「青の肖像」著者:藤石かけす
私が彼女に出会った時、彼女はまだほんの十歳ほどの少女だった。
彼女は、作業台の上に並べられた沢山の岩石の中から、私を見つけた。まっすぐに向けられた、曇りのないはしばみ色の瞳を、私は今でも覚えている。
「コーブス、この石、すごくきれいね」
彼女はそう言って、自分の後ろに棒立ちになっている幼馴染を振り返った。その幼馴染にして、この画材屋の跡取り息子であるコーブスは、その頃はまだ情趣を解さないわんぱく坊主であった。何せ、両親に入るなと言われた作業場に、幼馴染を連れてこっそり侵入しているのだから。
「その石は、最近入ったやつなんだって。ラピスラズリっていうらしい。すごくきれいな青い絵の具ができるらしいよ」
コーブスは、胸を張って父からの受け売りの知識を披露した。コーブスにはこの頃から、少し偉そうに知識をひけらかすところがあり、その癖はついぞ直らなかったと、私は思う。
「ええ、この石、絵の具になっちゃうの? もったいない」
「そうは言っても仕方がないじゃないか、アニカ。これが父さんたちの仕事なわけだし」
作業台に顎を寄せて悲しむ幼馴染に、コーブスはやや呆れたように返す。でも、とアニカが首を傾ける。緩やかなカーブを描いた髪が、さらりと肩を滑った。
「こんなにきれいな青色なのに、粉々にしちゃうなんて、もったいないねえ」
私は、それまで自分が美しいのかどうかなど、考えたことがなかった。私をそう称する者などいなかったからだ。岩石につけられる価値は、美しさに比例するらしい。だが、この工房の長、すなわちコーブスの父親は、私を鉱山周辺の街で偶然見つけ、掘り出し物として買ってきたため、私は自分自身を価値のある石だとは思っていなかった。後に分かったのは、工房長は無口なだけで、石を見る目はかなり優れているということだったが。
アニカは、しばらく私の前から動かなかった。その瞳に、私の深い青と、ところどころ入った金色の破片が映って揺らいでいる。そのアニカの後頭部を、コーブスはじっと見つめていた。いつもそそっかしくて、動いていないと気が済まない少年が、こんな風に人を待っているのは珍しいことだ。私は呑気にアニカの視線を受けながら、日向ぼっこに興じていた。
アニカは、たびたび工房にやってきた。近所のパン屋の長子だという彼女は、毎回香ばしいパンを抱えていた。そうして、私を見たいとせがんでいたようだ。「もう絵の具にしちゃった?」と何度もコーブスを詰問していた。もっとも、工房に入れず、私と面会することは叶わないことがほとんどだったが。
ある夜のことだった。工房に足音を忍ばせて誰かが入ってきた。とはいえ、歩き方の癖から、おそらく工房長の息子であることは明白だった。コーブスは、そろそろと作業台をぬって歩き、私の目の前までたどり着いた。彼はおもむろに私を掴んで持ち上げた。そして、腰に下げていた革袋の中に滑り落とす。私の視界は、急に真っ暗になった。そして、工房から出て、リズミカルに階段を上っていく。そうして、上の階にたどり着いたのだろう。扉が小さくきしんだ音がして、私はどこかに押し込められた。圧迫されているのを感じる。
何が何やら分からないまま、どれほどの時間がたっただろう。コーブスは私の入って革袋をひっつかんで、家の外へ飛び出して行った。しばらく走って、急に立ち止まると、鼻歌を歌いだす。全く、騒がしいやつだ。
「コーブス!」
ややあって、アニカの声がした。ははあ、なるほど。
「アニカ、今日はいいものを持ってきたんだぜ」
コーブスは、革袋をひっくり返して、私を白日の下に晒した。視界に、いるような眩しい陽光が差し込んで、私は思わず呻く。
「わあ、これ、あのラピスラズリじゃない! どうして?」
アニカの声は、目に見えて興奮していた。やり方はともあれ、工房の跡取りのガキは、大好きな少女を喜ばせることには成功したようだ。コーブスの丸い指が、私を丁寧に撫でる。
「父さんに無理を言ってもらったんだ。アニカにあげるのは無理だけど、いつでも見せられるよ」
嘘おっしゃい。私は心の中で頭を抱えた。
「そうなのね! じゃあまたコーブスのところに行ったら見せてもらおうかな」
ほら見なさい、アニカが信じてしまっているではないか。
その日は、コーブスとアニカは、町の他の店に行ったり、広場で他の子どもと遊んだりしていた。コーブスの坊ちゃんが、こんな風に生活しているとは知らなかったので、私にとっては新鮮な一日だ。だが、彼はついぞ一度も、他の人間に私を見せることはしなかった。
数日の後、アニカが工房にやってきた。私の耳はすこぶる良いので、二階のコーブスの部屋に押し込められていても、は野所の溌溂とした声が聞こえる。
「コーブスいますか?」
彼女が工房長にそう尋ねると、珍しく工房長が長めに返答した。
