「記憶管理官の葛藤」
「記憶の壁」作動モード / 同年 3月24日 17:30 / 神聖記憶主義社会〜影の時代〜
エリザは仕事帰り、街角の「記憶供給所(Memory Sanctum)」の前で足を止めた。
クリーム色のガラスで覆われた楕円形の建物は、周囲の冷たくそびえる無機質な高層ビル群の中で、どこか異質な存在感を放っていた。建物の正面には、教会の象徴である「永遠の目」が刻まれたプレートが掲げられ、記憶供給所が教会の施設であることを示していた。
その柔らかな光が歩道を温かく照らしている。
「記憶供給所(Memory Sanctum)」と書かれた透明なスクリーンが入り口に設置されており、下には利用規約が細かく記されていた。
「記憶閲覧には教会の許可が必要です。不正行為は法律に基づき厳しく処罰されます。」
その文字が、供給所の光と対照的に、冷たく硬質な印象を与えていた。
扉がスライドして開き、一人の男性が出てきた。彼は目を伏せ、どこか怯えたような足取りで去っていく。やがて視線を戻し、供給所の中をちらりと覗き込んだ。
中は静寂に包まれていた。
冷たい光が漂う室内には、透明なヘッドギアを装着した人々が、それぞれ区切られた記憶閲覧ブースに座り、端末に集中している。
その姿は、まるで個々の世界に閉じ込められているかのようだった。
エリザが入り口付近で足を止めると、奥から控えめな声がかすかに聞こえてきた。
「次の方、こちらへどうぞ。」
扉は自動的に閉まり、その静寂が再び場内を支配する。白い制服を着た教会職員がカウンター越しに微笑んでいるが、その表情はどこか無感情だった。
突然、近くのブースから激しい声が漏れてきた。
「どうして私の記憶が制限されているんですか? 母の声をもう一度聞きたいだけなのに!」
エリザの視線が声の方へ向くと、若い女性が半個室のブースから立ち上がり、カウンターに詰め寄っていた。ブースは一人が座れるほどの広さで、仕切りに囲まれているが完全に閉ざされてはいない。
その中の端末は、現在制限中を示す赤いランプを点滅させていた。
「申し訳ありませんが、許可が下りない限り、その記憶へのアクセスはできません。」
職員の声は丁寧ではあるが、冷徹で感情が感じられなかった。その言葉がブースの外にまで響くと、若い女性は小さく肩を震わせた。
先ほどのブースで赤く点滅していたランプが、今は暗く沈んでいる。彼女は一瞬モニターに目を落とした後、椅子を大きく引いて立ち上がり、カウンターに向かって早足で向かった。
「どうしてですか! 母の声をもう一度聞くだけなのに!」
詰め寄る女性の声には、抑えきれない感情が滲んでいる。職員は微動だにせず、申し訳なさそうに首を傾けただけだった。
「申し訳ありませんが、記憶へのアクセスには、教会からの正式な許可が必要です。」
その言葉に、女性は力なく目を伏せた。何かを言いかけたが、それを飲み込むようにして小さく息を吐き、諦めたようにその場を離れた。
エリザはその光景を黙って見つめていた。
(母の声……)
その言葉が心に刺さり、幼い頃の記憶がふと蘇った。失われた記憶への渇望。それは、エリザ自身が胸に秘めてきた痛みにも通じるものだった。
気づけば、エリザの指先は供給所の入り口に向かってわずかに動いていた。
(もし、自分も……)
胸の奥で浮かんだ考えにハッとして、彼女はその手を見つめた。その指先は、まるで自分の意思とは無関係に動いたかのように感じられた。
しかし、すぐに彼女はその手を引き戻す。
教会の記憶管理官としての規律が、反射的に彼女を止めたのだ。彼女には、自分の記憶を閲覧する許可などない。そして、もし許可を申請すれば、それが教会に疑いを抱かせる可能性もあった。
「記憶供給所(Collective Memory Center)」──かつては自由な記憶の象徴だった場所。しかし今、その建物は管理と制限の象徴に成り果てていた。エリザは深く息を吐き、供給所に背を向けた。
歩きながら、胸の奥にわずかな違和感が残る。
(記憶を管理することが本当に正しいの……?)
その問いは答えのないまま、エリザの心に小さな揺らぎを残していた。