011頁 遊歩道の少年
あ、空のペットボトル発見。
……ゴミを見つけると我に返ってしまう。折角、謎の遊歩道に入れたのに。
形を崩すのが勿体なくて、片手にうさぎ姿のままの軍手をはめて、拾ったペットボトルをゴミ袋に放り込む。
この隠された遊歩道の両側は、高さの違う煉瓦の壁に挟まれていて、その向こう側から桜の枝が内側まで溢れてきている。
左手の敷地側になる壁は手が届かないので、少し低めの右手の壁に飛びついてよじ登り、枝の隙間から外を覗くと、見慣れた景色があった。
竹林。視線をさらに下ろすと先ほど自転車を押してきた、いつもの散歩道が見える。
……か、観察はここまでにしよう。思っていた以上の高さにひるんで頭を引っ込める。
どうやら外から順に、煉瓦と漆喰の外壁、桜並木、高い壁、その壁の窪みにこの遊歩道、さらに高い壁、また桜並木、と二重の桜並木と三重の壁に挟まれた場所になっているらしい。
煉瓦造りの瀟洒な建物の壁だと思っていたものが、遊歩道そのものだったのか。
何だか日本のお城の土塀と中世ヨーロッパのお城の腰巻壁がごっちゃになった感じ。
出入り口があの隠し扉だけしかないのなら、外からは勿論、敷地の内からも高低差があるから、ほぼ垂直の煉瓦の崖を登ってここに辿り着くのは、クライマー経験でもない限りかなり難しそうだ。
拾い始めてから気付いたが、場所が場所なのでゴミといえるものはほとんどない。雨風で折れて花の散った細い枝が時々落ちているぐらいだ。
この白い軍手うさぎはゴミ拾いの見張り役ではなく、ここに入る為の形式的な道先案内に過ぎなかったのだ。後でおじさんにお礼申し上げねば。
遊歩道はひたすら花びらが舞い散っている。
ただ降り続けている。
なんだか、時間の感覚がなくなってきた。手を止めて屈めていた背を伸ばす。
空が白んできていた。
少し進めば遊歩道が左に曲がる角まで来た。
その角を曲がったとき、ふと視線を感じた。つられてそちらを見やる。
少年。
足元に少年がいる。
降る花びらの道と頭上から被さる桜の枝に包まれて、ともすると見落としそうになる場所。
壁の隅に、隠れるように座り込んだまま。両膝を抱えた腕に額をつけて、身動きひとつしない。
吹き溜まりなっているせいか、頭から肩から靴のつま先まで、そこに許される限りの淡い花びらが降り積もっている。
いつからここにいるのか、頭も服も微かに湿り気を帯びているように見えた。
着古したコートから1メートルほどの棒がはみ出し、それを膝と一緒に杖のように抱えていた。
そばまで歩み寄る。動かない。
のぞき込むと、微かに肩が上下している。規則正しい呼吸。
少年が抱えていた棒の先から、花びらが零れた。
眠っているようだ。
どういった経緯でここにいるのか。仕事の締め切りが幾つも重なって一週間以上お風呂に入る暇もないふみ兄と似たにおいがする。
花見の季節とはいえ、山の朝晩はかなり冷え込む。昨夜は雨も少し降っていたのに、こんなところで眠っていたら体を壊してしまう。
もう少しよく見ようとしゃがみ込む。膝やゴミ袋が相手に触れた感覚はなかった。
けれど腰を落とした瞬間に、少年が抱えていたはずの棒がこちらに傾いた。
自分の顔に当たりそうになって、咄嗟に素手の方で棒を支える。小さな金属音。
指に触れる、精緻な透かし彫りの鍔。
「刀……?」
思わず呟くと、誰かが笑ったような気がした。
目の前が暗くなる。
背に温む陽が、石段に落ちる影を深めてゆく。
一段一段すり減って窪んだ、石段を登る影の動きは緩慢で、少年にはそれが奇妙に感じられた。
遅い影。少年自身の影。
これほど遅々とした動きでここを登ったことが、今まで一度もなかったのだと、不意に気付く。足元を見て登ることもなかったのだと。
今は、陽のぬくもりと、影の濃さばかりに意識が向かっている。
編んで背にたれた長い髪だけが、風に煽られてはためく。甘みを含んだ風。
石段に添う少年の影を、小さなひとひらが横切った。蝶がいる。風に抗いながらも、どこかへ行こうとしている。
少年は立ち止まり、振り返った。彼方に花畑が広がっている。
階段状のなだらかな起伏は、見渡す限り、咲き綻んだ花の色彩で溢れていた。
吹き上がる風に花の香が満ちている。どこかで鳥のさえずりも聞こえた。
おだやかに輝く故郷。
少年は目を細め、しばらくの間、遠い景色を眺めた。
そうすることで目に鮮やかな輝きが映し取れる気がした。
その光がある限り、己を見失いはすまいと、強く胸のうちに言い聞かせる。
再び階段に視線を戻すと、少年は残りの階段を足早に登っていった。
頂きに辿り着く。
少年の眼下に戦場が広がった。
ゴミ袋の空ボトルが小道に触れて小さく音を立てた。我に返る。
ふと、周りの空気が吸い込まれるような、奇妙な感覚。
くるりと視界が回転した。
どん、と背中に何かがぶつかり、それが煉瓦の硬さだと気付いて、ようやく痛みが伝わる。
あれ……転んだ……?
ぼんやりとした視界に、青白く光る筋が音もなく近付く。
焦点を合わせると、光の先は鋭い。ピリピリと帯電したみたいに空気が尖っている。
『甘美な夢に気を取られたか』
すぐそばで、声が告げた。渋く深みのある声質。まるで学生のうたた寝を見つけた教授のような冷やかしが、自分に向けられたものではないと、何故か分かる。
「……気付いて教えなかったのは誰だ」
苛立った別の声が頭の上から届いた。
かすむ視界がようやく広がる。
少年がいた。切れ上がったまなじりで、こちらを見下ろしている。
深い緑の瞳。
手に持っているのは、やはり刀……?
しかもすでに抜き身の状態だ。青白い刀身は、こちらに向けられ微動だにしない。
『斬るのか』
再び先ほどの深みのある声がした。誰にでも分かる問いを投げかけたのに、答え間違われて、何かを諦めたかのような声。
すぐそばで聞こえるのに、視界に入るのは少年の姿だけ。
少年は何も答えない。
空は白んでいた。桜に淡い艶が広がっていく。
花びらは散り、空を流れ、地に敷かれてゆく。
どこまでも桜につながれて、あるべき境界はなくなっていく。
ただ桜があって。
静かで。
少年が刀を振り上げた。