Jell:1
洞窟の奥から現れたのは、これまでゲームやアニメの世界でしか見たことのない、巨大な猪のモンスターだった。
そこで私は、確信した。
これは、いわゆる異世界転生、というやつだろう。
「これじゃあ逆だろう!!!」
唐突な叫び声に、思考が一瞬遮られる。反射的に、叫んだやつの方を見た。
腰が引けているような、様になっているような、何ともいえない姿勢で剣を構えている。
剣――いや、遮られて良かった。叫んだやつが何を考えてるのかはわからないけれど、今考えるべきはそういうのじゃなくて、
「今はとにかくコイツを倒すのが先だ」
そうだ。そういう事だ。
……倒す? 無茶だ。
何が正しいんだ。違う、駄目だ、混乱している。
汗ばんだ掌に力が篭もる。弓を握り締める。
弓。
……私は、どうしてこんな物を持っている?
「とりあえず、連携するために名前だけ教えてくれないか!」
また、剣を持ったそいつが叫んだ。
剣のそいつと、私以外にも、あと二人。状況が呑み込めずにおろおろしている誰かがいる。一緒におろおろしていたかったけれど、そんな現実逃避はなかなか許されるものではないようだった。
反射的に、自分の名前を返す。
それが本当に自分の名前なのか、少し自信はなくなってきていたけれど。
そして同時に、残りの二人も。
チアキ。セツナ。ミオ。
どくりと心臓が跳ねる音は、四つ重なってひどく大きな奏に聴こえた。
嫌がらせか、と独り言のように呟いた君は、それじゃあ。
「自分は名乗らないのか?」
と、“チアキ”。気づいているのか、いないのか。
「俺は……」
君は。
言い淀もうとしたのか、それともそんなつもりはなかったのかわからないけれど、名乗る前に一旦、会話の腰は激しく折れた。
折れたのが話の腰だけで良かった。そう思える程の巨体と野生を撒き散らす、猪の突撃で。
忘れていたわけじゃないけれど、それどころじゃなくて……、いや、やっぱり今それどころじゃないのは、この状況で。誰がダレで私が何なのかも当然大事だけど、目の前に迫る(たぶん)命の危機というのも、無視できるものではなくて。
それでも、四人が四人とも無視はしていなかったようで、その突撃は散会するように地面を蹴った四人の、誰にも突き刺さる事はなかった。
「話はあとだ」
「戦えるのか?」
「逃げるよりは、まだやれそうかなって」
“チアキ”と、……何て呼ぼう。“チアキ”と“暫定カイ”がそんなやり取りをしているのを遠巻きに眺めながら、手に持つ弓に、さらに力が篭もった。私は自然な動きで、まるで使い慣れた道具のように、何度も反復した動作のように、腰の矢筒から1条の矢を番え、構える。
不思議だった。そも、私は小学生で。弓道なんて習った覚えなんてなければ、知識だって相応の子供並みで。なのにこうして、頭の中で小難しい事を考えたりだとか、弓の、矢の扱い方が理解できるのは、転生したこの身体の記憶――という事なのだろうか。
「疾っ」
いかにも『らしい』掛け声に、刹那遅れて自分で少し恥ずかしくなったけれど――射った矢h風を切り、大猪の額に狙い違わず突き刺さる。
外れる気がしなかった。この程度、当然当たる。自信があった。それも、不思議だった。一瞬、三人の視線が私に集中したけれど、今だよ、という私の意図は普段なら視線で確認するまでもない……なかったのだろう。
そして、手慣れた仕草で剣と槍が同時に振られ、長年連れ添った相棒同士のように同時に2回目の獲物を振り(これは血を払うためだ。格好つける意味もありそうだけど、すぐに血を払う方が後々洗う手間が省けるし、切れ味とかが落ちないんだろう、とかそういう意味があるのだと思う)、そしてあっさりと大猪は巨体を沈めた。
「で……、名前、何だっけ」
「名乗ってなかったっけ。カイだよ」
「知ってた」
大猪が出てきた洞窟の入り口付近、その岩壁にもたれかかるように、“チアキ”はやれやれと溜息を落とす。
「どうなってる? 何がどうしてこうなった」
暫定……はもう必要ないか。“カイ”に、私に、最後まであわあわしっぱなしだった“ミオ”に、視線を一周させた後、“チアキ”はもう一度、深く溜息を吐いた。
