「データに支配された日常」
「記憶の壁」作動モード / 同年 3月14日 7:45 / 神聖記憶主義社会〜影の時代〜
エリザは、通勤途中の早朝、いつものように中央広場を横切っていた。
鈍い灰色の空が広がり、ガラス張りの高層ビルがかすかな朝日を反射して鈍く光る。まだ目覚めきらない都市の空気が漂う中、広場の一角では露店が開き始め、記憶データを変換する端末が並べられていた。エリザの足取りは、曇天の空のようにどこか重く沈んでいた。
広場は静かな活気を見せ、電動スケートボードに乗る若者たちが忙しそうに行き交う。彼らは通勤や通学のために広場を横切っており、目的地に急いでいる様子が伺えた。片隅では、記憶共有施設で働く者たちが準備を進めている姿があり、少しずつ一日の動きが広がっていく。
広場の中央に設置された巨大スクリーンに「今月の記憶点数ランキング」と題されたグラフィックが流れていた。ランキングは、教会に対して多くの記憶を浄化し貢献した市民の顔写真と名前を表示している。
鮮やかなディスプレイには、それぞれの点数が大きく記載され、ランキング上位者の達成感を物語るように映し出していた。
「見ろよ、あの女また1位だ。すげえな。」
近くで立ち止まった若い男が、隣にいる同じくらいの年齢の男性に声をかけた。
二人の視線の先には、ランキングのトップに表示された笑顔の若い女性の映像があった。名前の横には桁違いの記憶点数が輝き、スクリーンの周りに立ち止まる人々の間で軽いざわめきが広がっている。
「教会の浄化儀式に毎週参加してるらしいぜ。」
男が続けると、隣の男性が軽く首をかしげながら肩をすくめた。
「そんなに通ってたら、もう個人の記憶なんてほとんど残ってないんじゃないか?」
その言葉に、エリザはわずかに眉をひそめた。羨望に混じる冷ややかな嘲笑が耳に残る。彼女はスクリーンから目を逸らして歩き続けた。
だが、その途中で視線が自然と自分の左手首に向く。
薄いバンド型のディスプレイに映る自分の記憶点数──「845」の数字が目に飛び込んできた。
(平均以上だけど、特筆すべきでもない数値……)
心の中でそう呟き、足を速める。記憶管理官として教会の掟には忠実であり、浄化儀式にも職務が求める頻度だけはきちんと参加している。
その点数が彼女の目立たない生き方を物語っていた。
必要以上に目立つことも、異端と疑われることも避ける。それが、エリザにとっての日常だった。
広場の中央には、ひときわ目を引く壇が設置され、その周囲に集まる人々の輪が広がっていた。壇上では、教会の神官が手を高く掲げ、情熱的に語りかけている。
その声は広場全体に響き渡り、周囲の雑踏をかき消すようだった。
「神聖なる記憶を守ること──それが、我々すべての使命であり、未来を築く礎なのです!」
エリザはその様子を遠巻きに視界の端で捉えながらも、足を止めることなく歩き続ける。
彼女にとって、その演説は広場のいつもの風景の一部にすぎなかった。
だが、その声の中に、何かが混じっているように感じた──記憶の奥底に沈んでいたかすかな感情を呼び起こす何か。
ふとした瞬間、別の記憶の断片がよみがえった。幼い頃、母と手をつないでこの広場を歩いていた日のこと。あの頃、壇の上で話していた神官もまた、同じように「神聖なる記憶」の重要性を説いていた。
(だが、その直後、母は……)
エリザの瞳がわずかに揺れる。彼女は無意識に速度を上げ、スクリーンの喧騒から距離を取ろうとした。
( 記憶点数が、私たちの生き方そのものを縛る……)
その思いは、まるで自分の中に深く埋め込まれた何かを無理やり引きずり出すような感覚だった。エリザはその感覚を振り払うように、歩みを速める。
広場を後にし、背後の喧騒が徐々に小さくなる頃、エリザはふと立ち止まった。視界の端には記憶の塔が高くそびえていたが、街路樹の茂みに隠れ、頂上部分しか見えなくなっている。
灰色の空を見上げながら、心の中に浮かんだ問いを振り払えずにいた。