「記憶のない母、記憶を抱く子」
「記憶の壁」作動モード / 同年 4月3日 17:20 / 神聖記憶主義社会〜影の時代〜
エリザはいつものように仕事を終え、暮れかけた街並みを歩いていた。街路灯が白い光を放つ中、いつもの広場に入ると、片隅で母親と幼い息子が楽しそうに笑い合う姿が目に留まる。母親の顔は柔らかく、息子の声は澄んでいた。
だが、何かが引っかかった。
エリザは無意識に足を止め、その親子を見つめた。母親は息子の言葉に反応し、笑顔を浮かべている。しかし、その表情の奥に、どこか不自然な空虚さが漂っている。まるで完璧な絵画の中に一筋の亀裂があるような違和感だった。
「お母さん、覚えてる? あの時、一緒にあの丘に登ったこと!」
少年の目は期待に輝いている。
その純粋な喜びの中には、自分が愛され、大切にされているという確信があった。しかし、母親は一瞬だけ動きを止めた。その間はほんの刹那で、すぐに笑顔が戻った。
「もちろんよ、覚えているわ。」
彼女の声は優しい響きを持っていたが、その奥に微かな震えがあった。
エリザの胸がざわめいた。彼女はその言葉が嘘であることを直感的に感じ取った。
浄化の儀式──母親はきっと、「あの丘」の記憶をすでに失っている。少年の中では鮮やかに生き続ける思い出が、母親の心の中にはただの空白に置き換えられているのだ。
母親の笑顔は、息子を安心させるために作られたものだった。
だが、その瞬間を目撃したエリザは、その笑顔の裏側に潜むものに目を背けることができなかった。
息子は嬉しそうに話し続ける。
母親の返答はどれも同じ温度を持ち、同じ空虚さを漂わせていた。エリザの胸に鈍い痛みが生じた。彼女は目を逸らし、歩き出そうとした。
しかし、その場を離れる前に、ふと息をついた。
( 私にも、こんな風に空白があるのかもしれない。)
心の中で呟いた瞬間、無意識に拳を握りしめている自分に気づいた。浄化された記憶。その存在は、あたかも暗闇の中に隠された秘密のように、彼女の中で静かに重みを増していく。
エリザは広場を後にしながら、自分の胸の奥にある不安の正体に向き合おうとした。その感覚は、もはや押し殺すことができないほど明確なものだった。