【008】 地区大会開幕
地区大会の会場となるこのグラウンドは、荒川の河川敷沿いに四面が並んでいた。ここで今日、そして来週日曜日の二日間、計四試合が行われる……トーナメントだから、一試合で終わっちゃうこともあるんだけど。
ここを勝ち抜ければ、八月に大阪で行われる全国大会に出場できる。
僕らの初戦の相手は墨田区のチームだった。
安藤によると相手のチームは『可もなく不可もないチーム』だという話しだ。要はそんなには強くないってことらしい。
「じゃあメンバー発表するぞ」
アップを終えてベンチ前に集合すると、峰岸さんがスコアブックを軽く掲げて先発メンバーを告げた。
「一番センター榎田。二番セカン……」
榎田さんがセンター? ってことは僕が先発?
そう考えると手に汗がにじんでくる。峰岸さんの発表はまだ続いている。「――吉村。七番ライト杉浦。八番センター今井、で、九番ピッチャー笹本。以上」
大事な初戦の先発は第三の男、笹本政夫だった。
背が高くてヒョロッとした感じのする男、笹本。奴も小学校の時からピッチャーだった。
球はそんなに速くない。コントロールはまあまあ。峰岸さん曰く「安定している投手」らしい。この相手なら大丈夫だろうという試合は殆ど抑えるが「やってみないとわかんねえな」という相手には殆ど打たれるというピッチャーらしい……つーか、なんで僕がライトなんだろうか?
「杉浦ぁ」
山路さんが僕を呼んだ。笹本と榎田さんもいる。
「今日は、一試合目は笹本先発で、二試合目は榎田先発。杉浦はリリーフだ。イニング間に肩だけ作っとけよ」
「はあ……」
“リリーフ、か”
少し残念な気持ちになっていた。この間の完封した余韻がまだ残っていたのだ。
***
野球は筋書きのないドラマ、なんてよく言われる。
しかし全部が全部にドラマが詰まっているってワケじゃない。何の盛り上がりもない試合だって存在する。それがどんなに重要な試合だったとしても。
僕らは既に準決勝進出を決めていた。
地区大会の初戦、僕らはコールド勝ちでスタートした。
笹本は五回を一人で投げきった。次の試合は榎田さんが完投した。
僕は二試合ともライトで先発出場したが、未だ投げるチャンスはきていない。
「このまま出番がない、何てことはないよな?」
僕は昨夜、寝る前にそんなことを考えていた。
***
準決勝を迎えた今日、僕と榎田さんはベンチスタートだった。
「ピンチになったらすぐに行くからな。準備しとけよ」
試合前のベンチで山路さんが僕にそう耳打ちした。榎田さんにも同じ様なことを言っているようだ。
「あそこにいるデカイ奴。二人いるだろ? 五番つけてるのが野田。八番つけてるのが山城。こいつらは要注意だな。あとはそれほどでもない」
山路さんは僕の横に座り、相手ベンチを顎で指した。
今日の相手、板橋BBCは今大会の優勝候補らしい。でも不思議と落ち着いていた。僕は出番を待ちわびていた。
準決勝第一試合。
試合は四回まで進んでいる。
僕と山路さんはブルペンから試合を見守っていた。初回から始めた投球練習のお陰で、僕の肩はもうでき上がっている。
先攻の僕らは初回に先制したものの二回に逆転を許した。三回にも一点取られ一対四。そしてこの回、笹本は一つもアウトを取れず、ランナーを残したまま降板した。二番手としてマウンドに上がったのはエースの榎田さんだった。
ノーアウト二、三塁。打席には今日二安打の四番・山城を迎えている。
このピンチの場面での救援のマウンド。
榎田さんの表情はブルペンからは窺えない。僕は投球練習を止め、榎田さんの投球に見入った。
短いサインの交換が終わり、榎田さんがセットに入る。
クイック気味の投球モーションから投げ込んだ一球目、僕は息を呑んで見守った。
――ストライーック!!
