常なほど鮮明に響いた。



「何の」



「記録です」



「何の」



「あなたの」



即答だった。



噛み合わない。



否定する理由はあったはずだが、言葉が出てこなかった。代わりに、別の疑問が浮かぶ。



私は、自分の拳の中で握られた「物」を凝視する。



それは、私がつい先ほどまで自分の体の一部だと信じていた、名前も思い出せない「何か」の欠落だった。



「……じゃあ、私は何を失っているんですか」



男は、そこで初めて顔を上げた。



「失っている、とは限りません」



「どういう意味ですか」



「残っているだけかもしれない」




店を出たとき、違和感はすでに始まっていた。



通ってきたはずの道が、正しくない。



電柱の位置や、コンビニの明かりの距離が微妙に違う。



気のせいだと思っていたが、歩程ほていを重ねるごとに募る違和感は確かに積み重なっていた。



だが、それは恐怖ではなかった。


ただ、正しくない。整合性が取れていない。

一一そう思っている自分が、どこか他人のよう。そういう感覚だった。



「帳に触れた人は、少しずつ“外れる”んです」




交差点の中央にある“それ”を見ながら、私は考える。



なぜ、ここに来たのか。



なぜ、帳のことを教えられたのか。



そして一一なぜ、それを“越えた記憶がある”のか。



そのとき、空気が歪んだ。



膜の向こう側で、何かが動く。



人影。



いや、違う。



“私”だ。



こちらを見ている。

鏡を見るような感覚に、わずかな遅れがある。



「やめたほうがいい」



声がした。背後から。



振り向くと、さらにもう一人の私が立っている。さっき見た“向こう側”とは違う。



こちらと同じ場所に立っている。



「戻れなくなるよ」



「戻る?」



問い返すと、そいつは少しだけ首を傾げた。



「わかっていないのか」



何を、とは聞けなかった。聞く前に、分かってしまったからだ。




一一私は、ここに“来た”んじゃない。



最初から、ここにいた。




思い出す。

古書店の棚。

並んだ本。

背表紙に書かれた名前。

どれも見覚えがあるのに、内容が分からない。



いや、違う。

内容があるはずなのに、そこだけ抜けている。



「本来はね」



男の声が蘇る。



「外にしかないんです」



何が。聞き返さなかった言葉の意味が、今なら分かる。



一一あの店は、外にある。

記憶を思い出そうとする者のために。



では、なぜ私は入れたのか。



「……罅、か」



思わず呟く。



帳の表面に、細いひびが走っている。そこから、外の残影が流れ込んでいる。

一一さっき見た“向こう側の私”もその漏洩に過ぎなかったのだ。



無理やり、こじ開けられたような痕跡。



理解した。



外にいるだれかが、これをそこなったのだ。



思い出そうとして。

一一あるいは、思い出してしまったがゆえに。



頭の奥で、何かが軋む。

断片が浮かぶ。



駅のホーム。

夜。

言い争い。

落下する影。



一一やめろ。



はげしい拒絶が走る。

これは、想起してはならない事象だ。



だから封じた。だから帳を張ったのだ。



「やめたほうがいい」



背後の“私”が、もう一度言う。



今度ははっきり分かる。



これは警告じゃない。拒絶だ。



私は、不要だから。



足が動いた。



交差点を、まっすぐに進む。

止める声は聞こえないふりをした。




どれくらい歩いたのか分からない。



やがて、駅に出た。

無人駅だった。



灯りは点いているのに、人の気配がない。



ホームに、一人だけ立っている。

一一私だ。



外の私。

目が合った。



その瞬間、表情が崩れた。

驚愕でも、恐怖でもない。


もっと直接的な感情。



拒絶。



「来るな」



唇が動いた。声は聞こえなかったが、意味だけが伝わる。



一歩、近づく。



その途端、外の私は後ずさる。

足を踏み外す。

ホームの縁。



一一落ちる。



轟音。

無機質な鉄の塊が通過する。

視界が、白く弾ける。



静寂が戻る。



ホームには、もう誰もいない。



しばらくして、私は動いた。



落ちていた鞄を拾う。



中身を確認する。


財布。

鍵。

携帯電話。



どれも見覚えがある。



だが一一使い方を知っている理由が分からない。



それでも、問題はない。



機能は理解できる。生活はできる。



改札を抜ける。

駅を出る。

夜が、少しずつ明けていく。



一一これでいい。



そう思った。



どこかで、音がした気がする。



シャッターに貼られた紙が、風に揺れる音。



そこに書かれていた言葉を、思い出そうとする。



思い出せない。



ただ一つ、感覚だけが残る。



何かが、残っている。

それが何かは、もう分からない。



だから私は、荷物をまとめる。



この場所を離れるために。



どこへ行くのかは、決めていない。



決める必要もない。

選ぶ理由を、持っていないからだ。



一一だが、選ぶことはできる。そういう構造になっていると、理解している。




一歩、踏み出す。その動作に、ためらいはなかった。



行先を選ぶ理由を持っていないと同時に、ためらう理由も持っていないからだ。



それでも私は、進む。

主体として。



足は、動く。体は、正しく反応する。

それで十分だと、どこかで判断している。



一一誰が。



考えるのをやめた。



朝の光の中で、私は歩き出す。


名前のないまま。

理由のないまま。




ただ、“残っているもの”だけで構成されたまま。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
読んでる私の頭も白い膜に包まれたように、ただ心地よく読んでしまいました。それでももっと理解したくてなんどもぐるぐる…… 情景が素敵で、たまたま早朝に開いたのですが、朝の静けさにぴったりな不思議な読み心…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