聖女が追放を旅行と勘違いして受け入れたら、国は滅んだ。聖女は幸せになった。
「聖女ハンナ、国を出て行け」
「あら、旅行ですか?」
聖女ハンナはリシビア国の王からの申し出に顔を輝かせた。
「わたくし、一度でいいから海を挟んだ隣国シオントスに行ってみたかったのです!」
「そ、そうか……」
国王は何故か困った顔をして、冷や汗をかいた。
「……あ、でも、私が国を出たら聖女のお仕事が……国の結界が……」
ハンナの顔は一気に曇る。
「その点については問題ない、二人目の聖女が見つかった」
「まあ!」
ハンナは両の手を合わせて喜んだ。
「……歴代聖女は数人いたと聞いていますが、わたくしの代は一人だけ……ずっと寂しかったのです!」
「そうか……」
「どちら様なのですか! その二人目の聖女は!」
「……我が娘ブリュンヒルトだ」
「王女ブリュンヒルト様が!?」
ハンナは驚愕に目を見開いた。
「まあ、まあまあ! 素敵! わたくし、これからブリュンヒルト様と二人で聖女をやるのですね……!」
ハンナは嬉しそうに笑った。
「う、うん……」
「陛下?」
「いや、何でもない。……じゃあ、国を出て行ってくれるか?」
「はい! あ、それでこの休暇は何日くらいいただけるのでしょうか?」
「休暇……? あ、ああ、そうだな。シオントスは広い。丸々1ヶ月ほど過ごしてきたらどうだ」
「1ヶ月!? 1ヶ月もお休みをいただけるなんて……! わたくしは果報者です!」
ハンナは目に涙を浮かべた。
「ああ、聖女のおつとめをがんばってきてよかった! ありがとうございます! 陛下!」
「う、うん……」
ハンナはそのまま王座の間を辞した。
「……甘いですわ! お父様!」
後ろに控えていた王女ブリュンヒルトが幕をこじ開け、出てきた。
「もっと追い詰めてやらなくちゃ!」
「う、うーん」
「あの女! 私の婚約者のヴォルター公爵令息に色目を使ったのですよ! 聖女でありながら!」
「まあ、そうなんだが……」
「あのタダ飯喰らいを国から追放してやるんですから! もっと毅然と厳しく言わないと! なんですか、あれ! 浮かれ気分で旅行だと思ってる!」
「あの態度を見てると、こう、毒気が抜かれて……」
「もういいですわ! お父様の代わりに私があの女に国外追放を言い渡します!」
「あ、ああ、頼むよ、ブリュンヒルト。儂にはどうにも荷が重い」
「ええ、もちろん!」
「……それより、大丈夫なのだろうな。本当に聖女の力が目覚めたのだろうな。聖女の勤めを果たせるのだろうな」
「もちろんですとも! 宮廷魔術師にも、お墨をつけてもらいました! あんなどこの馬の骨ともしれない下民の孤児がこなせていたことを私がこなせない訳がありません!」
「しっかり頼むぞ……」
その夜、ハンナは眠れなかった。
自分は明日、見知らぬ異国に旅立つのだ。
そう思うとワクワクして一睡もできなかった。
「ダメよ……船旅なんだから、ちゃんと寝ないと……」
そう自分を叱りつけても、眠ることはできなかった。
「ああ、路銀もこんなにいただけて……」
重たい布袋を大事に抱えながら、ハンナは船に乗る。
みんなが甲板に出ていたので、それに従う。
いろんな人間が見送りに来ていたが、ハンナの見送りは一人もいなかった。
「……船室に戻ろうかしら」
そうつぶやいた彼女の名を呼ぶ女が一人。
「聖女ハンナ!」
「まあ、ブリュンヒルト様!?」
王女ブリュンヒルトの姿に聖女ハンナは顔を輝かせた。
「聖女のおつとめがんばってくださいませ。私は慣れましたけど、あれは最初は……なかなか……辛い……?」
ハンナは次第に怪訝そうな顔をした。
何かに納得の行っていない彼女に、ブリュンヒルトは言葉を投げかけた。
「無邪気に旅行を喜んじゃってバカみたい! あんたは追放されたのよ!」
「ブリュンヒルト様……?」
「二度とこの国に帰ってくるんじゃないわよ、クソ聖女!」
「あ、あの、ブリュンヒルト様!」
「じゃあねー、せいぜい野蛮なシオントスで右往左往しなさい!」
「ブリュンヒルト様! あ、あなたは聖女には……!」
船が出航する。港が遠ざかる。ブリュンヒルトが勝ち誇った顔をしているのが見える。
手を伸ばしても、もう港には届かない。
ハンナはよろよろとその場にしゃがみ込んだ。
「おいおい、お嬢ちゃん、大丈夫か?」
「もう酔ったのか?」
「船室に戻りな」
「……そんな、そんなことって……?」
ハンナは呆然と呟き続けた。
一昼夜の航海を終え、シオントスに着いた。
