【003】 練習初日
結局、僕は『江東球友クラブ』に入ることになった。
半分いきおいで決めてしまったようなカンジだ。
三月から正式に練習に参加して、ようやく硬球の感触に慣れ始めた四月の初め頃――
「おい、そこのチビ。邪魔」
振り向くとそこには見知らぬ女の子が立っていた。立っているというより仁王立ちしているといった方が正解かも知れない。どっちにしても初めて見る顔だった。
「アンタ、藤堂君が連れてきた子なんだってね」
その子は僕に対してあくまでも上から目線だった。
一四○センチくらいの僕より背は高く、髪は短い。少女というより少年といった方が合っているのかもしれない。
彼女の名前は、峰岸麻柚と言った。
本塁付近から二塁ベースまでの距離をノーバウンドで投げるこの少女を、僕は年上の娘だと思っていた。
この生意気を絵に描いたような娘が同級生であり、しかも監督の娘だったことに驚いた。
「あんたピッチャーなんだってね」
麻柚はそういうと、ベンチにおいてあったキャッチャーミットを徐に手にはめ、ポンポンと右の拳で叩いた。
「投げてみなさいよ。アタシが受けてあげるから」
ほら、といって麻柚は僕の足元に向かってボールを放り投げた。彼女は笑みを浮かべている。
“ちっ。誰が女相手に本気で投げんだっつの”
僕はそのボールを拾い上げると、ソフトボールのように『下』から投げた。ボールは麻柚の左側方向に大きく逸れたが彼女は微動だにしなかった。
「ねえ。……アタシにケンカ売ってんの?」
彼女は大股で歩み寄ってきた。
言われっぱなしだった僕もムカついてきたのでにらみ返す。まさに一触即発状態だ。
「お〜い、杉浦あ!」
そんなとき僕を呼ぶ藤堂さんの声が聞こえた。
「ふん、お前と遊んでやってるヒマはねーんだよ!」
僕は麻柚に捨てぜりふを吐き、藤堂さんの元へ走った。
おまえ、あとでゼッタイ泣かすからな! 麻柚の怒鳴る声が背中から聞こえてきたが、無視を決め込んだ。
「よお。さっそく麻柚に絡まれてたなあ」
藤堂さんは笑いながら僕の肩に手を掛けた。
「多分、アイツは杉浦のこと気に入ったんだなあ。ムフフ」
「!……ち、ちがいますよ!」
僕は慌てて答えた。
「何で違うってわかんの? ゼッタイ違くないよ」
この人は僕が動揺するのを見て喜んでいる。ヒドイ人だ。
「藤堂、なんかあったか?」
「おお、実は麻柚がコイツに――」
「わわわ、な、何でもないです!」
声を掛けてきたのはもう一人の三年生の榎田さんだった。
榎田さんはこのチームのエースだった。藤堂さんと同様、この人も背が高かった。
一度投げているところを見せてもらったが、投球フォームが凄くきれいな人だった。そして凄く曲がる球を投げる。この球はいつか教えてもらいたいと思っている。
「もう硬球には慣れたか?」
榎田さんはグラウンドコートのポケットに手を突っ込んだまま、僕を見下ろして言った。
「え〜と。はい、少しだけ」
僕が中途半端にそう答えると、一瞬その端正な顔を崩した。
「早く戦力になってくれよ。三年は二人しかいねえからお前らにかかってるんだわ、オレラの最後の夏」
期待してっから、とくにお前にはさ。
そういうと榎田さんは麻柚のいるベンチの方へ歩き出した。
「榎田さんてスゴイ球、投げますよね」
「ん。……まあな」
藤堂さんは榎田さんの後ろ姿を目で追った。
「アイツはもう高校も決まってんだぞ。もちろん特待でな」
「トクタイ……ですか?」
僕は首を傾げた。
「なんだよ、特待も判んねえのか。トクタイセイだよ」
つまりスカウトされたんだよ、お前も知ってるような高校だぞ。
藤堂さんはまるで自分のことを話しているかのように得意げだった。
「じゃ、藤堂さんも決まってるんですか?」
そう言うと、藤堂さんは僕の目を見返してきた。それまでの笑みが一瞬消えたような気がしたが、すぐに元の笑顔に戻った。
「俺かあ……まあいくつか来てるよ。一応な」
「へえ。じゃあその中から選べるってことですか?」
藤堂さんは再び僕を見返してきた。そしてクククッと笑った。
「まあ杉浦にはそのうち教えてやるよ。ところでどうよ。ウチのチーム」
僕はなんとなくはぐらかされたような気になったが「みんな上手いですね」とだけ答えた。
「だろ? でも、お前もそう思われてんだぞ!」
そんなことないだろ? 僕は心の中で呟いた。
「このチームはさ、三年は俺と榎田しかいない。あとは一年だけ」
藤堂さんはグラウンドを見つめている。
「だけどこのチームで今年、全国制覇を狙っているっていったらどう思う?」
僕の方に向き直った。僕は視線を掴まれたように外すことができなかった。
「どう思うよ?」
少し表情が緩んでいる。
「ちょっと……難しいんじゃないかと思います、けど」
僕は自分でも嫌になるほど中途半端に応えた。
「ククッ……だよな」
藤堂さんは笑いながら僕の背中を叩いた。
海に面した潮見のグラウンド。時折海から吹く風はまだ肌寒く、バックネットを留める金具を軋ませる音だけが僕らを包むように響き続けている。