初球、榎田さんの投げたボールは大きな弧を描いて外角低め一杯に構えたミットに収まった。
「おぉぉぉ……スローカーブですか。ここで……」
思わず漏れた僕の声に、山路さんが不思議そうな目を向けた。
いったん打席をハズした山城が再び打席に戻り、バットを構える。マウンド上の榎田さんは既にセットに入っている。
榎田さんは三塁ランナーに目を向けたまま、ゆっくりと足をあげる――――「走ったぁ!!」
投球モーションと同時に三塁ランナーがスタートを切った。スクイズだ!!
打球が鈍い音を残し、ピッチャー正面に転がる。
榎田さんは素早くボールに飛びつきバックホームする――――
「アウトッ!!」
ホームでの際どいクロスプレーは、間一髪でアウト。
アウトを一つとったものの、まだピンチを脱したわけではなかった。ランナーは一塁と三塁に残っている。ここで迎えるバッターは五番の野田。山路さんが言ってた、もう一人の『要注意人物』。
榎田さんの顔は泥だらけだった。
まるでヘッドスライディングをするかような、気迫のこもったグラブトスは、僕の知る『クールな榎田さん』のプレーとは異質のものだった。
僕はこのとき初めて、「この大会が負けたら終わりのトーナメント」なんだということを悟った。同時に強い衝動に駆られた――このピリピリとした緊張感のなかで投げてみたい!!
「杉浦、出番だ」
「え?」
驚いて顔を上げると、山路さんの視線の先、ベンチの峰岸さんはこちらを向いてマウンドを指さしている。
僕の方を振り返った山路さんは、親指でマウンドを指し、白い歯を見せた。
「思い切っていってこい!」
「はい!」
山路さんの声に押し出されるようにマウンドへ向かって全力で駆けだした。突然やってきた僕の出番。ようやく巡ってきた僕の『見せ場』。走りながらも頬が弛むのを抑えられなかった。
三点のビハインドで、なおも一死一、三塁。もう点はやれない場面。ワンポイントリリーフの榎田さんのあとを次いで上がるマウンド。僕は意外なほどに緊張していなかった。ただ投げたくてウズウズしていた。
次打者の野田は、ネクストバッターズサークルのところで監督らしき人の話に耳を傾けながら、僕の投球練習を舐めるように見つめている。
九番・笹本のところに入った榎田さんは、そのままセンターの守備についた。
「ランナーは気にしなくていいからな」
藤堂さんがマウンドに近づき、小さな声でそう言った。
「了解です。三振、狙っていきますから」
僕はそういって舌を出し、マウンドから打者を見据えた。
“やっぱでかいな”
右打席でバットを構えた野田は、ベンチで見たときよりもさらに大きく見える。
僕を睨みつけてくるバッターを無視し、吉村のサインを覗き込む。とはいってもストレート以外はないし、相変わらず細かい制球には?マークがつく。ただ、それを補うだけの球威、そして自信を身につけた……ような気がするけど根拠はない。
いったんプレートをハズし、地面に置いたロージンに手を伸ばして指先で軽く撫でる。
その体勢のまま目を閉じ、さっきブルペンで練りあげた『三振』を奪うイメージを更に膨らませていく。
“OK。いけるだろ?”
