第一話:能登町の坂道と一球の白球
第一話:能登町の坂道と一球の白球
少年は、一つのサインボールを手にした。
昭和四十五年。西宮の空は、三月の冷たい風と、間もなく始まる大阪万博の熱気とが混ざり合い、妙に騒がしかった。
十二歳の宮本茂は、重たい新聞バッグを肩にかけ、能登町の急な坂道を自転車で登っていた。息を切らし、ペダルを漕ぐ足には、すでに大人に近い硬い筋肉がつき始めている。
「宮本君、いつも早いな」
路地で会う大人たちの声に、茂は短く会釈を返す。
茂は「阪神子供の会」の会員証を宝物にしている野球少年だった。だが、彼が手にしているのは、近所の空き地で使う使い古された軟式ボール。プロ野球選手たちの、あのまばゆい世界は、テレビの中や甲子園のスタンドから眺める、遠い「お伽話」のようなものだった。
その日の集金は、町内でもひときわ静かな佇まいを見せる一軒の家だった。
阪神タイガースの若きエース、江夏豊が、その母・ゑんさんと暮らす家である。
茂は、インクの匂いが染みついた手で、緊張しながらインターホンを押した。
「新聞の集金です……」
出てきたのは、上品で、どこか凛とした空気を持つ女性、ゑんさんだった。
彼女は茂が差し出した集金袋を受け取ると、ふと思い出したように奥へ戻り、再び玄関に現れた。
「いつも、ご苦労様。これ、頑張っている宮本君に」
手渡されたのは、一球の白いボールだった。
茂がそれを手にした瞬間、電気が走ったような感覚が掌を貫いた。
(重い……)
草野球で使うゴムのボールとは違う。ずっしりとした、芯の詰まった「硬式」の重み。そこには、殴り書きのような、けれど力強い「江夏豊」の署名が記されていた。
「豊を宜しく、お願いしますね。……あなたも、野球をやっているんでしょう?」
ゑんさんの言葉に、茂は声が出なかった。ただ、深く、何度も頷くことしかできなかった。
「豊」という一人の息子を案じる母の眼差しが、そのボールを通じて少年の胸に流れ込んできた。
帰り道。能登町の坂道を下る茂のポケットには、あの日以来、決して手放せない重みが宿っていた。
指先を鳴らし、硬い革の縫い目をなぞる。
(いつか、このボールにふさわしい男になりたい)
遠く千里の丘にそびえ立つ「太陽の塔」が、西日に照らされて光っている。人々はこぞって未来を見上げていたが、十二歳の茂だけは、掌の中にある一球のリアリズム――「伝説」から託された重みだけを見つめていた。
これが、後に「宮本茂」という投手が誕生する、すべての始まりだった。




