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「○にたい」と言われたら、どうしますか?

作者: あいう
掲載日:2025/12/07

 人生はエスカレーターみたいだ、と最近よく思う。  

 生まれた瞬間から“死”という終点へ向かって、勝手に動いていく。  

 多くの人はそれを逆走して、必死で遠ざかろうとする。  

 けれど俺は、その流れにただ乗っているだけだ。  

 わざわざ走って抵抗するほど、死から逃げたいとも思わない。  


――むしろ、早く辿り着いてしまいたい。


 でも、結局その一歩を踏み出せない。痛み、息が詰まる恐怖、視界の揺れ、そもそも死んで楽になる保証があるのか。

「死」とは動作機能を失うだけでその他の五感は残り続けるのではないか。


 あらゆる“生にしがみつく反射”が邪魔をして、俺は今日も、生かされている。


 死ぬ勇気さえ持てない自分が、いちばん嫌いだった。  


 誰かに相談なんてしない。「死にたい」と言って肯定してくれる人間なんていない。どんなに親しい人であっても、いや、親しいからこそ、その瞬間から”理解者”は“否定者”に生まれ変わる。


 みんな必ず、生の方向へひっぱろうとする。

 その善意が、俺にはただの否定に聞こえてしまう。

 だから、誰も信用しないし、誰にも相談できない。  


――椎名に会うまでは。


 放課後の校舎は、冬の曇った空と同じ色をしていた。

 黒瀬悠仁くろせ ゆうとは、教室の窓際に座りながら、ぼんやりとその灰色を眺めていた。


 今日も、生きる理由は見つからなかった。

 でも、死ぬ勇気もなかった。


 あの日――屋上のフェンスの向こう側に足をかけたときの、あの粘つくような恐怖。

 風の冷たさよりも、体中に走った震えの方が強かった。

 “死ぬのが怖い”という本能が、最後の一歩を拒んだ。


 結局、自分はなにもできない。

 生きるのも下手で、死ぬことさえできない。


 俺は中途半端な人間だ。


ーーーーーーーーーー


 その日、俺は帰りの昇降口で、いつものように人の波から少し遅れて靴を履き替えていた。

 ふと、階段の踊り場に、誰かが座り込んでいるのが見えた。

 長い黒髪が肩から垂れ、制服のスカートの裾がわずかに震えている。


 泣いている、のだろうか。


 普段なら気づかないふりをして通り過ぎたはずだった。

 でも、その横顔が、あまりに自分と同じ“影”をまとっていたから、足が止まった。


「……大丈夫?」


 声をかけるつもりなんてなかった。

 自分が誰かに優しくする資格なんてあるはずがない、といつも思っていた。

 しかし少女はゆっくりと顔を上げ、泣き腫らした目でこちらを見た。


「……大丈夫じゃないよ」


 その言い方が、あまりに素直で、あまりに正直で、俺は言葉を失った。

 少女は続けた。


「でも、誰も気づいてくれないから……大丈夫って、言わなきゃいけないの」


 その苦しげな笑顔が、胸の奥をざらりと引っかいた。


「……名前、聞いてもいい?」


「椎名……椎名凪沙しいな なぎさ


 彼女は涙を拭きながら、少し照れたように笑った。

 それは、泣き疲れた子どもが無理に作る笑顔ではなく、痛みを抱えたまま誰かに触れようとする、小さな勇気の形だった。


「黒瀬悠仁。……ただの、普通の高校生」


「普通、じゃないよね。そんな顔してる」


 その一言で、心の奥にしまっていた何かが一気に露わになる気がした。


「……君も、普通じゃなさそうだけど」


「うん。私も……生きるの、苦手」


 階段の踊り場で、二人の視線が重なる。

 その目には、同じ色の影が揺れていた。


ーーーーーーーーーー


 次の日の昼休み、いつもの屋上で食欲もなくてぼんやり空を眺めていたら、ドアの開く音がした。  

 振り向くと、長い黒髪の女子が無言でフェンスに寄りかかり、同じように空を見ていた。


「ここ、よく来るの?」  


 突然話しかけてきた。視線は空のままだ。


「……たまに」


「ふーん。死にたいの?」  


 あまりに自然すぎて、呼吸が止まった。  

 逃げ場のない、ただの事実確認のような声。


「……『死にたい』って言ったら、助けてくれるのか?」  


 期待なんてしていない。  