僕は顔を上げ深く息を吐いた。
そして再び吉村のサインを覗き込み静かに頷くと、セットポジションから意識してゆっくりと投球動作に入った。
――キィン
初球、高目のストレート。ボール気味の球。
擦ったような野田の打球は、フラフラと舞い上がり、吉村のミットに収まった。キャッチャーへのファールフライ。
野田はバットを地面にたたきつけ、審判に注意されている。
“ちっ。初球から打つなよな”
三振を奪うイメージでマウンドに上がっていた僕は、見せ場を台無しにされたような気分に思わず舌打ちした。
次のバッターはセカンドゴロ。
僕は『不本意』ながら、難なく三球でピンチを切り抜けた。
「――OK、OK。上出来だ」
峰岸さんが手を叩いて僕らを出迎えた。
四回を終了して一対四。
三点のリードを許してはいるが、僕らにそれほどの焦りはない。
ベンチ前で円陣を組む。峰岸さんからの短い指示と、藤堂さんの檄が飛ぶ。やがて解けた円陣の輪から真っ先に飛び出したのは、この回の先頭バッターの僕だった。
「出ろよな!」
ベンチから聞こえた誰かの声に、僕はバットのグリップを絞るように握り直し、静かに頷いた。
マウンド上の板橋BBCの先発・蓬田は、右のスリークォーターから投げ込むキレのいいストレートとカーブをコーナーに散らし、なかなか的を絞らせてくれない。ここまで散発の三安打。うち一本は岡崎が初回に放ったホームラン。得点はそれだけ。
まあ、しかしそれは僕がいなかった『前の回』までのハナシ。
この回、センターの今井に替わって八番に入った僕に始まり、九番は榎田さん。で、上位打線にかえる。僕と榎田さんが出れば、クリーンアップまでまわる可能性は大きい。
投球練習が終わり、審判に促され打席に入る。
やや後ろ寄りに軸足の位置を決め、やや短めに持ったバットを構えた。
今大会、僕のバッティングは『積極的な初球狙い』が功を奏して好調を維持していた。当然ココも初球からいこうと決めていた。ストライクゾーンにくれば迷うことなく。
サインが決まった蓬田が大きく振りかぶる。僕は合わせるように右足に重心を乗せた―――。
「ないすばってぃんぐ」
この回から一塁ベースコーチに回った今井が、妙な節回しで僕の『出塁』を労った。
五回の表の攻撃、先頭バッターだった僕は初球を迷わず振り抜いた。
サク越えを狙っていた僕の気持ちとは裏腹に、打球はピッチャーとサードの真ん中あたりに弱々しく転がった。しかしピッチャーの蓬田がそれをお手玉し、その間に僕は一塁を駆け抜けた。記録はピッチャーのエラー。フルスイングしたバットの先っちょに当たった分、妙な回転がかかっていたのかもしれない。
内容はどうあれノーアウトからの出塁。しかも自らのエラー。蓬田としても気分がいいはずがない。いずれにしても蓬田攻略の足がかりはできた。
打席には九番・榎田さん。
ベンチでは峰岸さんの両手が忙しなく動きまわっている。
僕はベンチに向かって小さく頷き、ピッチャーを牽制するようにリードをとりはじめた――――。
「弟! 頼むぞ!!」
ベンチから声が飛ぶ。打席には五番の亮が入っていた。
この回、無死一塁から九番・榎田さんの初球、エンドランが見事に成功して一、三塁。
一番・安藤のヒットでまず一点。二番・阪本が送って一死二、三塁。三番・岡崎が三振でツーアウト。
そして四番・藤堂さんに打順がまわった。
ここでベンチを窺っていたキャッチャーが徐に立ち上がった。
バッテリーは藤堂さんを敬遠した。満塁策を採って五番・亮との勝負を選択した。
二点差、二死満塁。
ベンチから祈るような気持ちで、亮に声援を送る。
いままで気に留めなかったけど、左打席に入った亮の構えは、右と左の違いはあるものの藤堂さんにそっくりの打撃フォームだった。
なんかどこかで見たような憶えが…………「あ」
――カキッ!!