「でもなあ。オレラとお前らが組めば可能になんだよ」
藤堂さんの目は本気でそう信じているようだった。そして不思議な説得力だった。でも僕は藤堂さんの言葉に他人事のような気持ちでただ耳を傾けているだけだった。
***
「アンタなにやってんの?」
さっきから遠巻きに僕を見ていた麻柚が近づいてきた。
「見てわかんねえか? 四股踏んでんだよ」
「何で」
「知らん。お前のオヤジに言われた」
僕は二十分ぐらい前から『四股』を踏み続けている。ランニング、ストレッチが終わると、僕だけが峰岸さんに呼ばれた。
「杉浦はあっち」
峰岸さんが指さした先は砂場だった。
「え……何ですか?」
ちょっと僕は不満だった。もう砂場で遊ぶような歳ではない。
「杉浦は別メニューだ。マズは裸足になって、あそこで四股踏んでろ」
取りあえず三十分くらいな。
峰岸さんは指を三本立ててそう言うと、グラウンドへ戻ってしまった。
僕はしかたなく、言われたとおりに四股を踏むことにした。
グラウンド内では、みんなキャッチボールをしている。僕はウズウズしていた。早く硬球を投げてみたいのだ。なのに僕だけが隅っこで相撲ごっこをさせられている。
「そろそろ三十分経ったよな?」
確認するように自分に問いかけ、グラウンドへと走り出した。
「終わりました!」
「おお、じゃあ麻柚とキャッチボールでもしてろ」
「え……」
振り返るとあの女がミットを持った手で僕を手招きしている。
“……つまらない”
僕は非常に不愉快だった。本当ならブルペンでビシビシと投げているはずなのに、今は女の子のキャッチボールの相手をさせられている。思いっきり投げてみたい! でもさすがにそういうわけにもいかないし。
「あ」
そんなことを考えながら投げた僕のボールが、彼女の手前で弾んだ。しかし彼女はショートバウンドで難なく捕球した。
「ちょっとぉ、ドコ投げてんのよ!」
麻柚はボールを手で捏ねながら、「擦れちゃったじゃない」とか呟いている。
「悪いね……」 僕は顔の前で手刀を切った。
しばらく麻柚とキャッチボールをしてるうち、一つ気がついたことがあった。
彼女の投げるボールは、僕の投げたボールに比べてバラツキがなかった。とても正確だった。キャッチボールだけなら僕が小学校の時にいたチームの誰よりも上手いのかもしれない。
僕は少し恥ずかしくなった。麻柚を馬鹿にできるほど、自分は上手くもないことに気付いてしまった。しかも彼女は一生懸命だった。
「杉浦ぁ!」
峰岸さんが僕を呼んだ。外野を指さしている。外野ではアメリカンノックが始まるところだった。
「しっかりやってきなさいよ」
僕は麻柚に促され守備練習の輪に加わった。
峰岸さんのノックは絶妙だった。
取れるか取れないか、ギリギリのところに打ち分けてくる。三十分もやってるとヘトヘトだ。
「藤堂! 杉浦ぁ!」
今度はノックをしていた峰岸さんが藤堂さんと僕の名前を呼び、手招きした。
「はい!」
「お前、これからブルペンに入れ」
峰岸さんは僕に向かってそう言うと、手にしていたノックバットを藤堂さんに渡し、キャッチャーミットを持った大柄な奴を呼び寄せた。
呼ばれた奴は吉村という一年生だった。
僕と同級生だとは到底思えないほど大きい。多分一七○センチ以上はあるだろう。
「これから杉浦がブルペンに入るときは吉村が受けろ。わかった?」
峰岸さんにそう言われ僕らは顔を見合わせた。名前は知っていたけど、まだ話しをしたことがなかった。
「……よろしく」「……ヨロシク」
僕と吉村はぎこちなく挨拶を交わしマウンドとホームへと別れた。
ブルペンとは言ってもこんもりとしたマウンドが二つあるだけ。キャッチャーの後ろに少し背の高いネットが張ってあるから何となくここがブルペンだと認識できる程度だ。
“しかしでっかいな、あいつ”
マウンドから見た吉村は大きな『的』のようだった。その後ろのネット裏には峰岸さんと榎田さんが立っている。
待ちに待った投球練習。いいところを見せたいと思ってはいるが、僕は既にダイブ疲れていた。ただ投げるのが精一杯、余計なことを考える余裕は一切なかった。
立ったままの吉村に向かって約二十球。僕の初投球はこんな感じだった。
「まあまあだな」
マウンドにいる僕の元に峰岸さんがやって来て言った。
「来週、俺の後輩の山路ってのに来てもらうから見てもらえ」
「はい」
ヤマジさんてのは誰だろう? 聞いたことのない名前だった。
「え。山路さんが来るって?」
練習後、藤堂さんにそのことを話すと驚いたようすだった。ヤマジさんを知っているらしい。
「有名なコーチなんだぞ。成京の小林とか櫻陰の志村とかを育てたとか。ただ忙しい人らしいから見込みのある奴しか相手にしないってのを聞いたことがあんぞ」
藤堂さんからでた名前は聞いたことがあった。最近甲子園に出てたピッチャーだ。
「とにかくチャンスかも知れねえな。いいとこ見せろよ」
そう言って僕の頭を掻きむしった。