第五話(最終話):左腕の宿命、潮風に吹かれて
第五話(最終話):左腕の宿命、潮風に吹かれて
宮本茂が左腕から放つボールは、見る者の記憶を激しく揺さぶった。
高校三年の夏。甲子園の切符をかけた決勝戦のマウンドに立つ茂の姿は、あの「伝説」の生き写しだった。
深く沈み込む下半身、天を指す右腕、そして鞭のようにしなる左腕から放たれる快速球。
スタンドで見守るスカウトたちが、思わず身を乗り出して呟く。
「まるで……全盛期の江夏が投げているようだ」
茂の左腕には、あの日以来、特別な感覚が宿っていた。
能登町で江夏の母からサインボールを手渡されたとき、少年の小さな指先が触れたのは、単なる記念品ではなく「左腕の魂」だったのかもしれない。
新聞配達の集金カバンを左肩にかけ、左手で一軒一軒のポストに朝刊を差し込み、市民プールでは左腕で幾度も水を掻いた。すべては、あの日の感触に近づくための、孤独な巡礼だった。
マウンド上の茂は、打者と戦っているのと同時に、自分の中にある「憧れ」と戦っていた。
江夏豊と同じ、孤高のサウスポー。
江夏豊と同じ、母に誓ったプロへの道。
試合終了のサイレンが甲子園に鳴り響いたとき、茂は勝敗を超えた場所で、ようやく一人の投手として完成していた。
そして、ドラフト会議当日。
西宮の自宅で、茂は両親と並んでラジオに耳を傾けていた。
阪神タイガースを愛し、村山実に憧れ、「阪神子供の会」で育った少年時代。当然、心のどこかでは、あの縦縞のユニフォームに袖を通す自分を夢見ていた。
だが、静まり返った部屋に響いたのは、意外な球団の名だった。
「第一巡選択希望選手、横浜大洋ホエールズ。宮本茂。投手、十八歳」
一瞬の沈黙。
阪神ではなかった。憧れの江夏が、そして村山がいた聖地・甲子園を本拠地とする球団ではなかった。
母がそっと茂の肩に手を置く。その温もりが、あの日能登町で「宜しく」と言ったゑんさんの手と重なった。
「……大洋か」
茂は静かに立ち上がり、窓を開けた。
西宮の潮風が吹き込んでくる。この風は、浜甲子園を抜け、横浜の海へと繋がっている。
茂は机の引き出しから、今はもう真っ黒に汚れ、縫い目も潰れかけた一球のボールを取り出した。江夏豊のサインボール。
彼はそのボールを左手で包み込み、そっと自らの額に当てた。
「阪神じゃなくても、僕が投げるのは同じボールだ。……行ってくるよ、お母さん」
茂の胸には、寂しさはなかった。
江夏の母から「豊を宜しく」と言われたあの日、茂は確かに伝説の一部を託された。
これからは、縦縞ではないユニフォームを纏い、マウンドという名の孤独な戦場へ、自分自身の伝説を刻みに行くのだ。
翌朝、茂は最後になるかもしれない新聞配達に出た。
能登町の坂道を、噛み締めるように自転車で登る。
かつて江夏邸の前で立ち止まったあの場所で、茂は昇り始めた朝日に向かって、左腕を力強く振った。
掌には、あの日から変わらない、ずっしりとした硬式球の重みが、いつまでも残っていた。
(完)




