009頁 朝は弱いんです……
溢れるほどの輝きがなくとも、どこに自分がいるかは分かる。
黒絹の束ねのように、うねり、無数の繊維を波走らせる神経壁。行き交う情報が仄かな明かりを滲ませていた。
不可視の柔らかな圧力が、体を滑らかに目的の場所まで運んでいる。
無音。衣の裾が黒くたなびく。
大きくしなった通路を抜けると、遠くまで広がる広間に出た。通路と同じ、仄かに照らされた黒い広間には、高い天井を支える螺旋にねじれた繊維の柱が等間隔に並んでいる。
柱のずっと向こうに宙が広がっていた。望めばどこからでも装甲は透過できるが、外を見るのはここだと敢えて決めていた。
窓に近付くと、背の高い人が待っていた。
並んで外を眺める。
闇から湧き上がる輝き。
ここにある。いつか見たいと思っていたもの。
青い星。
「……よろしいのですね?」
隣りに立つその人が言った。顔は見えない。青い星は夜になっていたが、煌々と輝く電光が網を広げて大地を侵食している。明るすぎて顔が分からない。
その人の名を呼ぼうとすると、夢の続きは炭酸のように、ふわりと溶けて消えていった。
ぼんやりしたまま、体を起こす。
夢の端を思い返すと、さざなみに触れている気がする。その感触も徐々に薄くなってくると、ようやくいつもより早くに目が覚めたのに気がついた。
カーテンの向こうはまだ暗い。静かな山の気配だけが聞こえる。
手探りで枕元に置いた本を取り、開く。暗闇で文字の輪郭すら辿れない紙面の間には、手触りの異なるひとひらがある。
木から舞い落ちた葉のようにも、風に飛ばされた羽のようにも思える。
薄く滑らかで、石よりも柔らかく、紙よりも指先に吸いつく。
流線のその表面には、小さな光の粒子が幾つも対流している。
指でつまんだ箇所から小さな小さな光の点が表面を流れ、傾ける方へ渦を巻き、沈んで消えていく。つまむ箇所を変えると、今度はそこから別の箇所に光の粒が流れていく。
アンテナと呼ぶには随分儚いひとひらだ。
再びうとうとしかけた自分の背後で、置時計のベルが鳴り出していた。あくびとともに音を止めて布団から抜け出し、眠い目のまま一階に向かう。
台所には七歳年上の先客がいた。ガスコンロで鮭を焼いている。
黒縁眼鏡に脱色したシルバーだかプラチナだかアッシュだか、燃え尽きた系呪文みたいな色味に染められたボサボサ頭。
ふみ兄おはよう……。
入り口でぼんやりしているこちらに気が付いて、ふみ兄は年季の入った玉子焼き器をちらつかせる。
「おはよーさん。だしまき食うか?」
寝起きぼんやりのまま頷くと、作務衣に半纏姿のふみ兄は、ガスコンロに火を点け、キッチンペーパーでむらなく油をひいた玉子焼き器に出汁大さじ四、五杯と塩ひとつまみでといた三個分の卵を三回に分けて流し込み、菜箸を使って手際よく巻き重ねていく。鼻歌まじりでご機嫌だ。
椅子に膝を抱えてテーブルに頬をつけている間に、ふみ兄はさらに昨日の残りのアサリの味噌汁を温め、グリルから焼鮭を取り出し、炊きたてのご飯を茶碗によそう。
「お兄様定食をご注文のお客様~、お味噌汁が冷める前に食べちゃってね~」
向かいの席に座って手を合わせ、早速食べ始めたふみ兄の定食屋おばちゃん風アナウンスに促され、自分も手を合わせから味噌汁をすする。食べるとようやく眠気がとれてくる。熱々のご飯に自家製梅干しをのせるといい具合のしょっぱさで箸が進む。
「そうだ、出かけるならついでに送ってやるぞ」
「……どこも行く予定ないよ?」
やっと喋れるだけの気力が出てきた。
「目覚まし鳴ってなかったか?」
鳴っていた。こんな休みの日に早くから。いつもの散歩の時刻より早いぐらい。
何かの拍子でスイッチが入ったのなら、その時間に鳴ったはずだ。けれど昨夜、時刻を変更した覚えがない。
何だろう。何かあったっけ。
「ふみ兄は出かけるの?」
「仕事な。戸締りきっちりでよろしく」
ふみ兄の仕事は正直何がメインなのか分からない。
延々とパソコンに向かって動画を編集し、楽曲を編集し、イラストを編集し、そのどれもを同じ熱量で取り組んでいる為に、どこからが趣味でどこからが仕事の範疇なのか、ただ全力で遊んでいるように見える兄の姿からはうかがい知ることはできない。
