第四話:名門の洗礼と「宜しく」の重み
第四話:名門の洗礼と「宜しく」の重み
昭和四十八年、春。茂は兵庫県内でも指折りの私立強豪校の門を潜った。
「特待生」としての推薦入学。それは、新聞配達と市民プール、そして少年野球の土の上で独り磨き上げた、茂の「雑草の牙」が認められた瞬間だった。
しかし、名門野球部の部室は、実力だけがすべてを支配する場所ではなかった。
「おい、推薦の宮本。お前、中学では帰宅部だったんだってな」
練習初日、茂を待っていたのは冷ややかな視線だった。
シニアリーグのエリートコースを歩んできた部員たちにとって、中学野球部にも属さず、独りで泳ぎ、独りで新聞を配っていた茂の経歴は、異質で、鼻につくものだった。
「新聞屋の集金小僧が、名門のピッチャーになれると思うなよ」
練習道具を隠される。マウンドの整備を一人で押し付けられる。そんな稚拙な「いじめ」が数日間続いた。だが、茂の心は折れなかった。能登町の冬の朝、指先が凍りつくような寒さの中で新聞を配ってきた彼にとって、そんな嫌がらせは微風にすら感じなかった。
何より、彼の鞄の底には、あのすり切れた江夏豊のサインボールが眠っている。
――「豊を宜しく、お願いしますね」
あの日の母の言葉が、今も茂の背中を支えていた。
「……宜しくお願いします」
茂は、嫌がらせを仕掛ける先輩たちに対しても、かつて江夏邸の玄関で見せたのと同じ、深く、落ち着いた礼を返した。それは卑屈な態度ではなく、野球という神聖な場に対する彼なりの「誠実さ」だった。
その沈黙が破られたのは、入部から一ヶ月後の紅白戦だった。
「おい宮本、投げてみろ。生意気なツラをいつまで拝ませるつもりだ」
いじめの主導格だった二年生の主軸打者が、茂をマウンドへ引きずり出した。
茂はゆっくりとマウンドに上がった。
足場を固める。能登町の坂道で鍛え上げた下半身が、しっかりとマウンドの土を噛む。
市民プールで作り上げたしなやかな肩が、深く、大きく旋回した。
第一球。
硬式球が、空気を切り裂く鋭い音を立てた。
「……ッ!?」
打者のバットはピクリとも動かなかった。捕手のミットが、爆音を立てて跳ね上がる。
二球、三球。
茂の投球は、ただ速いだけではなかった。
新聞配達で鍛えられた指先が、ボールの縫い目に強烈な回転をかける。江夏のような伸び、村山のような気迫。独学で、けれど誰よりも純粋に「伝説」を追いかけた少年の執念が、白球に宿っていた。
打席に立ち尽くす先輩に向かって、茂は静かに言った。
「……宜しく、お願いします。次、行きます」
その日から、いじめは消えた。
実力で黙らせたのではない。野球という競技に対して、あまりにも真っ直ぐで、あまりにも孤独に牙を研いできた茂の「凄み」に、誰もが畏怖を感じたのだ。
甲子園への道。
その険しい階段を一歩ずつ登り始めた茂の視界に、プロという二文字がようやく、現実の光として差し込み始めていた。