聖女ハンナは船員に詰め寄っていた。
「私を! 私をリシビアに帰してください!」
「……出来ません。あなたは国外追放、そういうお達しです」
「……お願いします! 帰らなくちゃ……そうでないと国が……」
「お気持ちは分かりますが、我々も命令ですので……」
「私、帰らないと……ブリュンヒルト様に、聖女の力は宿っていないのに……!」
ハンナは力なくうなだれた。
ハンナの目にはブリュンヒルトに聖女の力がないことは分かった。
ブリュンヒルトはどうしてそんな勘違いをしてしまったのだろう。
宮廷魔術師はどうして忠告しなかったのだろう。
ハンナの胸に不安がつのる。
「お嬢さん、大丈夫かい?」
「…………」
顔を上げるとずいぶんと高級そうな布に身を包んだ背の高い男が立っていた。
シオントスの伝統的な服装なのだろう。ハンナから見ると異国情緒のある格好をしている。
「あなたは……?」
「しがない商人です。お困りのようですね、お話聞かせてください」
「わ、私、私、国に帰りたくて……」
「そのお顔立ち……リシビアの方かな?」
「は、はい」
「とりあえず落ち着いて話をしましょう。私の行きつけの店へ行きましょう」
「は、はい……」
男に連れられてやってきたのは開けたカフェテラスだった。
男がこの店を選んだのは、ハンナにいつでも逃げられる、と思わせるための気遣いだったが、ハンナは人を疑うということを知らなかった。
出されたお茶を飲み干して、ハンナは焦りながら、ことの顛末を話し出した。
ハンナの話を聞き終えて、男は顎をさすった。
「……なるほど。それは、困ったことになりましたね」
「はい……国の結界を補強している聖女の力がなければ、リシビアは地続きの隣国モルーゼに攻められてしまうでしょう……モルーゼは屈強な軍事国家と聞いています。聖女の力に依存し、軍備増強を怠った我が国に……太刀打ちは……」
「うん……」
「……手紙すら受け入れてもらえませんでした……」
「分かった。私も商人として伝手はある。どうにかリシビア国王陛下にあなたの意思を伝えられるよう働きかけましょう」
「本当に!?」
「はい」
「ああ、旅先でこんな親切な方に出会えるだなんて! なんて幸運でしょう。ありがとうございます……ええと、お名前は……」
「ムーエスンと申します」
「ムーエスンさん! ありがとう!」
「どういたしまして」
ムーエスンは微笑んだ。
「それじゃあ、お店を出ましょうか。知人のやっている安全な宿を紹介しますよ。そこに泊まってくれれば連絡も取りやすい」
「ああ、何から何まで! ありがとうございます!」
「ここは奢りますよ」
「いえ払います。路銀もいただきましたから!」
ハンナは荷物から袋を取り出した。
金属の擦れる音にムーエスンは眉をしかめた。
「……お嬢さん、この路銀、偽金ですよ」
「えっ……」
ハンナから袋を預かり、ムーエスンはその中を覗く。
「ずいぶんと質の悪い金属だ……普通に硬貨を使ったことがあれば重さで分かりそうなものだが……」
「……お、お給金なんてもらったことなかったので……」
ハンナはうつむいて恥じらった。
「給料を? ただの一度も?」
ムーエスンは信じられないものを見る目をした。
「……リシビアは、また、ずいぶんと人使いの荒い……」
彼は顔をしかめた。
「……とにかくこれでは宿も取れない。私の屋敷においでなさい。使用人の部屋が空いているから」
「よ、よろしいのですか?」
「ええ、困ったときはお互い様です」
「……私があなたの力になれる日が来ますように」
ハンナは祈った。
その頃、リシビアの王城、その地下。
ブリュンヒルトは地下水をくみ上げていた。
「ええと、これでまずは全身を清める……」
冷え切った水を浴びる。
彼女はブルブルと体を震わせた。
「さ、寒い……そして水晶に手をかざす……と」
地下に設置された水晶にブリュンヒルトは手をかざした。
「ふ、ふん、この程度の仕事で、下民が贅沢な暮らしをするなんて、本当、生意気な女……って、あれ、光らない……?」
聖女の力を注がれて光るはずの結界作りの水晶は一切反応しなかった。
「どうして!? 私、聖女なんじゃ……」
「ははは」
男の笑い声がした。
「……ここは男子禁制よ、宮廷魔術師……いえ、それより、どういうこと!?」
「どこの馬の骨ともしれない宮廷魔術師の言葉など、信じたあなたが愚かだったのですよ、王女さま」
「……騙したの!?」
