第2話|シングルマザーの夏休み
私は……去年に夫と離婚しました。
......子どもを守るためでした。
夫は、外ではとても真面目な会社員でした。
上司からの信頼も厚くて、部下からも慕われていて……家にいる私でさえ、最初は「こんな人と結婚できて幸せだな」って思ってたんです。
でも、ある時期から、夫が変わっていきました。
会社の大きなプロジェクトが失敗に終わって、その責任を一身に背負うことになった頃から……
毎晩、遅く帰ってきてはお酒を飲むようになりました。
最初は、「大変なんだな」「頑張ってるんだな」って、私も何も言わなかったんです。
でも、飲み方がどんどん荒くなっていって……
気づいたら、酔った夫は暴言を吐くようになっていました。
「お前はいいよな!家で楽してて!」
「ねえ...子どもも寝ているから...」
「なんだよ!口答えするなよ!誰の稼ぎで生活できていると思ってるんだ!」
……そのうち、怒鳴るだけじゃ済まなくなってきて。
壁を殴ったり、物を投げたり。私に手を上げることもありました。
でも、不思議なことに、朝になると夫はケロッとしているんです。
「昨日は飲みすぎて迷惑かけたな、ごめん……」
「今日は早く帰るからさ、一緒にご飯でも食べよう」
そんなふうに、優しい夫に戻っているんです。
でも、私はもう知っていました。
それがいつまで続くかなんて、分からないということを。
決定的だったのは、あの日のことでした。
「パパ、あそぼうよ!」
そう言って息子が近づいたとき、酔っていた夫はこう怒鳴りました。
「うるせえな!!」
そのまま手を振り払うようにして、息子を突き飛ばしたんです。
息子は転んで、頭を強く打って……血が出ました。
私はすぐに救急に連れて行きました。
幸い大事には至りませんでしたが、家に戻ると、夫は……
何事もなかったように、缶ビールを開けていたんです。
私はその姿を見て、確信しました。
「……この人に、この子の命を預けてはいけない」
翌日、離婚届を出しました。
夫は最初、ぽかんとしていました。
「……え、なんで?昨日のことは悪かったって、ちゃんと謝ったじゃん……」
「本当に昨日は悪かった。もう酒はやめるから。今度からは気をつけて、俺も変わるようにするから。」
そう言われても……もう信じられませんでした。
私はただ、震える声で言いました。
「もう限界なの……家族が、あなたにビクビクしながら過ごす毎日なんて、もう限界なの……」
「……いつか、子どもが、あなたに殺される……そう思ったの。だから、離婚してください。……お願いします……」
夫は、その場で泣き崩れました。
でも、私の覚悟が本気だと分かったのか……しばらくして、黙って判を押してくれました。
それが、私がシングルマザーになった理由です。
......そして、シングルマザーになって、初めての夏休みを迎えました。
シングルマザーになってもやることは変わらないかなぐらいの軽い気持ちでしたが...すぐに考えが甘かったと分かりました。
……私は、子どもたちのためにも働かなければいけなかったので、自治体の支援にも頼ろうとしました。
夏休みに備えて、学童保育の申請を出しました。
でも...枠がいっぱいで希望通りには通らず、「空きが出たら連絡します」と言われたきり、音沙汰なしで...
仕方なく、パートもシフトを減らしてもらって、家で子どもたちと過ごすことにしました。
でも、それってつまり、収入も減るということなんです。
子どもたちにはできるだけ我慢させたくない。
だから、夕飯を食べずに我慢したこともあります。
「なんでママはご飯食べないの?」
「ママね、お昼ご飯のおそうめんたくさん食べちゃったから、お腹いっぱいなの。だから、ママのことは気にせずにたくさん食べでいいよ」
子どもは不思議そうにしていましたが、私が我慢すればなんとかなる...夏休みさえ乗り越えれば...そう思っていました...
ちなみに私には、頼れる実家はありません。
母は病気を抱えていて介護が必要で、父も高齢。
地元に帰るという選択肢は、現実的には取れなかったんです。
「親に頼ればいいじゃん」とか「実家戻ればいいじゃん」って、簡単に言う人もいるけれど……。
そんな“逃げ場”すら、ない人だっているんですよ...苦しい時に親は必ずしも助けてくれるとは限りません...
離婚を親に電話して伝えたときも、
「舞子が悪かったんじゃないの?」
「あんな素敵な旦那さん、もう2度と現れないわよ」
「今すぐにでも舞子から謝りなさい。やり直してくださいって」
と言われてしまいました。
この状態で、どう親を頼ればいいのでしょうか...
それでも、なんとか頑張ろうと、休みの日に子どもたちを連れて児童館へ行ったことがありました。
すると、偶然、娘の保育園のママたちに会って——。
「あ……こんにちは」とだけ、軽く挨拶したんですけど……。
そのあと、聞こえてきたんです。
ヒソヒソと。
「あのお母さん、離婚したんですって」
「え?シングルマザーなの? うわ……」
「子どもがかわいそうよね、まだ小さいのに……」
「でも、自業自得じゃない?そういう男と結婚したの自分だし」
「子どものためにも、我慢するのが普通よね……」
胸が、ギュッとなりました。
知らないのに、なんで勝手なことを言うの?
あの人たちに、何が分かるの?
……あの日、帰ってから、ずっと涙が止まりませんでした。
私はこんなに頑張ってるのに。
なんで、こんな仕打ちを受けなきゃいけないの!
シングルマザーになったのは、もちろん私にだって原因があることは分かっていました。
でも、もう耐えることができなかったのです...
それから数日後——
私はもう、生きていたくないと、思ってしまったんです。
静かに、子どもたちが寝たのを確認してから、買ってきた睡眠薬を大量に飲みました。
次第に意識が朦朧としてきて...
そして、心の中で子どもたちに"さようなら"と言い、意識を失いました...。
でも、死ぬことはできませんでした。
目が覚めたのは、病院のベッドの上でした。
私の右手には、二人の小さな手が、ぎゅっと重なっていました。
翌朝になっても目を覚まさない私を見て......上の子が泣きながら、隣の家に駆け込んでくれたんです。
「ママが死んじゃった!! ママが動かないの!!助けて!!お願いだから助けて!!」
……どれだけ怖かったか。
どれだけ不安だったか。
私は、その小さな手の温もりを感じながら、声をあげて泣きました。
「……ごめんね……ごめんね……」
私が生きることを諦めてしまったら、この子たちはどうなるの。
私が、私を諦めてしまったら、この子たちから“ママ”がいなくなってしまうんだ。
そう思ったら、自分がしたことが許せなくて、悔しくて、情けなくて。
——でも、生きててよかった。
心の底から、そう思いました。
辛くて、苦しくて、逃げ出したくなる日もあるけれど、
でも、私は……この子たちのママだから。
もう一度、生きていくと、決めました。
どんなに孤独でも、誰に何を言われても、私は、この子たちのために、笑っていたいから。
これが——私の、夏休みでした。
話し終わったあと、しばらくの沈黙が流れた。
──すすり泣く音が、どこからか聞こてくる。
花岡の向かいに座っていた、先ほど冷たい言葉を向けたママが、ハンカチで目を拭きながら伝える。
「……さっきは酷いこと言って...ごめんなさい」
「私……あなたのこと、勝手に決めつけてました。シングルって聞いて、何も知らないくせに……本当に、酷いことを……」
「花岡さんも...本当に頑張って来られたんですね...」
彼女の声は震えていた。
その瞬間、他のママたちも少しずつ目を潤ませ、会話が静かにあたたかくなっていくのが分かった。