小学生 低学年時代
小学1年生になった私は授業はすごく楽しかった。
ただ、長男にきいていた通り時折、癇癪をおこす先生だった。
ある日私は前日に用意したはずだった下敷きが見つからなった。
下敷きを使用せずに授業を受けていると担任に「下敷きは?」と聞かれもって来たと思ったが見当たらないと伝えるとゲンコツが入った。
だが、ゲンコツが入るだけで罵声がないし、兄から殴る先生だと聞いていたので驚きもせず泣きもしなかった。私の様子に担任の方が驚いた表情をしていたのは今でも忘れられない。
そして私は私に与えられた課題をしていたので何があったのか経緯は不明だが2年生の子が殴られ泣いていた。担任の勢いは止まらず黒板にチョークをバンバンと投げつけ罵声を浴びせている。
私からすれば家での日常と変わらないのでなんて事はなかった。人は怒り続ける事はないと悟っていたのだ。
私は冷静にこれはしばらく授業が止まるなと考え、課題も終わったし、なぜ用意したはずの下敷きがないのか探すことにした。
当日あった授業全てのノートを見てみる事にした。そうすると先日最後の授業だった算数のノートに挟んだままになって出てきた。
ランドセルの上から覗くと下敷きが見える為、ノートに挟んだままな事に気づけなかっただけであった。
安堵していると、担任の怒りが不意にこちらにも向かってきた。
「Mもだ!!関係ない態度をとっているけどMも授業があるのに必要な下敷きを忘れているんだぞ!!」
私は小学1年生なりたてとは思えないくらい冷静に冷ややかな感情のまま答えた。
「やっぱり持ってきていました。算数のノートに挟んだままになってました。」
殴ったのに泣くこともなく、あまりに冷静に事を伝える私に担任は引いてしまったのだと思う。
2年生も同じく引いていたと思う。
教室は時が止まったかのように静寂に包まれた。
担任の怒りはおさまり、「そうかい。殴られ損だったね」これで何事もなく授業は再開された。
そして人生で初めての給食を食べた。
祖母の料理は日本食のみで、漬物と白米、みそ汁で、白米ではない日は、そうめんか冷や麦が定番になっていた。味は可もなく不可もなくといったところだった。
そして家事全般特に料理が不得意な母の味と比べ格段においしかった。
しかし、保育園では満腹になると残してもよかったが担任は給食を残す事を絶対に許さない人間であった。
のちに初めての料理に見た目と食感で食わず嫌いをした時に、無理やり食べさせられ、怒られながら食べるものと記憶してしまい、大人になった今でも食べられない食材が出てしまう。
話を戻す。
そして私は初めて牛乳を飲んだ。
パックの牛乳だったが美味しいとは思えない味だった。
給食を終え、数分立った時、激しい腹痛と嘔吐、息が詰まって呼吸が出来ない症状が現れた。
嘔吐や腹痛は耐えられる事だったが、呼吸が出来ないのは苦しく酸欠になりどんどん視界が狭くなっていき耐えられそうになかった。
2年生が保健室の先生を呼んできてくれて、私はまだ名前も知らない先生の車で病院に運ばれた。
処置を終え、検査結果が出ると私は先天性の過度のアレルギー体質で今回トリガーになったのは牛乳アレルギーによって起きた事だった。
牛乳以外の食材にも反応があり、他にも動物アレルギーやハウスダストなど多くの反応が出ていた。
病院が終わっても親の姿はどこにもなかった。当時は携帯電話もない為、共働きの両親に連絡手段がなかったのだと思う。
先生の車で自宅まで送って貰うと、たまたま洗濯物を取り込みに来た母と鉢合わせした。
先生は経緯を話し、検査結果の用紙など医師に言われた事を伝えていた。
母は先生にお礼を言い、私に部屋で寝ているようにと言った。
先生が帰るのを見届けると母は鬼の形相で部屋に入ってきて、私をボコボコに殴った。
「恥をかかせやがって。お前の体調なんて知った事か。」そんな事を言い続けていた。
私が動けなくなると満足したように仕事に戻ると言い、母は消えてくれた。
翌日、体を引きずるように起きてきた私を見て母は「服で隠れる所しか痣はないのだから、痛がる様子は外に出すな。普段通りに過ごせ」そう言って家を出て行った。
担任は親から、給食の牛乳を止めるように指示が出ていない為、毎回牛乳はつくが、飲まなくて良いと言ってくれた。
そして学校から帰宅すると母が玄関で仁王立ちで待ち構えていた。
母から「仕事が出来ないのだから、別の形で働いてもらう。働かなければ食事なし。給食費も払ってやらない」と告げられた。
そして私の日常がスタートした。
学校から帰宅すると
①外に干してある洗濯物を取り込む
②玄関の掃除をする
③お風呂掃除をする
④掃除器をかける
⑤朝昼で溜まった食器を洗う(自営業の為、両親が昼食を食べに一度帰宅する)
⑥夕食後の跡片付けと食器洗い
⑦翌日の米を研いで炊飯器にセットしておく
⑧冷蔵庫の製氷機の水を切らしてはならない
※火は決して使用してはならない。
1年生になりたての私には洗濯物を取り込む作業が一番きつかった。
つま先立ちで歩いても丈のある洗濯物の下を引きずってしまうのだ。
引きずらないように腕に巻き付けて何往復もしていたが、天候が曇っていたりすると乾いておらず、湿っている洗濯物は当時の私にはとても重く肉体労働だった事を覚えている。
洗い物は踏み台を置けば、身長はカバーできたのでスムーズに出来た。
全てが終わってから学校で出た宿題をしていたが、宿題をする時間が遅すぎると怒られる毎日。
両親の寝室と自室が隣な為、夜遅くになっても宿題が終わらず起きていると部屋の光がカーテンから漏れ起きている事がバレてしまうのだ。
懐中電灯を使用したりしてみたが、無意味だった。