003頁 帰る? 帰らない?
可憐な容貌だけで妖精のお姫様扱いをしてしまっているが、自分は目の前の少女のことを何も知らなかった。
見上げた子羊フードから絹糸のように揺れる細い髪。ほんのりと赤みをさした頬。
こちらの言葉に何を決意したのか、淡い艶の唇をきゅっと結んで頷く。
小鳥のさえずりのような声で少女は告げた。
「では、このお米のクーポン券をどうぞ! あ、あと持ってるのは生徒手帳とわたしのどす黒い青春が詰まったスケジュール帳だけです……!」
どうしよう、スケジュール帳へのツッコミ要請レベルが尋常ならざるほど高い。
「あ、いやいや、そうじゃなくて」
フードから覗くシマエナガみたいにつぶらな瞳が、本気で何らかのお詫びをしようと見つめてくるのに、スケジュール帳の青春がどす黒い件について自分からは切り返しにくい。
けたたましい警報の中、ツッコミ承認ボタンを拳で押したそうにこちらをチラ見する脳内司令官にはこの際諦めてもらおう。
スケジュール帳に挿んで大事に管理していたであろう、お米のクーポン券。それを両手で差し出した少女の折れ袖の手を自分の手で押さえて、本の件は問題ないことを分かりやすくアピールする為に莞爾と笑う。
妖精のお姫様の白磁の肌がほわりと上気する。
何で今日、食べ物をポケットに入れてこなかったんだろう。
無駄に餌付け熱が再燃するから、そんなに可愛くもじもじするのは勘弁して下さい。
「じゃあ、もらうものって何ですか?」
「名前をですね」
「……な、名前ですかっ? 名前はそのその、わたしの名前は只今少々立て込んでおりましてっ」
折れ袖が突風に煽られた草葉のように震えるほどの大慌て振りである。
そうですか、立て込んでらっしゃるんですね。落語の寿限無さんばりに長いのかな。それとも何かのあやしげな書類の数々にお名前を書いてもらおうとする、戴けない提案に聞こえてしまったか。
「ええと、いや、変な言い方になってごめんなさい。自己紹介してもらえればと思って……」
そう言うと、子羊さんは湧き水の小さな泡が青い光の底で輝いているような瞳で見つめ、折れ袖の両手でしっかりこちらの手をはさみ、赤くなったほっぺたで何度も頷いてくれた。
「虹望ゆら、です。虹を望むで、にじもち。で、ひらがなのゆらです」
子羊で妖精のお姫様の雰囲気にぴったりの名前だ。かわいいなあ。
「ゆらちゃんかあ」
思わずそう言うと、子羊さんは大きな瞳をさらにまんまるにしたかと思うと、何故かお顔を真っ赤にした。折れ袖のお手々でぺしぺしと、椅子の背もたれを叩き出す。これはなかなかの高速連打。
「あ、虹望さんのほうがいいかな」
謎のリアクションが、拒否反応なのか肯定反応なのか分からず尋ねてみると、ぷるぷると高速で首を横に振っている。今から子羊フードの妖精のお姫様をゆらちゃんと呼ぶことに決定致しました。
ゆらちゃんが期待に満ちた眼差しで小首を傾げる。今度はこちらの番か。何だその個人情報を残らず暴露しそうな、ご飯まだですかと言わんばかりの可愛い仕草は。
『お待たせ致しました』
会場に響く甘い声。
壁か椅子にスピーカがあるのか、すぐそばから話しかけられているような感覚だ。
落ち着いて洗練された抑揚は、会場の地球端会議を一息に鎮めるほどの抗いがたさがあった。
衆目を集め動かすのに慣れたその声には聞き覚えがあった。
ステージ中央に向かって男性が歩いている。
通路で新聞を拾ってくれた人だ。ここからだと距離があって顔ははっきりしないが、あの無駄のないスーツのシルエットは間違いないだろう。
『これから少しお時間を頂きまして、アンケートにお答えして頂きます』
何故ここでアンケート? ステージがあるのに使わないんですか?
