「目覚めの兆し」
「記憶の壁」作動モード / 2320年 2月1日 10:05 / 神聖記憶主義社会〜影の時代〜
記憶管理施設の中は、規則的な機械音が響くだけで、生命の気配がほとんど感じられない。壁一面に並ぶ無数のモニターが、青白い光を放ち、冷たく無機質な空間を照らしている。
その中央に立つのは一人の女性──エリザ・クロノス。
エリザはモニターを見つめ、淡々と手を動かしていた。その動きには無駄がなく、正確だったが、どこか機械的な印象を与えた。深い緑色の瞳が機械の光を反射し、わずかな影を宿している。漆黒の制服は整然としており、彼女の冷静さを際立たせていた。
モニターには、ある市民の記憶が映し出されている。子供たちが笑い声をあげ、それを見守る父親は、妻にプレゼントを手渡す──そんな温かな家庭の一幕だった。
しかし、その記憶は危険なものとして分類されていた。
「対象記憶、選別終了。抹消を開始します。」
エリザの声は無感情で、まるでその行為を自身と切り離しているかのようだった。正確に操作を続ける彼女の手は一度も迷わなかった──少なくとも、外見上は。
だが次の瞬間、指先が止まった。
モニターに映る家族の笑顔。その温かさが、彼女の奥底に眠る何かを揺さぶった。ほんの一瞬、エリザの胸に刺さるような感覚が走る。それは、普段の仕事では感じることのない疼きだった。
「……こんな記憶がなぜ危険だというの……?」
思わず漏らしたその言葉に、自分でも驚いた。急いで操作を再開しようとするが、握った拳がわずかに震えている。彼女はその震えを腕に無理やり力を入れて押さえ込み、再び冷静さを取り戻そうとする。
だが、その家族の記憶は、ただのデータには見えなかった。それは、まるで彼女自身の心に何かを問いかけているように思えたのだ。
誰もが知っている。エリザ・クロノスは完璧な管理官として感情を持ち込まず、常に冷静沈着だと。だが、エリザ自身は知っていた。この施設に足を踏み入れるたびに、自分の中に何かが波立つことを。
その波立ちは、幼少期に目撃したある出来事が生み出したものだ。それが何かを理解するには至らないが、彼女の中に消えない影として残り続けていた。
施設内は、翌日も変わらず冷たく無機質で、機械音が規則的に響いていた。エリザはモニターの前に座り、目の前に映し出されるデータを機械的に処理していた。背後には無数に積み上げられたデータポッドが並んでいるが、彼女が目を向けることはなかった。
(記憶は神聖な秩序の一部であり、教会の指示に従うことが唯一の正義だ。)
その声は、まるで耳元でささやかれるように、彼女の意識に入り込んでいた。幼い頃から記憶に刻まれた、教会の指導者が語る厳粛な教義の言葉。
それは、彼女が教会の一員として生きるために叩き込まれた掟だった。
彼女が次のデータにアクセスしようとした瞬間、モニターにノイズが走った。画面が一瞬揺らぎ、エリザの手が思わず止まる。
画面上部に警告が表示された。
「異常データ検出。対象外記憶、アクセス権限を超えています。」
冷たい合成音声が響く中、画面には断片的な映像が映し出された。ノイズの隙間から覗く風景に、エリザの目が釘付けになる。
──青い空の下で笑い合う人々。広場の中央にそびえ立つ巨大なスクリーン。そのスクリーンには開かれた目のシンボルが映し出されている。
見たこともない光景だった。教会の記録や教育では触れられたことのない映像。だが、どこか懐かしさを覚える──それが何なのか、彼女にはわからなかった。
「これは……何?」
エリザは無意識に画面に顔を近づけた。ノイズがさらに激しくなり、映像は次第に乱れていく。不意に画面が暗転し、自動シャットダウンの警告が表示された。
「アクセスが拒否されました。」
短く冷たい合成音が響き、一瞬だけ施設内の空気が硬直したように感じられた。エリザはしばらく動けなかった。胸の奥でかすかな違和感がくすぶり、次第にその感覚が大きくなる。それは、施設の規則や掟では説明できない感覚だった。
後ろから職員の足音が近づいてくる気配を感じ、エリザは急いで操作を再開するふりをした。施設を出る準備をする間も、彼女の胸には抑えきれない衝動が渦巻いていた。
「なぜあんな映像が……」
その思考を途中で切り上げるように、エリザは深く息を吐いた。
今の思いを言葉にしてしまえば、掟に反する行為だとわかっている。その風景の印象はエリザには強烈だった。
エリザは施設の外に出た。扉が冷たく閉まる音が背中に響く。エリザは立ち止まり、深く吸い込んだ空気の冷たさを肺に感じた。
夜の静寂が、彼女の心を落ち着かせるどころか、胸のざわめきを強めていく。
「教会は……何を隠しているというの……?」
自分の呟きに驚きながらも、エリザはその言葉が自分にとって避けられない問いであることを悟った。
そして、その問いが彼女を突き動かし始めようとしていた。