「あなたの嘘と比べれば可愛いものだ。聖女が男をたぶらかした、など……」
「…………あ、あんた……!」
「そうボヤボヤしていていいのですか? 自分が聖女ではないと分かった以上、本物の聖女様を呼び戻さなくては」
「……くそっ!」
ブリュンヒルトは慌てて、階上へと走って行った。
「……まあ、聖女様とはもう連絡など取れないでしょうけれど、ね」
宮廷魔術師は小さく呟くと、身をひるがえした。
彼は沈みかける船にいつまでも乗っているような男ではなかった。
「お父様!」
「ど、どうしたブリュンヒルト、そんなずぶ濡れで」
「早くハンナを呼び戻して!」
「何を……?」
「このままじゃ大変なことになるわ! あのクソ聖女を呼び戻してください!」
「…………わ、分かった」
「すごいわ、ムーエスンさんのお屋敷、使用人にこんな豪華な部屋が与えられているなんて!」
「ははは」
応接用のソファに天蓋付きのベッド、専用のバスルームまでついた部屋を、ハンナは顔を輝かせて、見つめた。
「あ、あの、本当にここを使ってもよろしいの? 私、床でも寝られますわ」
「構いません。部屋は余っていますから」
ここが使用人の部屋だというのは嘘であったが、部屋が余っているのは本当だった。
「……どうぞ、ごゆるりとお過ごしください、聖女ハンナ様」
「ありがとうございます! ムーエスンさん! このご恩、一生かけても返しますわ!」
数日後、ムーエスン邸。
「あの、ムーエスンさん、リシビアに手紙は届いたかしら、リシビアから手紙は来てないかしら」
「……すみません、届いたかは確認できてません。こちらに手紙は届いていません」
「そう……」
ハンナはうつむいた。
「ああ、でも、シオントスからリシビアに向かう民に噂を託しておきました。聖女に関する噂を」
「ああ、本当? だったら、陛下のお耳にも届くかもしれないわね……シオントスが友好国でよかった……いえ、友好国じゃなければ、私、旅行に来る気にもなれなかっただろうけど……あれ、そういえば、私、どうしてシオントスに来てみたいって思ったのかしら……?」
「……君がシオントスに来てくれてよかったよ、ハンナ。君に出会えたんだから」
「……私もです。ムーエスンさんに出会えなかったら、私、今頃、のたれ死んでました。ありがとう、ムーエスンさん」
ハンナは気丈に微笑んだ。
その笑顔をムーエスンは好ましく思いながら見つめた。
「ところでハンナ。こんなことを言うのはあれかもしれませんが……あなたは追放されたのです。王たちにどのような事情があるかは分かりませんが……そのことに怒りはないのですか?」
「人は間違える生き物ですから」
ハンナはさらりとそう言った。
「……それに、国にいるのは王族だけではありません。民もいます……。そういう人たちを助けるのが私の仕事ですもの……」
「そう、ですね……」
同じ頃、リシビア王城。
「……聖女ハンナが、シオントスで死んだ……!?」
リシビア国王は部下からの報告に衝撃を受けていた。
「城下ではそのような噂が流れています。シオントスから来た民によれば、国を追放されたことを気に病んだハンナ様が、シオントスの海に身を投げた、と……」
「そ、そんな……」
「ハンナ様のことは残念でした……。しかし、まあ、陛下、ブリュンヒルト様がいるではありませんか。聖女のおつとめは大変ですが、ブリュンヒルト様にお任せするほかありますまい」
「う、ううむ……いや、急いで、もう一人聖女を探すのだ! 急げ!」
「は、はい……しかし、長年なかなか見つからなかった聖女がそうすぐ見つかるとは……」
「いいから! はやく!」
「かしこまりました」
「はやく……聖女をはやく……」
国王はうわごとのように繰り返した。
数ヶ月後、ムーエスン邸。
「ハンナ、落ち着いて聞いてほしい」
「…………」
「リシビア王国にモルーゼ帝国が侵攻を開始した」
「…………」
「聖女の張る結界は意味をなさなくなっていた。恐らくもう、リシビアは……」
ハンナは声もなく泣き続けた。
「……ハンナ、私は出来る限りのことをしようと思う。シオントスにリシビアの難民が逃げ込んできているんだ。その支援をしようと思う。……君も手伝ってくれないか?」
「……はい。私、リシビアにとって役立たずの聖女でしたけれど、それでもリシビアの民の力になりたいです……」
「ああ、頼むよ」
ムーエスンはハンナに近付きその肩を抱き締めた。
「よしよし、辛かったね……」