 ただ“どうせ誰も助けない”と確認したかっただけだった。  

 彼女は少しだけ首を傾けて、


「助けないよ。そういうの、好きじゃない」  


 それは拒絶ではなく、“そのままでいいよ”と許すような声だった。  

 重い沈黙が落ちる。  

 屋上の風の音だけが生々しく耳に残る。


「ねえ」  


 彼女が柵に手をかけたまま、空を見るように言った。


「君は、ここから飛び降りられる?」  


 あまりにも素直な問いに、胸の奥がざわついた。


「……無理だろ」


「なんで?」


「確実に死ぬ」  


 答えるたびに、喉が少しずつきしむ。  

 彼女がゆっくりこちらへ視線を向けた。  

 目はどこまでも静かで、揺れていない。


「そうだね。確実に死ぬ」  


 事実を口にしただけの、乾いた優しさ。  

 だけど、その言葉を聞いて、なぜだか胸がざわつく。  

 ふいに、気づけば口が動いていた。


「……そんなこと聞いて、君は俺に死んでほしいのか?」  


 自分でも驚くほど低い声だった。  

 責めるつもりはなかったのに、どこかで怖くて、どこかで試したくて、言葉が勝手に滲み出た。  

 彼女はほんの一秒だけ目を瞬かせて、


「別に。」  


 淡々と答えた。  

 突き放すようで、でも残酷ではなかった。  

 “理解している”という温度だけが、静かにそこにあった。


 その瞬間、初めて思った。  

 この子は、本当に止めないんだ。


 ――だからこそ、少し安心した。


 それから俺と椎名は二人で時間を過ごすことが多くなった。


 ある夕方、人気のない河川敷で座り込んでいたとき、椎名が言った。


「死ぬって、怖くないわけじゃないんだよ。でも、生き続けるほどの理由が見つからないだけ」  


 それは俺にもそのまま返ってくる言葉だった。


「あなたは?」


「……強いていうなら、死ねないから、かな」  


 椎名は小さく笑った。  

 その笑みは、風に吹かれれば崩れてしまいそうに儚かった。


「だからさ。私は誰の制止も聞かない。聞いたら、それだけで私を否定されるから」


「……」  


 目が合った瞬間、何かが通じた。  

 “同じ場所にいる”という感覚。  


 二人とも、生に疲れ、死を否定されることに疲れ、でも死ぬ勇気も、完全な孤独も持ち合わせていない。

 そんな二人だから、隣がちょうどよかった。


ーーーーーーーーーー


 校舎裏のベンチ。夕日が長い影を落としていて、風が少し冷たかった。

 僕がため息をつくと、椎名が横目でこちらを見る。


「……また難しい顔してる」


「難しくもなるよ。神様ってさ、ひどいよな」


「いきなり神様の評価?」


「だって、人に痛みとか恐怖心とか付けたのに、寿命まで付けたんだぞ。

 簡単には終われないようにしておいて、最終的には終わらせるんだ。

 生きてほしいのか、死んでほしいのか……矛盾してる」


 椎名は少し考えてから、小さく笑った。


「……そういうの、君らしいね」


「らしいってなんだよ」


「いや、ちゃんと怒るんだって思って」


 椎名は足を組み替え、真面目な声になる。


「でも、確かに矛盾してるよね。

 私たちって、自分の意思で生まれてきたわけじゃない。

 気づいたらもう世界にいて……スタートは勝手に決められてる」


「だから思うんだよ。

 始まりを選べないなら、せめて終わりくらい選ばせてくれてもいいだろって」


 椎名は少しだけ目を伏せた。


「……うん。そう思うときはある」


「なのにさ。人生が合わない人が“やめたい”って言ったら、全力で止められる。

 挑戦なら“合わなかったらやめてもいい”とか言うくせに。

 人生にはそのルールが適用されないんだ」


「世界は矛盾してるよね」


「矛盾だらけだ」


 少し風が吹いて、椎名の髪が揺れた。

 彼女はゆっくり顔を上げて、どこか遠くを見るように言う。


 「私たちも矛盾してる」


 椎名の言う矛盾をまだ俺は理解できていなかった。


「どういうこと?」


 問うと、椎名は少しだけ視線をそらす。

 俯くでもなく、強がるでもなく、その中間みたいな表情。


「……ねえ、黒瀬くん」


 呼ばれる声だけが、やけに静かだった。


「“触れちゃいけないこと”ほど、心の中では強く動くことって……あるでしょ」