「上にいると思うよ。それよりアニカちゃん、あの石のありかを知らないかい?」
「あの石?」
「アニカちゃんの気に入っていたラピスラズリだよ。そろそろ絵の具を作ろうと思っていたんだけど、なくなってしまってね」
アニカの目が見開かれるのが見てとれるようだった。
「ちょっと待ってください!」
すぐに、階段をどたどたと駆け上がる音がした。「コーブス!」部屋の扉が開く。部屋で昼寝をしていた彼は弾かれたように立ち上がった。
「あの石、出して」
事情の分かっていない彼は、寝台と布団の間に手を突っ込んで私を取り出した。皮袋の口が開いて、はしばみ色の瞳と視線が交わる。かと思うと、彼女は踵を返して、ほとんど落ちるように階段を下って行った。
「おじさん! コーブスがもってます!」
そこからは大騒ぎだった。私は、工房長がここまで人を叱ったのも、コーブスがここまで落ち込んでいるのも、後にも先にも見たことがない。工房長の妻、すなわちコーブスの母親までもが出てきて、息子の非行を咎めていた。
「コーブスはわたしがこの石を気に入っているからこんなことをしたんだと思います。わたしが絵の具にしちゃうのはもったいないと言ったから……」
アニカは、殊勝に頭を下げる。
「でも、アニカは何にも悪くないんだ。俺が一人でやったし。もらったって嘘ついてたんだ」
コーブスはうつむいたまま答えた。それを言えたことだけは褒めてやろう。
「コーブス、ここにある石たちは商品なんだ。大切に扱わなくてはいけない。勝手に盗るのはもちろん駄目だ」
父親は、静かに息子を諭す。
「商売において、そういういい加減さは許されない。いいね? もしこのラピスラズリが絵の具にされてしまうのが嫌なら、お前は父さんと交渉をしなくてはいけなかった」
コーブスは首を縦に振った。
「父さんも悪魔じゃない。きちんとした意見なら聞くつもりだ。これからは、勝手に店の物を盗ったり触ったりしないと約束してできるかい?」
「はい」
「よし。二度目はないからな」
一通り叱り終わると、工房長は、息子の頭をぐりぐりと撫でた。アニカが、しおれてしまったコーブスを引っ張って店の外に出ようとすると、その背中に声がかかる。
「アニカちゃん。そんなにこの石が気にいっているなら、絵の具にするのはもう少しあとにするかい?」
「でも……」
眉を下げるアニカに、店主は穏やかに答える。
「いいんだよ。うちの店は今そこまで切羽詰まっていないし。楽しみは後に取っておくのも一興だからね」
こうして、幸か不幸か、私は粉砕を免れた。
それから私は、画材屋の棚に眠って何十年も過ごした。何か月かに一度、店主やコーブスがその棚を開いて、私を明るいっ世界に取り出した。そういうときには、視界には決まってアニカがいた。彼女は、この家の一家に愛されていた。奥さんなど、「アニカちゃんにうちの子になってもらいたいわね」と何度も本気で言っていた。
コーブスの小さかった手は、いつの間にか骨ばった手のひらの広いものになっていた。およそ品性というものが欠けていた少年は、すっかり落ち着きを得た精悍な青年になり、画材加工作業のほとんどを、高齢になった父親に代わって行うことになった。アニカは、溌溂とした性格はそのままに、美しい女性になった。彼女の笑い声は、どんな宝石よりも輝いていると、私は本気でずっと思っていた。
コーブスとアニカが二十歳になる年、二人は結婚した。私は一人でこっそり涙ぐんだ。不器用にもほどがあるこの店の一人息子が、ちゃんと幼いころからの恋を成就させられるとは。図らずも、奥さんの「アニカちゃんにうちの子になってほしい」という発言は現実のものとなった。
私はそれからも、二人のことをずっと見守っていた。三人の子供が生まれ、コーブスの両親が亡くなり、店はコーブスと長男で動かすようになった。夫婦と三人の子供は常に仲良しで、喧嘩をすることはほとんどなかった。
一度だけ、コーブスとアニカが言い争っているのを見たことがある。その時は、アニカの方が、私の入っている棚の扉を開いた。
「もう、これを売りましょう。工房の設備もままならないのに、高級品を抱えたままでいるわけにいかないでしょう?」
その時、店は、大量に入った注文が取り消されたせいで、窮地に陥っていた。納品先からお金が入ったら、原材料の買い付け先に後払いの分の料金を払うはずだったのだ。支払いと生活費で、家族は苦しい生活を強いられていた。
「嫌だ」
コーブスは、画材を作ることに関しては、話し出すと止まらず天狗になる人間だったが、家庭の方針についてアニカに反論することはめったになかった。自分よりも、アニカの方がそういったことに向いていると気が付いていたのだろう。だが、この時彼は、はっきりと反対した。
「はあ? じゃあ何か解決策があるの?」
