~第5幕~
2024年の夏。フランスはマルセイユ。
『1、2、3……』
フランス代表にして40代の新鋭、マルチーヌ・コルディエと20代遅咲きの秀才と謳われた忍者黒帯、服部碧の決勝戦は開始早々にコルディエが得意とする上四方固からの抑えこみが決まりそうになっていた。この前にコルディエはそれまでの熱戦を忘れたかのように凄まじいスピードで碧に迫り「技あり」をとっていた。
『4、5,6……』
ここまできてアッサリ負けるなんて出来ない。何とか最悪の展開から抗おうと碧は必死にもがく。
『7、8,9』
非情なカウントのアナウンスが聴こえる。そして――
『IPPON!』
ウクライナ人の審判が大声でその一声を放つ。そして碧はただ真っ白な天井を仰いだ。その時に脳裏にかすんだのはライバルと交わした約束。この日本代表で共に時間を過ごした同胞の顏。だけど彼女は「負け」と向き合うしかなかった。この感じ、どこかで見覚えがある。
碧は10秒ぐらい天井を眺めつづけた。
『大丈夫?』
同じ黒人のコルディエが碧の顔を覗きこんで手を差し伸べる。
あのときと同じだ。
でも、あの時より早く彼女の手をとって立つ。そしてカタコトのフランス語で『ありがとう』と笑顔で応じる。
40代にして金メダリストになった彼女は同じ黒人だけど日本人銀メダリストとなった碧の手を掲げた。そこにあるのは同情じゃなくて賞賛だ。だけど何だか恥ずかしい感じがした碧は照れ笑いをした。
もうここは悔しがる世界じゃない。
何だかスッキリさえしたようだ。
カメラが向けられても平気ですらあった。
――決勝お疲れ様でした。銀メダル。まずは率直なご感想を。
「悔しいですね。でも、全力はだしました。応援してくださった皆さま、本当にありがとうございます。ありがとう」
――仙道朱莉沙選手も勝てなかったコルディエ選手、手応えは如何でしたか?
「44歳でいきなりあの強さ、信じられないね(笑)でもナイスガイでした(笑)」
――あっという間の試合でしたが、ここまで長かったですか?
「いい質問ですね。なんて答えようか……」
――率直でいいですよ(笑)
「一瞬タイムスリップした感じでした。今さっきまで朱莉沙と試合をやっていた感じと言うか何と言うか。だけどここは東京じゃなくマルセイユ。なんだか夢のなかで夢から目が覚めた感じっていうか。うまく言えませんけど」
それから彼女は色々と答えた。されど終始その顔色は良かったように思える。
メダルの表彰式では金メダルのコルディエと一緒におどけてみせる姿も。その様子は幸せいっぱいの晴れ姿に他ならなかった。
テレビやネットで彼女がメダリストになった光景を誰しもが目にした。目標としていた金メダルではないけども、それ以上に輝く銀メダルだと熱く涙する人も。
自分の競技を終えて碧は閉会式まで残って帰国した。
飛行機のなか。横の席にはすっかり親友になった園田が。
園田は3位決定戦で何とか勝利を納めて銅メダルとした。
そしてこの2人は帰国後に選手引退を表明した。
2人とも選手引退はするも柔道とは関わり続けるとも明言。
園田はその会見のなかでまた1つ話題を作った。
「私が不屈の精神でここまで柔道に臨めたのは尊敬する存在がいたからですね。このマルセイユの旅でその弟子の人と友だちになって確信しました。私が信じてやってきた柔道が間違いないって。私と同じ70キロ階級で奇跡を成し遂げた人。奇跡を成し遂げた柔道家。今度は指導者としてその人に近づきたい。その意味で私の旅はまだまだ続きます」
――その尊敬する柔道家とは?
「ふふふ♡ 内緒♡ プライバシーの侵害はしないでおきましょう。いまは一応一般の御方ですから」
自分のことだろうか。
スマホの画面越しに彼女はかつての選手であった自分を思いだす。
「おばあちゃん! 希空と一緒にきたよ!」
「はーい! 待ってね!」
その日、生まれて間もない彼女の孫が娘と一緒にやってきた。
園田が自分の事を言っているのかどうかは分からない。
しかし広くも深い日本柔道の歴史のなかで自分のことを知ってくれている人もいるのだとしたら、それほど嬉しい事もない。
「あーい! よちよち! ノアちゃん!」
孫の名前は祖母になる彼女がつけた。
彼女は娘の婿からも一人のアスリートとして尊敬されていた。
名もなき柔道家としても立派に生きてゆきたい。
そう思っていたが、知ってくれている人は知ってくれているみたいだ。
「ママったら、最近人気の柔道選手から名前をとるなんてね。絶対にこのコにはそんな事を教えないでよ」
「でも、このコが柔道を始めたら、そうしてもいいだろう?」
「そうなったらね。私は何か楽器をさせてあげたいかなぁ~」
「ふふふ、それはこれから育つこのコに決めて貰おう。紅乃」
この柔道家の孫がのちに祖母を超える柔道選手となるのはまた別の物語――