「私の苦労なんて……ムーエスンさんのおかげでぬくぬくと暮らせていますもの、苦労のうちに入りませんわ……」
「ハンナ……君は、本当に良い子だね。ああ、最初に出会ったときから思っていたよ。君ほど誰かのために行動できる人を……自分には出来ないことが出来る人を……私は……」
「ムーエスンさん?」
「……私のような商人にはないものだ、君のその考え方は」
「……いえ、私なんて……私なんて……」
「私はね、ハンナ。君のその考えがほしい。商人として、そばに置いておきたい。どうだろう。これからも我が家にいてくれないか?」
「ご、ご迷惑ではないのですか……?」
「迷惑なわけがあるものか」
ムーエスンはハンナをまっすぐ見下ろした。
「……私のそばにいてくれるかい?」
「は、はい……」
ハンナは涙をたたえた瞳でうなずいた。
その夜、ムーエスンは私室で一人勝利の酒を傾けていた。
その部屋に音もなく一人の男が入ってきた。
「いやはや、本当にあなたは悪い人だ、武器商人ムーエスン様」
男は、リシビアの宮廷魔術師だった。
「ははは」
ムーエスンの本職は商人は商人でも武器商人。
リシビアにもその隣国モルーゼにも武器を卸している。
「これであなたの手にはまた巨万の富が……」
「富などもうどうでもいいさ。……聖女ハンナが手に入ったのだ」
ムーエスンの目はうっとりとしていた。
「ああ、春の花々が咲き誇るあの日、リシビアでの商談の折に見かけた麗しき聖女ハンナ……私は一目で彼女が欲しくなってしまった……」
「それはもう、何度も聞きました」
「なんとか、こうして、手に入れることができた……中身もすばらしい! 私はね、私に出来ないことが出来る者を高く評価しているんだ! 彼女の人の良さは私が一生持ち得ないものだ!」
「彼女に暗示をかけ、シオントスに行きたいと思わせるのは骨でしたよ。何せ聖女ですから魔法への抵抗力は強い。正直本でも一冊差し入れた方が早そうなくらいだった」
「ははは。しかし、まさかリシビアの宮廷魔術師を買収できるとは!」
「病気の母の治療に大金が必要でして」
「ふうん、大嘘つきの言葉がどこまで本当か……。まあいいさ」
「民に金を握らせて嘘の噂を流し、リシビアからのハンナ様への手紙を握りつぶし……まったく、酷いお方だ」
「商人はほしいもののためなら何でもするのさ……ところで」
「はい」
「王女の言っているなんとかって男が聖女ハンナと関係を持っていたというのは……本当なのか?」
ムーエスンの目が鋭くなった。
「まさか! ブリュンヒルト様のハンナ様を追い出すための嘘ですとも! あの方は何故か聖女を目の敵にしていましたから!」
宮廷魔術師は背に汗をかきながら答えた。
これで本当です、などと言った日にはヴォルター公爵を探して血祭りに上げろなどと無理難題をふっかけられかねなかった。
「……で、その王女と国王は?」
「なんとか逃げ回っているようですが……まあ、遅かれ早かれ死ぬでしょう。モルーゼの兵士の手によってか……それとも無能な王族に嫌気の差した国民の手によってかは分かりませんが」
「そうか、さっさと死ねば良いのに」
ムーエスンは冷たく言い放った。
リシビア王国は滅んだ。
国王とその縁者の首はモルーゼの兵士によって、王城跡地に掲げられた。
その知らせを聞いて、ハンナは3日間寝込んだ。
ムーエスンは片時もそのそばを離れずに、寄り添い続けた。
シオントスには難民が流れ込み、シオントスの港は一気にスラム街と化した。
しかし、リシビアの難民には商人ムーエスンの手厚い支援が与えられ、彼らは何とか日々を生きることが出来た。
「就職先が見つかりました! これもムーエスン様のご紹介のおかげです!」
「ハンナ様が看病を手伝ってくれたから、大怪我をした娘はなんとか回復いたしました!」
多くの感謝の声と、リシビア国民のたくましい姿にハンナは笑顔を取り戻しつつあった。
「……ハンナ」
「はい、ムーエスンさん」
「……これを、君に」
ムーエスンはハンナの顔が隠れるほどの大きな花束をハンナに手渡した。
「まあ、きれい……。どうされましたの?」
「……ハンナ、私と結婚してくれないか?」
「え……」
「これからも私とともに生きてほしい……私のことを支えてほしい……」
「……はい。ありがとう、ムーエスンさん、この国に来て、最初に出会えたのがあなたで本当によかった……」
ハンナは涙をこぼして微笑んだ。
こうして聖女ハンナは商人ムーエスンと結ばれ、それはそれは幸せな一生を過ごした。