 それだけ言って、椎名はそれ以上説明しなかった。

 けれど、その沈黙が答えより雄弁だった。


 ああ――椎名の言う“矛盾”は、きっとこれなんだ。


 死にたいと言う自由を否定しない。

 そのはずなのに、どこかで互いに“いなくならないでほしい”と思い始めている。

 思ってはいけないとわかっていても、湧き上がってしまう。


 椎名は夕日のほうへ小さく息を吐き、弱く笑った。


「ね。矛盾してるよ、私たち」


ーーーーーーーーーー


 人は皆、平等に死んでいく。今この瞬間にも新しい命が生まれ、そして消えていく。人が死ねば誰かが悲しみ、時には涙を流す。

 人生のどこを歩いても、「死」を感じる瞬間は嫌というほどある。そのたびに人は死ぬものだと実感し、他人の死を悼み、自分の死を恐れる。  


――でも、それが俺にはよくわからない。


 ニュースで交通事故の死者の話を聞いても、胸の奥は何も動かない。そんな自分は冷たい人間なのだろうか。

 けれど同時に、こうも思う。  


 知らない誰かの死を悲しんで、九秒後に流れる明るいニュースで簡単に笑える

――それこそ本当の冷徹じゃないのか。


 結局みんな、人の死を悲しめる自分という感情に安心してるだけだ。

 どうせ僕が死んでも、いずれ誰もが忘れて笑って生きていくのだろう。

 そんな考えが頭をぐるぐる回っていたとき、隣にいた椎名がぽつりと口を開いた。


「……さっきからずっと難しい顔してるけど、何考えてたの?」  


 僕は少し迷ってから、視線を下に落としたまま答えた。


「……死んだら、さ。結局みんな、すぐ忘れるんだよなって」


「忘れる、か」


 僕の呟きを受けて、椎名はベンチに腰を下ろしながら空を見上げた。

 その表情は、悲しそうでも寂しそうでもなく、ただ淡々としていて、逆に重さがにじんでいた。


「だからさ、人は人と関わるんじゃない?」

 

 突然すぎて、僕は思わず椎名の横顔を見た。


「関わるって……何の話だよ」


「んー……うまく言えないんだけどね」


 椎名は足をぶらつかせながら続ける。


「百年くらいの人生で、何十人も、何百人もと会うでしょ。家族とか友達とか、好きな人とか。あれって全部……“誰かの記憶に自分を置いていく作業”なんだと思うよ」  


 僕は黙って聞くしかなかった。


「だってさ。忘れられたら、ほんとにいなかったことになるじゃん?  自分が死んで、自分のこと覚えてる人も死んで、“あ、私って本当にこの世界にいたんだっけ”って、証拠がなくなる」  


 椎名は軽く笑ったが、目だけは笑っていなかった。


「だから人って、必死なんだよ。文字を書いたり、絵を描いたり、写真を撮ったり、動画を残したり、データで保存したり。どんどん具体的に、どんどん正確に、“自分がいたよ”って残そうとする」  


 そこで言葉を止め、少しだけ顔をしかめた。


「でもさ、皮肉だよね。“長く残せるもの”を選ぶほど、“今隣にいる人”との距離って薄くなる。カメラ越しの思い出って、ほんとに“自分の記憶”なのかなって思うときもあるし」  


 椎名はようやく僕のほうを向いた。

 その目には、諦めでも希望でもない、ただまっすぐな熱のようなものが宿っていた。


「……ねえ」


「ん?」


「私は君を、死ぬまで忘れないよ」  


 その言葉は、あまりに静かで、あまりに重かった。  

 すぐに返事ができない僕を見て、椎名はさらに続けた。


「だから君も――  最後まで、私のことを忘れないでね」


 彼女だけが先に消えゆくような予感とともに、空気を読めない温かい風が彼女の黒い前髪を揺らしていた。


ーーーーーーーーーー


 夏の終わり頃。  

 椎名の表情が、時々、どこか“決意”の形をしていることに気づいた。  


 帰り道、彼女は言った。


「ねえ……もしさ、私が急にいなくなっても、怒らない?」  


 心臓が大きく跳ねた。  

 だが、それを表に出すことはできなかった。  

 俺だけは彼女の””理解者“でなくてはならない。


「怒らないよ」  


 そう答えるしかなかった。  


 でも、その夜は眠れなかった。  

 椎名のいない世界を想像してしまった。  

 想像したくなかったのに。


 ――その時、確信した。  


 椎名に対して、俺は“もっと一緒にいたい”と思ってしまったのだ。

 