初球を躊躇なく叩いた亮の打球は、ライナーでライトフェンスを越えていった。
一瞬の静寂をおいて、歓声が沸き上がる。 逆転満塁ホームラン。これで、六対四。
マウンドの蓬田は両手を膝について項垂れている。
キャッチャーは立ちつくし、打球が飛んだ方向を見つめている。
一塁ベンチではコーチらしき人がスコアブックをベンチに放り投げているのが見えた。ベンチ全体がショックを隠しきれないみたいだ。
そんななか、悠然とダイヤモンドをまわった亮がベンチに戻ってきた。
「やったな! 弟」
「さすが藤堂さんの弟だ!!」
亮を賞賛する声があちこちから沸き上がる――「だー! うるせえ」
突然、亮が両腕を広げて声を上げた。
「おとうとじゃなくて、アキラと呼んでくれよ?」
一瞬の間をおいて、ベンチが笑いに包まれた。
そう言った亮の目は笑っていたが本音だったのだろう。奴は奴なりに兄貴に対するコンプレックスがあったのかもしれない。
結局この回、打者一巡の猛攻で逆転した僕らは、その後も得点をくわえ【十対四】で優勝候補・板橋BBCを下し、決勝へ駒を進めた。
僕はこの試合、三回と三分の二を投げて1安打、3四球で無失点。打つ方でも3打数2安打2打点。試合終了後、峰岸さんに「ベンチで座って見ていられるようになってきた」と言われた。
「やるじゃん。……チビのクセに」
ベンチ裏から聞こえてきた声に振り向くと麻柚が立っていた。彼女は僕らと同じ帽子を目深に被り、エラそうに腕を組んでコチラを見ている。
「そうか? フツウだろ」
僕は素っ気なく応え、先にベンチを出ていた亮を追いかけた。確認したいことがあった。
さっき、蜂の巣を突いたような騒ぎのベンチの中、僕だけは別のことを考えていた。
亮のバッティングフォームは荒井英至にそっくりだったのだ。
荒井英至――――僕の憧れのプロ野球選手。豪快なホームランを見せてくれた人。野球を始めるキッカケをくれた人。そして……僕の夢と目標を同時に奪った人。
僕は亮を呼び止め、尋ねた。
「はあ? べつに。おれ、プロ野球に興味ないし」
言いがかりをつけられた猫みたいな醒めた目で、亮は僕を見返してきた。
“たまたま似ていただけか”
当てが外れて少し戸惑った。
「なんかフォームが似てたからさ」 僕は独り言のように呟いた。
すると亮は少し照れた笑いを浮かべて言った。
「おれは兄ちゃんのマネだからよ。あ……そういえば兄ちゃんは荒井のファンだったかもな」
言われてみれば、藤堂さんのフォームと亮のフォームはそっくりだった。
荒井英至は左打者だった。その荒井と亮がそっくりと言うことは……なんで今まで気が付かなかったんだろう。
藤堂さんのバッティングスタイル自体が、荒井英至にそっくりだったのだ。
僕は不思議な感覚に包まれていた。
“目標としていた選手にそっくりな人がいる。しかもこんなに近くに”
僕は押し込めていた気持ちが昂ぶってくるのを感じ始めていた。
***
決勝戦を前に、峰岸さんのメンバー発表が続いていた。
「……九番ピッチャー杉浦。以上だ」
決勝戦の先発は僕だった。
「お前の成長ぐあいを計るには、最高の相手なんじゃないか?」
山路さんがそう言って僕を見おろした。
相手の大田クラブは、五月に練習試合で対戦したチーム、僕のデビュー戦の相手だ。
“ヤラれたら、ヤリかえせよ”
僕は藤堂さんに言われた言葉を思い出し、深く息を吐いた。
***
僕はマウンドから打者を見下ろし、思いを巡らせていた。
“あの時はなんでこんな奴らに打たれたんだろ?”
考えて見れば五月に対戦したときも「打たれた」ってわけではなかった。ストライクゾーン近辺に投げてれば、意外とこんなモンだったのかも知れない。
地区大会の決勝は大詰めを迎えていた。七回の表、ツーアウト。五対〇で僕らがリードしている。
吉村は右の拳でポンッとミットを叩き、打者からやや離れた位置に構えた。
僕は頷き、一呼吸置いてからゆっくりと振りかぶった。
――バシィィ!
渾身の力で投げ込んだストレートがアウトコースに構えたミットに収まった。
球審の右手が挙がる――――見逃しの三振。
その瞬間、僕らは地区大会優勝を決め、全国への切符を手にした。しかしそこには思っていたほどの高揚感はなかった。