戦場と少女
カロリーバーの塩味が、口の中の水分を根こそぎ奪っていく。
口を動かすたび、舌が乾いた歯茎を撫でていく感覚があった。
「……これ、もう少しなんとかならないのか」
ぼやくように呟いた俺の隣で、仲間がげんなりとした顔で笑う。
「お前、何回目だよその文句。戦地のメシがうまいわけないだろ」
「っていうか、そもそも俺たち、何でこんなところで這いつくばってんだ……?」
「知るかよ、俺も聞きたいわ」
乾いた笑いとため息が塹壕の中にこだました。
爆音もない。銃声もない。けれど緊張だけは、肌に刺すように降り積もっていた。
停滞しきった戦線。
それでも最近は、“希望”と呼ぶにはおこがましい報告があちこちで囁かれている。
――各地での戦勝報告。
――“超人”たちの活躍。
「この前線だけ妙に静かだよな……」
「なあ、もしかして俺ら、“守られてる側”だったりして」
冗談みたいに言った誰かの言葉に、誰も返さなかった。
もしそれが本当なら、俺たちは知らぬ間に戦場の“最前線”じゃなく、
“舞台装置”になっているのかもしれない。
その時だった。
沈黙を裂くように、サイレンがけたたましく鳴り響いた。
「敵襲――!全兵、戦闘態勢ッ!」
地鳴りのような警報に、誰もが反射的に立ち上がる。
散らばるカロリーメイト、脱ぎかけの防弾ジャケット、さっきまでの愚痴。すべてを放り出して兵士たちは塹壕を駆ける。
そして、それは来た。
――黒。
どろどろと粘ついた黒が地を這い、形を持ち、立ち上がる。
人の形を模しているようで、まったくの別物。関節が逆に曲がり、皮膚の下で何かが蠢いている。
「きたぞ!向かいうて!!!」
上官の怒声が響き渡る。
鉄の雨が降った。
塹壕の先から、銃口が一斉に火を噴く。
5.56mm弾が空を切り裂き、黒き怪物へと浴びせられる。
しかし――
「効かねぇ!?マジかよっ!」
「弾、止まってる……いや、跳ね返されてる!?なんだよ、こいつ……!」
敵は倒れなかった。
むしろ撃たれるほどに、足を早めてこちらへ突っ込んでくる。
人型のようなそれは、肩から下を失ってもなお歩き、別の個体が傷口を這うように合体する。
まるで――不死だ。
「後退するな!手榴弾、用意!爆薬で吹き飛ばせ!!」
「くそっ、こいつら……“あれ”か!? 黒い粘体、将校クラスじゃねぇが、確実に“あれ”だ!!」
“搾りかす”。
異世界から現れた超人たちの残滓が変異し、化け物となったモノたち。
人ではない。だが、どこかかつて人だった気配だけが、皮膚の下に残っている。
銃声が空を裂く。
怒号が飛び交い、爆発音が大地を揺らす。
なのに、俺は動けなかった。
膝が塹壕の泥に沈んでいた。
手が、震えていた。
持っているはずの銃が、やけに重くて、まるで自分の腕じゃないみたいだった。
(また、始まった。敵襲。怪物。あれに、俺は……)
隣を走り抜けていく同僚たち。
中には年下の隊員もいる。
それでも彼らは、自分の役割を果たすために戦場へ向かっていく。
(なんで……俺は、ただ見てるだけなんだ?)
目の前で、黒い“それ”が現れる。
人の形をしているのに、人じゃない。
あの粘つく黒、うねるような動き。
身体が本能的に拒絶する。
銃を向けようとしても、指が引き金を引かない。
恐怖が、理屈を超えて神経を締め付ける。
(無理だよ。あんなの、倒せるわけない)
背中を押されることもなく、引き金に手を添えられることもない。
ここは戦場。誰かが助けてくれる場所じゃない。
仲間が一人、黒い何かに押し潰される。
血が飛ぶ。
悲鳴が上がる。
砲撃の音が、まるで耳鳴りのように遠くなる。
(俺は……何もできない)
足が震える。
自分だけ、世界から置いていかれている気がした。
みんな“動いている”のに、俺だけが止まっている。
俺は、“超人”じゃない。ただの人間だ。こんな戦場で、俺は……)
耳鳴りが止まらない。爆発音なのか、自分の心臓の鼓動なのかもわからない。
何かが崩れる音がして、誰かが叫んだ。でも、全部が水の中のように遠い。
手が震えていた。震えるというより、痙攣していた。
引き金にかけた指が固まって、動かない。硬直してる。違う。怖いんだ。怖くて、動けないんだ。
(……こんなの、無理だ。俺は、超人じゃない。ただの人間だ。)
(俺は――こんな化け物に立ち向かうためにここに来たんじゃ……)
ふと、思い出す。小さい頃の夢。テレビの中のヒーロー。
「かっこいいな」って言った俺に、「お前ならなれるよ」って笑った母さんの顔。
……そうだった。俺はヒーローになりたかったんだ。
でも、違う。
今の俺は、誰も助けられない。立ち上がることさえ、できない。
うずくまる俺の足元に、何かが転がり込んできた。
――ごろり。
目の前にあるのは、さっきまで軽口を交わしていた仲間の「首」だった。
目は虚ろに開かれ、口元にはまだ笑いの名残があった。
その瞬間、何かがはじけた。
(何やってんだ、俺は……!)