小説も書いているのだが、本棚にあるふみ兄の著書と思しき背表紙に指をかけると、頼むから読まないでくれとさめざめと、それはもう苦衷溢れるお顔で訴えるので、残念ながら機会を逸している。
題名から察するに、男性諸氏の夢と浪漫と妄想と憧憬が詰まった兄の趣味全開のものから、女性諸氏の以下同文が詰まったと見せかけて兄の理想全開のものから、ひたすら兄の嗜好全開のものまで、要するに諸々を全開する兄によって自分は扶養されているので、内容については深く触れない方が良いのかもしれない。
ふみ兄の淹れてくれた温かいほうじ茶を飲みながら、とりとめなく考えていると、カラスの鳴き声が聞こえてきた。生活圏がお山寄りのハシボソガラスだ。本日はカラス属界隈よりも早起きしてしまったようだ。
窓の向こうはまだ薄墨に浸っている。こんな朝には、あの場所はどう見えるのだろう。
「ごちそうさまでした。ちょっと行ってくる」
「なんだ、やっぱり出かけんのか」
「うん、いつものとこ」
食べ終えた食器を手早く片付け、自室でスポーツウェアに着替え、ミコアイサ柄ウインドブレーカーをはおる。
ポケットに懐中時計と、雲と空のポケットガイド、春の花木の図鑑、ついでに美丈夫宇宙人クラインさんから手の込んだ渡し方をされたアンテナを、しおり代わりに挿んだ野鳥図鑑も滑り込ませる。
玄関でスニーカーの紐を結び直していると、ふみ兄がホルダーに入れた小さなステンレスの水筒を持ってきてくれる。
「水分補給は忘れんな。ほうじ茶だけど」
「うん、ありがとう。行ってきます」
「気をつけてな。あと、おみやげよろしく」
「何がいい?」
これは出かける時のお互いの口癖みたいなもので、本当にお土産を要求しているわけではない。
「スキルをてんこ盛りしてくれる美女神か全属性魔法が使える美魔女で……!」
本当にお土産として要求しているわけではない。多分。
現在遊んでいるゲームか、ライトノベルかアニメか何かのキャラクターなのだろう。
異世界系きれいな年上のお姉さんが好きだと妹に全開でカミングアウトする兄に見送られて家を出る。
普段はいい兄なんだけどなあ……。
郵便受けの向かいの駐車場から、ふみ兄が夜でも目立つからと白く塗り直してくれた自転車を出してきて、自宅前の小道から薄闇の中を出発する。
水気を含んだ葉擦れの音に包まれると、襟足が冷えてくる。ウインドブレーカーのファスナーを目一杯まで上げて堪える。体を動かしていればすぐに温もってくるだろう。
行きは殆どゆるやかな坂なので、ひたすら小さく灯る街灯を頼りにペダルを漕いでいく。傾斜がややきつくなってきた辺りで自転車を降りて歩き出す。電動アシストもついていないから、この方が却って楽だった。
自転車を押しながら竹林の坂を登りきると、目の前は桜並木になった。
陽を待つ朝の、薄闇の空気の奥で淡く帯になって仄めいている。
漆喰と煉瓦の洒落た壁の上から、重くしなる桜の枝が道路まで溢れていた。
数日前から少しずつ散り出した桜の花びらが、土瀝青を静かに装って、確かに知っているはずの見慣れた景色はどこか、辿り着きたかったところとは違う場所のようにも見える。
昨夜遅く、わずかに降ったらしい雨でしんと冷えた空気を深く吸い込むと、壁に沿ってそのまま自転車を押していく。
絡み合う蔓草を模した鉄格子の大きな扉。
その扉前の片隅に自転車を止めて一息つくと、大きくのびをする。そうしてやっと、ウインドブレーカーの袖から手首近くまで掌が出る。
坂道を歩いて脚は温かかったが、体はまだ寝ていたのか、手足の筋が伸びるとほぐれてあくびがひとつ。
誰もいないものの自転車の施錠を済ませてから、ウェアの内ポケットを探る。
掌におさまる古い懐中時計。
磨かれた鉱石のように馴染む感触と、幾つかの懐かしさを誘う細かな傷。
微小な歯車やゼンマイを詰めて、祖父の経た時間でできている小さな塊。
蓋を開けるとまず針が動いているかどうかを確かめる。
ほんの少し早足に、軽快に、一歩ずつ進める規則正しい歩み。今日は調子が良さそうだ。鎖はないので、また内ポケットに滑り込ませる。
歩き出そうとした時、視界の端に動くものが見えた。
「おはよう。そこにいるのはいもうと君かな?」
鉄格子の扉の隙間から、白いうさぎが小さな手を振っていた。