第二話:泥にまみれた決意
第二話:泥にまみれた決意
あの日、掌に残った硬式ボールの重みは、茂の心に静かな、けれど消えない火を灯していた。
「お父さん、お母さん。僕、ちゃんとした少年野球のチームに入りたい」
夕食の席、茂は切り出した。
昭和四十五年、万博景気に沸く世の中ではあったが、宮本家の家計が決して楽ではないことを茂は知っていた。野球を本格的に始めるには、月謝だけでなく、硬式用のグローブ、スパイク、ユニフォーム……揃えなければならないものが山ほどある。
「野球か……。茂、お前には新聞配達もあるし、勉強だってあるだろう」
父親の言葉は、反対というよりは心配に近かった。
「配達は続ける。朝刊も、夕刊も。それで少しずつ道具代を払うから。足りない分は、誕生日のプレゼントも、お年玉もいらない。だから、お願いします」
茂の目は真剣だった。能登町の坂道で鍛えられた足腰と、あの江夏の母から託された「宜しく」という言葉の重みが、彼を突き動かしていた。
根負けした両親から許しが出たのは、それから一週間後のことだった。
それからの茂の生活は、一変した。
朝四時に起き、暗闇の中で朝刊を配る。授業が終われば夕刊を配り、その後は一人で壁当てとランニング。指先にはインクの匂いが染みつき、爪の間は常に黒かった。
「おっ、宮本。新しいグローブか?」
同級生が万博のパビリオンの話で盛り上がる中、茂は新聞配達で貯めた金を持って、西宮市内のスポーツ店へ通った。
ショーケースの中で光る、牛革の匂いが漂う硬式グローブ。何度も通い、ようやく手にしたその相棒を、茂は毎晩、江夏投手からもらったサインボールを芯にして、丁寧に揉みほぐした。
そして、十二歳の夏。
茂は、知人から聞いた地元の少年野球チームの門を叩いた。
周りの少年たちは、親に買い与えられた真新しいユニフォームに身を包んでいたが、茂の履いているスパイクは、自分の稼ぎで買った、少し型遅れの丈夫なものだった。
「おい、新入り。お前、体は小さいな。そんなんで放れるのか?」
上級生の冷やかしが飛ぶ。茂は何も言い返さず、ただマウンドの土を見つめた。
「……お願いします」
茂が手渡された練習用の硬式球を握ったとき、驚きが周囲を包んだ。
十二歳の少年の手とは思えないほど、その指先には力強いマメがあり、インクの跡と重なって独特の凄みを放っていたのだ。
第一球。
能登町の坂道を自転車で数千回往復し、重たい朝刊の束を運んで鍛え上げた「足腰」が、爆発的な力を生んだ。
シュ、という風を切る音。
白球は唸りを上げ、捕手のミットを激しく叩いた。
静まり返るグラウンド。
茂の視線の先には、かつてあの家で見た、孤独にマウンドを守るエースの背中が重なっていた