こんな所で、膝を抱えて震えていていいのか?
動かなければ、俺も奴らと同じ“モノ”になるだけだ。
「……大丈夫だ、大丈夫。まだ動ける」
自分に言い聞かせるように、声が漏れた。
心臓はまだ打っている。鼓動が、冷静に数えられる。
目の前の泥。くすんだ足。空気の重さ。全部が鮮明に見える。
――俺はまだ、生きている。
その時だった。
上から、ぼた、ぼた、と音がした。
頭上の土嚢から、黒く粘ついた液体が垂れ落ちる。
見上げると、そこにいた。
黒い不定形の化け物。
ヌルリとした触手のようなものが蠢き、形の定まらない肉塊がこちらを覗き込んでいた。
反射で、身体が動いた。
横っ飛びで塹壕を飛び出し、土煙を巻き上げながら転がる。
「もうここまでか……」という焦りが、喉元まで込み上げる。
マガジンを空にするまで引き金を引いた。
だが、それは止まらない。歩みを止めるどころか、ますます加速して近づいてくる。
「くそ、効かねえってのか……!」
銃を構え直す暇もない。
咄嗟に銃剣を取り出し、構えを低くする。
「来いやぁぁぁああああッ!!」
叫びながら突撃した。
怪物から触手が飛ぶ。速い。が、滑るように前転してかわし、
できる限り“中心”を目指して銃剣を突き上げた。
――ガギィン。
手ごたえ。異様な硬質の膜を裂いた瞬間、甲高い悲鳴が響き渡る。
黒い粘体が一瞬にして崩れ、ずるずると液状になって崩れ落ちた。
そのまま、俺の身体に覆いかぶさってくる。
「っっ、くっせぇッ!!!」
喉の奥がひっくり返るような、胃液のような刺激臭。
思わず咳き込みながら、粘液を手で払う。
「はあ、はあ……やった、やったぞ。討伐数……1」
でも、喜んでいる暇なんか、なかった。
後ろから、また別の足音が迫ってくる。
「っくそ、もう一体かよ……!」
俺は即座に粘液を拭い、再び銃剣を構えながら後方へと後退を開始した。
――ズキッ。
腹部に、焼け火箸を突っ込まれたような激痛が走った。
「……ッ!?」
恐る恐る視線を落とすと、そこにはぽっかりと空いた穴があった。
血が止まらない。呼吸するたびに、冷たい空気が傷口に染みてくる。
「は? ふざけんなよ……クソッ!!」
呻きながら、マガジンを交換する。
後方を確認――いた。
さっきのとは比べ物にならない巨体。
おそらく三メートルを超える、不定形の黒い粘体が塹壕の奥に鎮座していた。
「ははは……」
乾いた笑いが漏れる。けれど、足は止まらなかった。
生きたい。まだ死ねない。ただ、それだけのために。
引きずるようにして片足を前に出す。
泥の中を這うように進みながら、俺は叫ぶ。
「俺は……こんなところで死ぬつもりなんかねぇ!」
――その時、視界の右端に“希望”が見えた。
(あれは……爆薬庫の塹壕!?)
