020頁 妖精のお姫様光臨
質問がなければ強制的に契約させられる流れに思えた。
断っても強制的に契約させられる感じもする。
そっくり。クラインさんと賢者さんの押しの強さがそっくり。状況的にはこちらの手を摑んで契約書の判を押させる一歩手前。
しかし声のいい人の説明は何故こんなに眠気を誘うのか。
賢者さんは講義をすれば確実に後ろまで届く、響きの良い渋い声だ。けれど、儂から教えることはもう何もないとか仰るほど、長年勤めた老教授という印象とも違う。
寧ろどちらかと言えば、国王より有能で人気のある宰相が気紛れで母校の教壇に立って、学生さんがサプライズに大興奮するような、まだまだ華のある雰囲気の方が強い。
そんな渋くて素敵なお声で、契約者と記憶盤についての講義を受けたのと、朝からの眠気が体に滲んで、せっつかれていた緊張感がほぐれ始めていた。
それとも本棚に並んだたくさんの本の匂いと文字に満たされて、落ち着いてきたんだろうか。
部屋の奥にあるふみ兄の仕事用のL字型パソコンデスクに、鍔が当たらないようクッションを幾つか敷いて賢者さんをのせる。
「これでいいですか?」
『問題ない』
ひびの入った拵えが、陽を受けて玉虫色の星を静かに散らせていた。フットレストまでついたハイバックのゲーミングチェアに座ると、ひびのひとつを目でなぞる。
ひびの形は拵えに小さな雷が宿って、絶えず劈いているようだった。ひびの箇所は玉虫色の乱反射がせわしない。光は本棚にも散っていく。
長い時間とともに紙の上に積み重ねられた、喚起する言葉達。
思考する言葉達。
言葉を求めるものを求める言葉達。
背表紙の文字はいつも微かに囁いている。
ひびに指先でそっと触れる。
――賢者を直せるか。
そうだ、これは賢者さんの怪我だ。指先をひびから離して、傷のない部分を撫でる。
――俺は記憶盤の契約者だ。
『何をしている』
「……賢者さんて、あの少年ともう契約してますよね?」
『記憶盤は契約者の数に比例して機能が向上する』
それなら、どうしてあの子は契約をすすめてこなかったんだろう。
「そういえば、賢者さんを直せるか訊いてましたね」
大学の遊歩道で、少年は真摯に尋ねてきた。
「と言うことは、私が契約してもこの怪我は治らないんですか?」
『汝との契約程度で復元するものではない』
全治に時間がかかる怪我を威張ってどうするんですか賢者さん。
「つまり賢者さんは野生動物のように、怪我してませんよアピール中なんですね……?」
『ゴミ扱いの次は野生動物か』
珍しくすかさずツッコミが入った。サプライズ登壇したのに己れの地位と権力をクラスの班長ぐらいにしか思ってなさそうな感じで質問された宰相のように、声がちょっとだけにやりと面白がっている。
怪我がないように見せるのは、相手が安全でないと認識されているからだ。
確かに思い返せば、信頼とか得るに足らわぬ胡散臭さ。
自分は食べ物で少年を家まで連れていこうとするし、ふみ兄は朝っぱらから夜の街へ練り歩きにねりねり歩き回りそうな格好で、ハイテンションに家へ迎え入れようとするし、尋常ならざる胡散臭さを嗅ぎ取るのも無理からぬこと。
「胡散臭いんですけど、あれは何と言うか、今まで女性の魅力に勝手に振り回されてきた兄の意地と見栄とかの見事な迷走っぷりなだけで、本当はコウロコフウチョウみたいに踊りながら女性をメロメロにしたい願望の」
『汝のコウロコフウチョウについての知識を我が身に補足せよ。端的に』
スズメ目フウチョウ科の鳥類だけでは、あの姿は伝わるまい。
「分かりやすく言うと、ボディビルダーさんが大会で両腕を上げてテラッテラに輝く大胸筋とかを見せつけつつ、さらに左右の上腕二頭筋で交互にお顔を隠しながら相手に迫っていくという、圧の強い求愛ダンスをします。それはもうキレッキレの動きで……!」
『まだ続くのか。蛇足は不要だ。話を先に』
「ええと、つまり実際は野生のシマリスが巣穴にいるかもしれない天敵のヘビに対して、そこにいるのは分かってるんですぅーな振りしてしっぽを立てて左右にふりふりしたり、ヘビの脱け殻を体中に擦り付けてシマリスというよりヘビでーすみたいな振りして身を守ってるだけですので、胡散臭いんですけど、無害なので」
『野生動物と筋繊維の譬えで理解を求める汝の印象の疑わしさは払拭出来ておらぬが』
「私は胡散臭いんですけど、胡散臭いだけなので無害です、多分」
滲む眠さで考えがまとまらなくなってきた。
「だから、ここにいても大丈夫だから、賢者さんも無理しないで休んで」
軟らかくも硬くも感じる質感。木漏れ日の揺らぎで反射する玉虫の光が、鼓動のように伝わる。
眠たくて、思ったままの言葉がころころと転がっていく。
子供の頃に遊んだ色とりどりのビー玉みたいに。
本の匂い。微かに残るアトリエだった頃の匂い。祖父の匂い。
玉虫色の光が転がる。
硝子玉が階段を転がっていく。
大切な硝子玉。
階段を下りる。
下りる。
転がる硝子玉。
追いつかないのに、祖父に追いつかれて頭を撫でられる。
これ以上下りなくてもいいと頭を撫でる。
そう言って、硝子玉を追いかけていった。
行ってしまった。
「だからどうか、ひとりで行ってしまわないで。怪我してるのに我慢ばかりしないで。祖父のように形見だけにならないで」
言葉が転がる。賢者さんに言いたいことなのか、祖父に言いたかったことなのか。