「ワケ、わかんねぇ」
「たぶん、全員そうだよ」
実際そうだと思う。むしろ、誰かひとりでもこの状況を説明できるのなら、それは願ったりというか……理解したところでどうにかなる状況なら、だけど。ともかく、そんな事が出来るのは、この事態を把握してるのは、この中には誰もいないだろう。
ただ、何となく。
私達はパーティで、それなりには強くて。
冒険だか何かでも、していて。
そんな四人である――そんな四人である『ことになった』んだろうな、と、漠然と私は考えていた。
皆で話し合って、今置かれてる状況だとか、今後の方針だとか、そういったものを相談したい。反面、四人が四人とも知らない事だらけなら、何を話し合ったところで意味がない――そも、何を話し合えばいいのかわからないに違いない。
なので私は、ちょっと前世の魂に従い(前世? 死んだわけでもないのにこの言い方は縁起でもないかな。だけど、死んでないとも限らないし、わかりやすかった)、
「さっと情報、集めてくるよ。待ってて」
と、恰好つけようとなど、してみるのだった。
「待っててって……一人でか? 四人で行動した方が安全だろう」
「情報通、改め。《情報屋》だから、セツナさんは」
これが私の個性で仕事で、ちょっとしたプライドだから。こっちの私にも、そういうキャラ付けを移していこうと、この考え方は適応というより現実逃避な気もする。のだけど、単にこの世界に興味もあったし、頭が回らない時には一人で考えたい、というのも本当のことだった。
「いや。しかし、周りに何があるのかもわからない。まずは状況の整理を……」
カイが、どこか慌てた様子にも見える風で私を止めようとする。…止めようとしているような、感覚がする。ちらりちらりと、槍使いと短剣使い(まだ使っているところを見てはないけど)の方を気にするようにしながら。
(あー。あーあーあー)
あー。
そうかそうか。そうでしたな。
こんな状況だったから、忘れちゃってたよ。情報通の私とした事が。
体感としちゃ、今日のビッグニュースだったはずなのに、この非日常が運んできたニュースのインパクトがあまりに濃過ぎて、日常のなかのビッグニュースが霞んじゃってたよ。
だけど、そうだったね。カイの頭の中は、日常のビッグニュースの方でいっぱいだったんだね。
チアキと、ミオの事で。
だけど、しかし、という事は。少なくとも、私とカイの記憶では、やっぱり小学校を舞台に私達が送っていた日常は、『今朝の話』って感覚なんだ。
「よくはわかんねぇけど、オレ達は弱くはないらしい」
どうしたものかと思っていると、チアキが口を開きながら、カイの隣に並んでいた。
「戦い方だって、なぜか知ってる。現に動けたもんな、さっき。化け物倒した時に」
頷くカイと私。確かにそうだったわけですし。
そしてカイとチアキの後ろで申し訳なさそうにするミオ――いや、出番がなかっただけなのでは? 短剣持ってるわけだし……多分。
は、置いといて。
「一人にさせるのは不安なのもわかるけど、無闇に動くのが正しいかどうかもわからねぇだろうよ。オレがついてってやる」
「え」
「ほあっ?」
チアキが槍の柄でざしゃりと地面を小突きながら、そんな事を言うのだった。そして間抜けな声を上げる私。
「軽く、この洞窟の周りがどうなってるか、何があるか確認してくるだけだ。すぐ戻る、これは絶対だ。いいな」
「えっ……と、あ、うん……」
それは異論ないんですけど。私はそれでまあ、構わないんですけど。いや構わないか? 本当にそうか?
そんな私(というか、全員じゃないの……?)の慌てる様をどこ吹く風で、チアキは洞窟の外に出ようとするので、私はその後を追いかける。
振り向いて、カイに向かってチアキは槍の切っ先を向けた。――あるいは、ミオに向けてか?
「お前は、そいつをちゃんと守っとけ」
言っただろ、すぐ戻るって――ほら行くぞ、情報屋――チアキの台詞は風に流され、私もなんとなくその空気に流され……、そして後には、ぽかんとする様子のカイとミオが残されるのだった。
うん、カイ。
すまん。