「少し待ってくれよ」
「少しってどれくらい!?」
アニカは半ば悲鳴のように叫んだ。
「わたしがこれが好きだから、この石を取っておこうって思っているなら、それはもういいの! お願いだから、子供たちを苦しめないであげて」
「一か月。一か月待って。それでどうにもならなかったら、この石を砕いて絵の具を作って売ろう」
アニカは、随分長い間黙っていた。
「その間は、これを使っていいから」
コーブスは、そういって小さな革袋を取り出した。小さな花が刺繍されたそれは、かつて少年が私を盗みだしたときに使われたものと同じだった。
「何これ」
「へそくり」
この店主は、こういうところだけ、なぜか賢かった。私への執着は、次第に、アニカよりもコーブスの方が強くなっていることは、火を見るより明らかだった。
結論から言うと、コーブスは一か月で在庫を一掃することに成功してしまった。幼少期から、人脈は広い少年だったが、最近は商売の人脈も広げているらしい。アニカは、在庫を売り切り、原材料業者への支払いを済ませたコーブスの様子に、うすら寒いものすら感じているようだった。
時は流れる。岩石である私は、特に何も変わらないまま、棚の中でうたたねをする毎日だが、生き物であるコーブス一家は、どんどん変わっていった。長女が嫁に行き、長男が作業の半分以上を担うようになる。コーブスの頭は白髪が目立つようになり、アニカの身長は目に見えて縮む。
誰かが失われる日は、いつも突然にやってくるのだ。いや、本当は、突然という言葉は間違っているのかもしれない。周囲の者は、信じたくないあまり、その日が近づいていることを頭の隅に追いやっている。少なくとも、私はそうだった。
冬が深まった日のことだった。アニカは突然せき込み始め、そしてその数時間後には高い熱を出した。夫と子供たちは、動揺しながらもかいがいしく世話を焼いた。しかし、彼女は三日後には冷たく、動かない存在になってしまった。私は、戸棚の中から音を頼りに、その様子を知るしかできなかった。
コーブスは、生涯をかけて愛した妻を失った。三人の子供は、大好きな頼れる母を失った。そして私は、私のことを、埋めれて初めて美しいと言ってくれた人を失った。
一家には、雪の降る直前の曇天のごとき空気が広がっていた。特にコーブスは、目に見えて口数が減り、数日で一気に白髪も増えてしまったようだった。
「父さんは休んでて。注文は俺が捌くから」
頼もしい長男の言葉に頷いて、コーブスは夫婦の寝室があった二階へ向かおうとして、ふと思いついたように、私の方へ近づいてきた。そうして、棚のガラス張りの扉を開き、私を取り出した。今となっては、枯れ枝のように皮と骨ばかりになった指先が、私を撫でる。その手つきは、小さなアニカに、この石を見せびらかしていたあの時と、寸分も違わなかった。
それから何日も、コーブスは工房と寝室を往復する生活を送っていた。この「往復する」は、言葉の綾などではなく、その通りに、うろうろと歩き回ったり、ふと椅子や寝台に腰を下ろして、虚空を見つめていたりといった様子である。ついには、二人の息子に、気味悪がられるようになってしまってもいた。そんなコーブスの腰には、いつもあの革袋がぶら下がっており、私はその中にいた。
「父さん、三日間店番を頼みたいんだけど」
二人の息子から声がかかったのは、アニカが亡くなってから、一か月ほどたったころだった。
「どうしても足りないものがあって……買い出しにいきたいんだ」
買い出しで三日なら短い方だ。彼らなりに、父親を心配しているのだろう。私は、聞こえないと分かっていながらも、な湯を下げている二人に対し「任せなさい」と請け負った。
「行ってきなさい」
コーブスは、なんだかんだ仕事が好きだった。息子に店番を頼まれたら、少しやる気が出たようだ。わずかに光の宿った瞳で、彼は数か月ぶりに店に立った。私は番台の上に置かれ、年老いたコーブスの手の中で転がされる。
「すみません、絵の具を買いたいのですが」
一日目の夕方だった。店の扉が開いて、いかにも不精な画家らしい身なりの男が入ってきた。年の頃は三十代くらいだろうか。茶色の外套を着ているが、その下のベージュのシャツとこげ茶のズボンは、油絵具で汚れている。背中に抱えた荷物からは、画材やカンバスがのぞいている。整えられていない髪の毛が、外の強い風にあおられてあっちこっちを向いていた。
「はい、どのような色でしょうか」
男性は、背中の荷物から、カンバスを取り出した。
「今書いている絵です。途中で絵の具を切らしてしまって」
油絵だ。こちらをまっすぐに見つめる白い肌の少女。暗い背景の中から、浮かび上がるような視線が私たち鑑賞者を貫く。一体何を考えているのかは分からない。けれども、訴えかけてくる。あなたは分かっているでしょう?