『…………』
「あの子をひとりにしないであげて」
機能向上は、少年の為だったのかもしれないけれど。
「子供から天敵を遠ざけようと、コチドリやヒバリやイソシギの親御さんがわざと傷付いた振りして注意を引き付ける行動かもしれなくても」
『やはりまだ続いていたのか』
「だって、お話を終わらせたら判子を押させられる身としては、シェヘラザードさん方式で千一夜ぐらい語りに語り続けないと……そんなわけで次は私が幼少のみぎり、山で一匹の犬と出会った運命の邂逅について」
『年代を遡り始めたのか。その挿話は長くなるのか』
「めっちゃ長いです。一日中語れます。私の珠玉の思い出で、契約しなくても賢者さんの機能向上に貢献出来るとアピールしとかないと。あ、倒れない範囲でなら採血にも協力しますので」
『汝の情報はどれも薄い。契約は保留にする。変換効率の良い高濃度の情報が必要だ』
ひどい言われようである。
ところでずっとなでなでしてるけど、止めろとか保留とか言わないから続けていてもいいのかな。
……賢者さんを撫でていたら本気で眠くなってきた。
賢者さんをのせたクッションの端っこを枕代わりにお借りする。綿のカバーがひんやりと肌になじんだ。
少年の額のタオルを取り替える前に、少しだけ眠った方がいいかもしれない。
『或いは』
賢者さんが何か言ってる。
『この異界に我が身と質を同じくするものがあれば』
こちらの世界で記憶盤に似たようなものといえば、思いつくのはせいぜいパソコンやスマートフォン等のハードウェアを使っての情報技術ぐらいだ。
「こっちにも記憶盤あればいいんですけど……」
『幾つかはある』
「はい?」
『こちらの理に溶けて姿を隠しているが記憶盤は存在している』
瞼が閉じようとするのを堪えながら、どういうことなのか聞き返そうとした、ちょうどその時、玄関の呼び鈴が鳴った。
半分ぐらい眠った頭で、出ようかどうしようか中途半端に悩んでいると、客間の戸がものすごい勢いで開く音がここまで届いてきた。
ああっ、居留守が使えない!
賢者さんはそのままに、あくびも零れるまま急いで雨晒しの廊下を戻り、勝手口に入る。
細い廊下から覗くと案の定、部屋から飛び出してきた少年が、先の玄関を睨みながらやってくる。
眉間のしわが復活して、穏やかだった顔つきは跡形もない。
「ど、どうしたの?」
「寝ているわけにはいかない」
前方を見据えたまま、少年は構わず進んでいく。足の音がしない。
ああっ、何か歩きながらみつあみ編み始めた!
手早く髪をまとめ、職人技みたいな速度で固くみつあみを編んで背に払う。何かの準備を万端整えてる!
「君は寝てていいから」
「これは俺の仕事だ」
呼び鈴がまた鳴り、躊躇うような間の後、ゆっくりともう一度鳴らされた。
少年の歩みが速くなる。その鋭い視線に思わず腕を摑まえた。
ああっ、何か引きずられてる!
片足を痛めて踏ん張りがきかないせいもあってか、面白いほど床を滑って引きずられていく。何の抵抗にもならない。
「後ろへ」
少年は玄関の三和土に裸足で下りると、流れるような仕草で隅にあった傘立てから一本、若草色の傘を引き抜いた。
ああっ、それお気に入りの傘!
賢者さんを持ってこられてもそれはそれで困るけど。
こちらの動揺に気付くことなく、引き戸に向かって僅かに腰を落とし、居合いのように構えた傘の柄に手を添える。
少年の気迫で鳥肌が立ってくる。周りだけ温度が下がったような、空気が薄いような、そんな震えが指先を小刻みに動かしている。
震えているのに体は動かない。目の前が暗くなる。体が重い……。
どうしよう。何とかしないと。体を……何とか……。
するには……これだっ!
「うりゃー!」
体の力を振り絞り、強張る指で引き戸を全開にして、家の外に飛び出した。
ああ、外の空気がおいしい……。
息が詰まって倒れるかと思った……。
「腹を押さえろ! 立てるか!」
半歩遅れてきた少年が、こちらの行動に驚いたまま、それを君が言うのかというようなことを捲し立てる。
あれこれ想定されたものが、何か色々あったらしい。庇って前へ出ると、絶えず視線を周囲へ走らせているのか、耳飾りがちらちらと青く揺れている。
「た、多分、ふみ兄の、注文した荷物……」
震えが残って上手く喋れない。
「は、配達は来るって、言っとけばよかったね……」
「しかし」
腕に力を込めて何か言いかけた途端、少年の手元で傘が開いた。
微かに眉根を動かして、自分の握っているものを繁々と眺める。引き締められていた空気の張りが、ようやくゆるんでいた。
傘を元の形に戻そうとする少年をその場に残して、深呼吸をしながらぎこちない足取りで郵便受けへ向かう。
「あっ、よかった……」
清水のように澄んでしみわたる声。
「お、おうち間違えてたら、どうしようかと思いました」
郵便受けの傍に、少女が佇んでいる。
春の日差しに溶けていくような、柔らかな物腰。
色素の薄い髪が、おひさまの光で淡い金糸の艶を帯びている。
空の色を吸い込んだ大きな瞳。刺繍のように繊細で長い睫。
レース袖からは象牙みたいな肌理の、細い腕が透けて覗く。
そよ風を受けるたび、柔らかくはばたく淡いスカートの裾。
まるで夢にけぶる妖精のお姫様のよう。
「……ゆらちゃん? 何でここに?」
玄関からまた傘の開く音がした。