地球端会議の議題提供でもなかったと?
折角思い出せた、うちの兄が廊下で転げ回ったり、ルーズ・ゴールド某とか言う装置を延々と作ったり、恋が成就しなかった哀しみを癒すために隅っこの床板を磨きまくったりしていた、珠玉の見守ったシリーズのエピソードもそっと胸の内にしまい込まなければならないと?
何の前置きもなく始められた説明は、この状況に随分とそぐわないほど拍子抜けする内容だった。
銀河を揺るがす歴史の幕開け的な、歌姫発掘オーディションでもないとは何とも残念な話である。
会場のあちこちからも、面倒臭そうな声が上がる。
『もちろん、お嫌でしたらお答え頂く必要はありません。無理にとは一切申しません』
穏やかに、ステージ上の人は言葉を続ける。
『一時間程度の書式のアンケートです。有志の方のみで結構ですので』
ステージの人が右手を動かしたのが見えた。
『皆様から向かって左側のドアをいくつか開けました。出口になっております』
言葉に誘われたように、あちこちで立ち上がる姿がある。
「どうします?」
「帰りましょうよ」
「じゃあ、帰ろっかな。コンサートあるし」
「畑の水やり途中やからねえ」
こんな会話も聞こえる。周囲を窺いながらも話す前から立ち上がり、動く人がいると釣られて周りの人達も出口へ向かっていく。
「やっぱり限定イベントっ……!」
隣りに座っていた中学生らしき少女も、服のポケットからはみ出した黒剣の褐色男子や白盾の白髪美男子等がデフォルメされたイラストのキーホルダーをわしゃわしゃ鳴らしながら出口に突進していった。転ばないようにね……。
『押し合わないようお願い致します』
賑やかな一団が去ると、急に会場が広く、青みも濃く見えてくる。熱帯魚のいなくなった水槽のようだ。
天井から、ただ青く柔らかな空気が降ってくる。
『お帰りになられる方、もういらっしゃいませんか』
ゆったりとステージの人が見渡す五、六人の同じジャージ姿の女の子達が弾かれたように立ち上がり、小走りに出口から出て行った。
静まり返る会場。
『それでは恐れ入りますが、私のいる場所までお越し願えますか。アンケートをお配りしますので』
残った人達が言われた通り、ステージのある前方へ移動を始める。自分も立ち上がり、ふと気付いた。
椅子の背もたれに揃えたお手々に小さな頤をちょこんとのせたまま、ゆらちゃんがうたた寝をしていらっしゃいました。
もしかして、ずっとこちらの自己紹介を待っていたのか。
「ゆ、ゆらちゃん、ゆらちゃん?」
「んん、なんですかあ?」
小さな光の粒がまろぶような長い睫毛を瞬かせて、こちらを見上げてくる。意味もなく頭をなでなでしたくなる子羊さんである。でも我慢。
「前に行く?」
尋ねると、ゆらちゃんは頷いて立ち上がり、辺りを見渡したかと思うと鋭くのたまった。
「一問目の答えは何だったですか……!」
「クイズはやってなかったと思うよ」
「では五百人のゆかいなおひっこし……?」
妖精のお姫様はまだ若干おねむのようです。
「他の人はどこに行かれたんですか?」
どうやら男性の説明は傾聴に値しなかった模様。
「一時間程度のアンケートをするみたい。有志のみだって」
ゆらちゃんが天井の窓を仰ぐ。地球がそこにある。
「帰りたい人は帰れるらしいよ」
ぽつりとゆらちゃんは呟いた。
「そして一時間ぐらいぼんやりしてたことになりますか?」
「ありそうだね、それ」
「はっ、ではこの景色は今だけのボーナスステージ……!」
ゆらちゃんと顔を見合わせて、小さく笑う。
もし、ここでのことを全て忘れてしまうとしても。
もう少し、ここから地球を見ていたい。