上手い。生きている。直感的にそう思った。人の視線をとらえて離さない妖艶な力を、その絵は持っていた。
「衣装は緑の予定でして」
コーブスも、私と同じように思ったのだろう。嘆息し、震える手を抑えて、いくつかの絵の具を取り出して並べる。
「このような筆致ですと、この辺りが良いかと」
男は、緑、赤など数色の絵の具を購入した。そうして、金を払いながら、番台の私に目を向ける。
「これ、もしかしてウルトラマリンですか」
ウルトラマリンは、私たちラピスラズリを顔料にしたときの名称だ。深くて鮮やかな青。
「そうです。よくわかりましたね。原石のままなのに」
コーブスは、弾かれたように顔を上げた。
「好きなんですよ、ウルトラマリンの色。まあ、高すぎて買えないんですけどね」
男性は自虐的に笑った。
「これほどまでにきれいな青は他の石では出せない。全ての画家の憧れですよ」
諦めたように笑いながらも、彼の視線は、私に注がれている。絵の中の少女とはまた違う、鋭くて貪欲な視線が。
「……使いますか?」
「え」
声を上げたのは、コーブスだった。少ししゃがれた声で、私を男性の前に滑らせる。
「いやいや、お金がないので」
「別にお金なんていいんです」
男性は、心底意味が分からないという顔をした。まあそうだろう。ウルトラマリンは、高級顔料だ。それがただで手に入るなんて、にわかには信じがたい。
「代わりに、この絵の具を使って、一枚絵を描いてくださりませんか」
この石は、妻が好きだったものなんです、とコーブスは答えた。
「妻の肖像画を、描いてほしいのです。余った分は、好きに使ってくださって構いません」
男性は、面食らっていた。なおも畳みかけるように、コーブスは深く頭を下げる。
「どうかお願いです」
コーブスも、この人の絵に魅了されてしまったのだろう。まっすぐにこちらを見つめている少女が、妻の顔をしていたら、どんなに良いだろうと、そう思ったのだ。思ってしまったら、すがらずにはいられなかった。
画家はしばらく逡巡していたが、頭を垂れた老人の姿に、断りづらくなったらしい。
「分かりました……やってみます」
コーブスは、男性に、アニカの特徴を伝えた。男性が、持っていた布に、さらさらと走り描きをする。コーブスは、その出来栄えに満足したようにうなずいた。そして、また三日後に来るように伝えて、コーブスは店の奥、工房に足を踏み入れた。数年前に、彼は作業からは引退してしまっていたので、ここでの作業は数年ぶりと言うことになる。
「ありがとう」
彼は、作業台に私を置いて、そう囁いた。そうして、棚から金づちを取り出す。
いつか、私が売られる時や、加工されるときがあるなら、コーブスかアニカ、どちらかが死んだときだろうと思っていた。私は、二人の象徴だ。不思議と、悲しくも寂しくもなかった。
アニカは、青が好きだった。彼女の服や宝飾品にも、青は多かった。彼女を描くことができるなら、例え粉々になろうとも、私は幸せであった。
コーブスは、私をまず大まかに砕き、それからすり鉢と乳棒を並べる。きちんと洗浄されていることを確かめ、私をすりつぶしていく。あたりに、腐ったような匂いが充満する。粉状になったら、水を加える。沈殿した真っ青な部分だけを取り出し、もう一度同じように水を加え、ウルトラマリンの純度を上げていく。
痛くはなかった。こんな状態になっても、私にはまだ意識があった。泣いているだろうと思ってコーブスを見上げたが、彼は、久方ぶりに、信じられないくらい真剣な顔をしているだけで、涙は一滴も浮かんではいなかった。
三日後、約束のウルトラマリンが出来上がった。画家は、姿を変えた私を見て、小さな子供のようにはしゃいだ声を上げた。