 それは彼女の死を否定する行為だ。  

 理解者としてあろうとした自分の裏切りだった。

 

 胸の奥で、罪悪感がゆっくりと膨らんでいった。


ーーーーーーーーーー


「多分、私……長くはないよ」


 夜の公園で、椎名はぽつりと言った。

 風が冷たく頬を刺す。


「予感、みたいなもの?」


「うん。そんな感じ」


「怖くないの?」


「怖いよ。でもね……」


 椎名はベンチの上で膝を抱え、夜空を見つめた。


「この気持ちって、ずっと前からあって……でもそれは、いつ死んでもいいって意味じゃないの。

 “いつ死んでも構わないよね”って、自分に言い続けてきた感じ」


 俺は返す言葉が見つからなかった。


「君と話す時間はさ……

 “今すぐは死ななくてもいいかな”って思える時間なんだよ」


 それは救いではなかった。

 希望でもなかった。


 ただ、死を”先延ばし”にしているだけ。


 冷蔵庫で溶けて形を崩していく氷のように、

 ほんの少し遅らせているだけだ。


「だからね……君に出会えてよかったよ。“いなくなる日の前の日”まで、一緒にいてくれたら……それでいいよ」


 その言葉は優しくて、残酷だった。


 いなくなる日が来ることを前提にしている。

 それが“当たり前の未来”として語られている。


 でも――俺は否定できなかった。


「……分かった。最後の日の前の日まで、そばにいるよ」


「ありがとう」


 椎名の声は、風に揺れる冬の木の葉みたいに静かだった。

 強くない、優しくない、でも確かな音。


 ふたりの時間は永遠ではない。

 限られた砂時計の砂を、これ以上ないほどゆっくり落としているだけ。


 それでも――

 落ちきるまでの時間は、まだ残っている。


ーーーーーーーーーー


 ある帰り道。  

 椎名はいつもと同じ沈黙で歩いていたが、その沈黙は“片付け”の気配を含んでいた。


「……明日さ」  


 椎名がぽつりと言った。


「学校、来るかどうか、まだわかんない」  


 その“わからない”の意味を、理解してしまった。

 

 本当は「来てくれ」と言いたかった。  

 でも、それは彼女を縛る言葉だ。  

 彼女の痛みも、選択も否定することになる。


「……そっか」  


 喉の奥に押し戻した無数の言葉が、重く渦巻いた。  

 椎名は満足したように微笑んだ。


「もし明日いなかったら……今日のことだけ覚えてて。意味はないよ。ただ、今日の私はちゃんとあったから」  


 胸に刺さるような痛みが走った。  

 叫び出したいほどの衝動を、必死に押し殺した。


「……椎名」  


 名前を呼ぶだけで精一杯だった。  


 椎名は歩き出し、影が夜に溶けていく。  

 角を曲がる寸前、ふいに振り返って言った。


「ねえ。あんたさ……」  


 少しだけいたずらっぽく、でも奥に乾いた優しさを滲ませて。


「死ぬの、もうちょっと先にしなよ。今日のあんた、昨日よりちょっとマシだったから」  


 返事をする前に、椎名は消えるように歩き出した。  


「...ズルいな」


 追いかけなかった。それは否定になる気がしたから。  


 でも、足元を力いっぱい踏みしめた。  

 ――それだけで、俺も今日を“延長”したのだとわかった。  

 

 椎名の影が完全に見えなくなっても、胸の中のざわめきは消えない。  

 “もう一度だけ会いたい” その想いだけが、妙に鮮明に残った。  

 叶うかどうかは、誰にもわからない。

 ただ確かなのはひとつだけ。  


 今日、俺たちはまだ死ななかった。  


 それだけが、この世界と自分を繋ぐ、かろうじての接点だった。  

 夜は深まり、明日が来るかどうかもわからないまま――物語は静かに終わっていく。

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