第5話|専業主婦とHSC息子の長い夏
「残りはお二人ですね。どちらからお話ししますか?」
那賀の声に、私たちは顔を見合わせた。
……外国人ママさんは、まだ一言も話していない。
その沈黙を壊すように、一人のママが手を少し上げた。
「じゃあ……私からで。」
「お願いします。自己紹介からお願いできますか?」
「井上陽菜、36歳です。4歳の息子がいます。
……私は専業主婦をしています。」
専業主婦。
この一言のあとにくる反応は、もう分かってる。
だから、ちょっとだけ間を置いた。
「えー!いいなぁ、専業主婦!うらやましー!」
……ほらきた。予想通り。
「でしょ?って言いたいところなんですけどね。
うちは少しだけ事情があるんです。」
会場が静かになる。
「私の夏休みですが......」
⸻
「専業主婦の日常って、正直どうですか?」ってよく聞かれます。
……あの、みなさんがイメージしている専業主婦って、こうじゃないですか?
朝、子どもを送り出したら……
ソファに寝転んで、煎餅片手にバリバリボリボリ。
昼ドラ見ながら他人の泥沼恋愛に怒って泣いて、ときめいて、最後は眠くなって昼寝。
午後になれば、やっと来た私だけの自由時間!
「今日はあのパンケーキ食べに行こう!」っておしゃれカフェに突撃。
映える写真をパシャパシャ撮って、帰ったらすぐインスタ更新。
平日の昼間ってなんて天国なの!
コストコもイオンも駐車場は選び放題、レジもほとんど並ばない。
ランチも待ち時間ゼロ。効率最高。
明日は何も予定がないし……一人でテーマパーク行っちゃおうかな?
誰にも邪魔されずにショーを眺めてのんびり。
……お金もある程度自由に使えて、好きなときに好きなことを好きなだけできる。
働かなくてもいいだけで、家事がどれだけ大変でも、そりゃ楽でしょ?
そんなふうに見えますよね。
私はそれを否定はしません。
家庭を守るために専業主婦を選んだのは事実だし、働いているママに比べたら確かに自分の時間はあります。
だから、「専業主婦って、いいよね」と言われるのは、心のどこかでは分かるんです。
でも......
中には、“なりたくて”専業主婦になったわけじゃない人もいるってこと、知ってほしいんです。
私は、子どもがHSCで病弱だったから、仕事を続けられなくなったんです。
だから専業主婦になりました。
まず……HSCって、ご存じですか?
Highly Sensitive Child。
人よりも感覚が敏感で、音や光、人の気配、言葉のトーン……そういうものにすごく影響を受けてしまう子のことです。
うちの子はまさにそのタイプで。
小さな音にも怯えるし、人が多い場所に入ると体が固まってしまって、泣きながら耳をふさぐんです。
小さな背中を丸めて、両耳をきゅっと塞ぎ、震えながら私の足にしがみついていることも、珍しい光景ではありません。
だから……どうしても保育園が合わなかったんです。
私も、育休が終わったら仕事に復帰するつもりで、最初は保育園に入れたんです。
でも、毎日泣き叫ぶし、慣らし保育が2ヶ月経っても終わらない。
園の先生からも『もう少しお母さんと一緒のほうが、この子にはいいのかもしれません』って言われてしまって……。
しかも、うちの子は体も弱いんです。
すぐ熱を出して...気管支炎や喘息もあって、1週間に一度は病院。
保育園に通わせたら通わせたで、すぐに風邪をもらって、また休まなきゃいけない。
だから……私は仕事を諦めたんです。
そうしないと、この子が壊れてしまうと思って。
そして、つい最近の3月まで4年間、自宅保育の母子生活をしていましたんです。
ようやく今年、少人数制の幼稚園に入れて、少しだけ自分の時間が持てるようになった……そう思ったら、夏休みが始まったんです。
夏休みは、たぶん外から見ると、専業主婦なんだからいつもと変わらないし、大変なことなんてないでしょって思われると思うんです。
でも実際は、ずっと子どもと一緒。
休みなんてないんです。
平日も休日も関係なく、朝から晩までずっと相手。逃げ場がない。
それに、HSCの息子は家の中でも一人遊びが苦手なんです。
「ママ見て!」
「ママ来て!」
「ママ一緒にやって!」
……その呼び声に、心から応えたいと思っても、私の体力は毎日削られていくんです。
公園も人が多いと子どもがパニックになるから行けないし、室内で遊ぶにも敏感で疲れやすいからすぐに休憩が必要です。
買い物ひとつでも、人混みや音でぐったりしてしまう。
どこにも連れて行けない。
だから、1日がとにかく長い。
正直ね、最初は子どもを恨んだこともありました。どうしてうちの子だけこんなに繊細で弱いの、って。
でも、泣きながら耳を塞いで教室に入っていく息子を見ていると……無理に突き放すことなんてできなかった。
だから決めたんです。
この子のそばにいて、この子を守ろうと。
自分の時間もキャリアも、全部差し出そうと。
でも、それって……綺麗事だったんです。
夫は『家庭のことは任せたから』って、完全に仕事だけ。
確かに収入はあるから専業主婦でいられるんですけど……。
私は、家政婦なんですか?
子育てマシンなんですか?
この家って、誰の家なんだろう。
この子は、誰の子なんだろうって、思ってしまうんです。
お金の問題についても、稼いでいないのに夫のお金を使う罪悪感があります。
『稼いでないくせに』って思われたくない。
だから、できるだけ使わないようにして、我慢して。
本当は夫に頼りたいのに、頼れなくなるんです。
それとね……
一番つらいのは、孤独なんです......
一日中、誰とも話さない日もあります。
いや、一ヶ月の間で、夫と子ども以外と話さないなんて普通です。
幼稚園も途中入園だったからママ友なんていないし、パートにも出てないから同僚もいない。
誰かに弱音を吐きたくても、話す相手がいないんです。
だからね、『専業主婦って楽でいいよね』って言われるたびに……怖くなるんです。
ああ、弱音なんて絶対言っちゃいけない。
専業主婦だから辛いなんて、口に出しちゃいけないって。
そうやって自分を縛りつけて、どんどん声を出せなくなる。
本当は辛いって言いたい...
でも、共働きやシングルマザーとして、私よりも頑張っている人がいるのに...そんなことは口が裂けても言えません...
すみません、なんか暗くしてしまって。
たぶん私は...辛いって言いたかったのかもしれません...
これが、私の夏休みでした。
⸻
静かな沈黙のあと、共働きをしている佐倉が口を開く。
「......正直言って、専業主婦は羨ましいというか、せこいと思ってました。夫の収入で楽できて、自分の好きなことができて...。
でも、全員がそうじゃないんですね。
井上さんも、辛いって言っていいと思います。専業主婦さんだって、辛くなる時ありますもんね。
少なくとも、ここにいるママは、その思いを聞いてくれると思いますよ。みんな苦労している仲間じゃないですか!」
みんなが笑顔で頷く。
「ありがとうございます......わたし...辛かったです...」
井上から目からは、大粒の涙がこぼれ落ちた。