「すごい! こんなに綺麗なものは初めて見ました」
意気揚々とした男性に連れられて、私は、彼のアトリエに足を踏み入れた。雑然としたその部屋の中に、一つのイーゼルが鎮座していた。女性の上半身ほどの大きさのカンバス。そこには、おそらく木炭で、やや斜めを向いた年老いた女性が描かれていた。
アニカだ。
まっすぐにこちらを見つめる、はしばみ色の瞳が、私には見えた。ゆっくりとした瞬きも、すこし甘えるような声も、てきぱきとした動きも、全部。
コーブスが選んだのは、晩年の彼女だった。今一番会いたいアニカの姿なのだろう。若くて美しいころの彼女や、出会ったばかりの幼い彼女を選ばなかった理由を、私はそう類推した。
画家の男は、イーゼルの隣の小さな机の上に並べられた絵の具の横に、私を並べた。そうして、筆を握る。背景を塗りつぶす。その中に、浮かび上がるように、白い肌を、亜麻色の髪を、描いていく。はしばみの瞳。桃色の爪。命が吹き込まれていく。
男は、来る日も来る日も描く。永遠に失われてしまった、アニカの姿を、輪郭を、ゆっくりと引き出して、色を付け、輝かせていく。
男は、私を取り出して、パレット替わりの木の板にのせた。細い筆の先が、青い輝きを宿して、その胸元に降りていく。
アニカは、青が好きだった。私のことが好きだった。
ラピスラズリは、東洋では宝飾品としても多く使われるらしい。
画家は、恍惚としたようにも見える表情で、アニカの髪飾り、首飾り、そしてドレスの縁に、青を入れていく。吐息と共に、指先が震えている。ウルトラマリン。世界中の人間を魅了してやまない青。私は、アニカの一部になっていく。
空に浮かぶ雲の形が、羊のように丸くなって、春の訪れを告げていた。画家は、カンバスを抱えて、工房までの道をせっせと急ぐ。私は、工房から出たことは、生涯で二度しかない。そのいずれも、アニカのためだった。次に工房から出るのは、アニカを知る人が、誰もいなくなったときだろう。
私は、アニカが好きだった。私のことを、生まれて初めて好きだと言ってくれた人。私に、私は美しいのだと、教えてくれた人。私には分かるのだ。コーブスの悲しみが、寂しさが、喪失が。自分を愛してくれた人が、隣にいて、いつも声を聴いていた人がいなくなるということが、一体どんなことなのか。
木製の扉の前にたどり着く。男は、私を抱えなおし、その扉を押す。小さなベルが鳴って、工房の中と手前の番台にいた、三人の、顔だちのよく似た男性がこちらへ集まってくる。
「こちらです。お気に召すとよいのですが……」
そう言って、画家はコーブスにカンバスを渡した。カンバスには、黒い布がかかっている。久方ぶりに見た彼は、しかし、あまり最後に見たころとは変わっていないように見えた。
彼の指先が、布をめくる。
その瞳に移り込んだ青が、一瞬閃いて、幼少期、若年期、壮年期、そして晩年。彼の記憶している全てのアニカを映して、浸透していった。
その瞳に移ったアニカが、歪んで、雫になって、自分の上に落ちてくるのを、私は黙って見つめていた。いつだって、私は二人のことを声もなく見つめていた。これまでも、これからも。
【ラピスラズリ】
青金石を主成分とする半貴石。青色で、しばしば黄鉄鉱の粒を含み、まるで夜空のように見える。原産地はアフガニスタンなど。古代エジプトの時代から世界中で宝石として利用されてきた。和名は瑠璃。
ウルトラマリンは、鮮やかな深青色の最高級顔料でこの石から作られる。バロック時代を代表する画家・フェルメールが、家計を圧迫するほど、好んで使ったため、『フェルメール・ブルー』とも言われる。