第6話|ベトナム人ママの孤独と謝罪
「……では、最後ですね。お話いただいてもよろしいですか?」
那賀が、やさしい笑顔で最後の一人、外国人ママのほうを見た。
しかし、外国人ママは、何かを話そうとしても言葉が出てこない。沈黙が長くなるほど緊張が増していき、不安げな顔になっていく。
「どうしましたか?」
那賀がそっと声をかけると、言葉を絞り出すように外国人ママが話し出した。
「……わたし……日本語……あまり上手くない。だから、みんな、わたしの話……きっとわからない…」
不安そうな声。
しかし、すぐに那賀は笑顔で返した。
「大丈夫ですよ。ゆっくりでいいから、聞かせてもらえますか?」
那賀の言葉に、他のママたちも、にっこりとうなずく。
少しだけ間があって……彼女は胸に手を置いて、小さく息を吐いた。
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……わたし、Nguyen Thi Lan。むずかしいから、ラン、と呼んでください。
ベトナムから……日本にきた。
わたしはベトナムで生まれて、23さいのとき、日本のだんなさんと会った。
だんなさんは、工場の仕事でベトナムにいた。
わたし、英語ちょっとできる。
だんなさんも少し。
だから、英語で話して……好きになって……日本にきた。
4年まえ。
いま、子ども4さい。
でも、日本語は……まだまだ。
とてもむずかしい。
子どもは日本語、ぜんぶわかる。
だから、いつも「ママ、わからないの?」って笑う。
はじめて日本にきたとき、わたし、すごくがんばった。
勉強もした。
日本のルールも、マナーも、いっしょうけんめい、まなんだ。
でも……とてもむずかしい。
保育園からのプリント……日本語ばかり。
漢字いっぱい。わからないこといっぱい。
夜になると、子どもが寝たあとでスマホを片手に、ひとつひとつ調べます。
分からない言葉をノートに写して、声を出して読みます。
ひとつのプリント読むのに、三時間かかることもあります。
それでも、まちがえます。
このまえも、持ちもののしめきり、ぜんぶすぎてしまった。
提出日がすぎてしまって、「もう遅いです」と先生に言われた日の帰り道、わたしは泣きながら子どもの手を引きました。
情けなくて……くやしくて……みじめで……。
子どもが「ママ、泣かないで」と言ってくれても、涙は止まらなかった。
子ども、かわいそうだった。
ひとりだけできなかった。
だれにも、たのめない。
だんなさん、今は単身赴任で遠くに住んでる。
ベトナムにいたとき、子どものころは家の外に出れば、近所の人が声をかけてくれた。
近所の人、みんな家族だった。
お祭りの日は親戚が集まって、にぎやかに笑って、母が作ってくれたバインミーの香りがして……。
その思い出を抱えて、私は日本に来た。
でも、ここでは一人。
声をかけてくれる人はいない。
その孤独が、つらいときがたくさんある...
夏休みは、もっと大変。
朝から晩まで、子どもと二人きり。
本当は、いろんなところに連れていってあげたい。
海も、プールも、動物園も。
たくさんの思い出を、つくってあげたい。
でも、切符の買い方も、行き方も、分からないことばかり。
人が多い場所に行くと、ことばを聞き取れなくて、頭が真っ白になる。
だから、出かける勇気がなくて……毎日、狭い部屋の中で過ごすしかない。
朝、窓の外が明るくなったら、子どもが「ママ、今日なにする?」と聞く。
朝ごはんを食べて、家の中で遊ぶ。
ブロックで街を作ったり、絵本を読んだり、一緒に絵をかいたり。
お昼ごはんを食べたら、また二人で部屋の中。
午後の太陽が部屋に差し込んでも、わたしたちは外に出られない。
夕方、外から「今日プール行ったんだ!」という声が聞こえる。
そのとき、子どもがぽつりと言う。
「なんで?うち、行かないの?」
その声が、胸に刺さる......
夜になってやっと子どもが眠ると、今度は日本語の勉強の時間。
テーブルにプリントとノートを広げ、翻訳アプリで言葉を一つひとつ調べる。
分からない言葉は声に出して、指でなぞって練習。
気がつくと夜中になっていて、窓の外は静まり返っている。
いちばんつらかったのは、ある日。
子どもが、わたしに言った。
「ママ、運動会こないで。みんなに、ママ外国人って言われる。」
……そのとき、心がばらばらになった。
日本にきてから、家族はだんなさんだけ。
友だちも、親も、いない。
だから、がんばるしかない。
でも、がんばっても、がんばっても、だめ。
だんなさんに、まちがえてばかりでごめんねって、いつも言っている。
周りにも迷惑かける。
わたし、ママなのに……なにもできない。
わたし……何もできていない。
子どもにもうしわけない。
外国人のおかあさんで……ごめんなさい......
わたしが外国人じゃなかったら……子どももだんなさんも、もっと幸せだと思う......
⸻
声が震えて、ランの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……わたし……ママ、できてない。
ママなのに、なにもできなくて……」
それ以上は、言葉にならなかった。
静まり返った空間に、すすり泣く声がひとつ、またひとつ。
隣に座っていたママがそっとランの背中に手を置き、優しくさすった。
「大丈夫……ランさんは、もう、ひとりじゃないよ」
「そうだよ。今日から私たちがランさんの友達。ランさんのママ友だよ」
誰かがそう言った瞬間、テーブルの空気がやわらかく変わった。
誰も責めない。誰も笑わない。
ただそこに、同じ母親たちのまなざしがあった。
泣きながら肩を震わせるランを、みんなが静かに囲んだ。
「ありがとう……ひとり、ずっと怖かった……」
長かった孤独の中で、初めて触れた温もりの輪だった。