すぐに頭が働く。あそこまで行ければ、逆転の一手が打てるかもしれない。
目の前の地獄を、焼き尽くすために。
「……行くしかねぇ……!」
呼吸は荒い。血は止まらない。視界はにじむ。
それでも、足はまだ動いてくれた。
“追加の穴”――敵の攻撃は、なぜか飛んでこなかった。
必死の祈りが通じたのか、それとも単なる偶然か。
塹壕の中へ飛び込む。
爆薬の箱が並ぶ暗がりに入った瞬間、全身の力が抜けた。
「……はぁっ、はぁっ……」
そのまま、泥の床に崩れ落ちる。
息が苦しい。
でも、まだ死んじゃいない。
(……ここからだ。俺は、まだやれる)
塹壕の奥。
そこには、爆薬庫の名に恥じぬ量の火薬が山のように積まれていた。
「……これを使えば。アイツらを、まとめて……」
箱のひとつを開ける。中には、ダイナマイトの束。
俺は震える手でポケットからライターを取り出す。
指先が冷たい。傷口からの出血が、ついに限界を迎えつつあるのを感じていた。
(これで、終わりにできる。俺が火をつければ……あの黒い化け物どもを道連れにできる)
……なのに、手が動かない。
(なぜだ。もう、やるしかないのに)
ライターは指の中にある。火薬は目の前にある。
敵の足音は、すぐそこまで迫っている。
それなのに、体が石みたいに固まって、動かない。
(命が惜しくなったのか? こんな土壇場になって、まだ足掻こうってのか、俺は)
自嘲するように笑った瞬間――ふと、胸の奥から何かが浮かび上がった。
「……違う、違うだろ。俺は……死にたくてここに来たんじゃねぇ!」
叫びが喉を裂いた。
声は枯れ、涙と血が混じる。
目の前で揺れる導火線に、ライターの火が近づいていく。
でも、手を止めた。
「俺は生きて、笑って、誰かを救いたかった……」
「この命を燃やすんじゃない。――使うんだ。未来のために!」
ふらつく足で、爆薬から離れる。
もう一度、銃を手に取る。
死ぬためじゃない。生き抜くために。
だが――現実は、無情だった。
視界はとっくに歪み、四肢は重く、立つことさえままならない。
両足を地面に叩きつける。
だけど、確かに“感じてしまった”。
土の匂い。硝煙。血と臓物の温度。
それらが溶け合い、世界が俺に染み込んでくる。
皮膚でなく、骨でなく――魂の芯で、世界を「感じ取っていた」。
その時だった。
まるで、全てが繋がった感覚。
恐怖も痛みも、何もかもが溶けて――全能感だけが残った。
ぐらり、と身体が勝手に起き上がる。
死にかけていた身体が、何かに“許された”ように、再び立ち上がった。
――来る。
黒い不定形の怪物たちが、爆薬庫の入口を埋め尽くしながら迫ってくる。
逃げ場はない。
だが、不思議と絶望はなかった。
銃を手放し自然な動作で、右手を前に出す。
そこには、何もなかった。けれど。
空気が揺らぎ、“それ”が現れる。
まるで最初からそこにあったかのように――抜き身の刀が、俺の手に収まった。
「……っ!」
力を入れず、ただ自然に、振り下ろす。
風が切れる音すらなかった。
けれど次の瞬間――目の前の怪物が、音もなく真っ2つに裂けた。
どろり、と黒が崩れ落ちる。
しかし、“核”が残っていたのか、まだ動きを見せる。
構え直し、再び腕を振り下ろす。
今度は――断ち切った。
ざんっ、と小気味の良い手応え。
刃が深奥に届いたその瞬間、怪物は呻くように蠢き、音もなく、黒い液体へと崩れていった。
安堵感が残っている。
あの気持ち悪い匂いも、今は気にならない。
なにか“特別”なことが起きた。そう、直感でわかった。
「……一体、俺に何が起きたんだ?」
期待と不安が、熱く膨らんだ気体のように胸の奥で溜まっている。
耳鳴りがする。けれど、戦場の喧騒はどこか遠い。
まるで、ここだけ昨日に戻ったみたいだ。
そんな時だった。
塹壕の入り口から、ひとりの少女が現れた。
黒いワンピースに、白い髪と白い肌。
硝煙と血の匂いが染みついたこの地獄で、まるで異物のように―― 神秘的だった。
「あ、死んでるかと思ったのに……意外としぶといねー」
彼女はそう言って笑った。場違いなほど明るく、無邪気に。
化け物の群れが地を這っていた。叫び声もなく、ただ無機質に進む。
その前に、黒いワンピースの少女だけが、砂埃ひとつつかずに立っていた。
「ってか、なにボーッとしてんの? 戦場で昼寝?」
その場違いな格好と言葉に、俺は思わず問いかけていた。
「……お前は、誰だ?」
黒いワンピースの少女は、ふわりと髪を揺らして笑った。
戦場の匂いのしない、澄んだ空気がそこにあった。
……まるで、新しいおもちゃを見つけた子どものなまなざしだった。
こんな感じでいいの?