【035】 夏の神話
右肩関節唇損傷―――。
最初に聞いたときには、どういう字を書くのかピンとこなかった。
少し前から投球時にあった小さな違和感。 それは軽い筋肉痛のようなカンジだった。 『痛くてどうにもならない』ってほどではないから深くは考えてはいなかったし、肩が温まってくると消える程度の痛みだったし。
でも僕の肩は決壊寸前のダムのようなものだったのかもしれない、と今では思っている。
その『決壊』の瞬間はあっけなく訪れたってわけだ。
サンディエゴからの帰国後、峰岸さんに紹介された川崎市内のクリニックで検査を受けた。
「――軽いとはいえないね。 しばらくのあいだ投球は厳禁。 普段の生活でも肩に負担の掛かる動きは極力避けること」
眼鏡を掛け、黒々とした髪を七:三できっちり分けたやや若そうな医師は、僕の目をみてそう言った。
「キャッチボールもダメなんですか?」
「ダメだね」
今度はデスクに目を落としたまま、僕を見ることはなかった。
「今は焦らない方がいい。 さっきも言ったが状態が軽いとはいえない。 でも治療をすれば充分投げられるようになる」
医師はデスクの一番下の抽斗から赤い『ヒモ』のようなモノを取りだした。 よく見るとチューブ状のゴムだった。
「これはインナーマッスルを鍛えるのに使うゴムなんだ。 こうやって、ね」
医師はそういって『実演』して見せてくれた。
「君にあげるよ。じゃ、次は来週中に来て」
医師が差しだしてきたゴムチューブを受け取った。 でも僕にはインナーマッスルっていうものが何なのかは判らなかったが。
「……ありがとうございました」
立ち上がり、軽く会釈した。
「――山路も随分と期待してたからな」
「え。 山路さん、知ってるんですか?」
医師は少し寂しそうに頷いた。 でもそれ以上は何も話してくれなかった。
そして九月も半ばになった。
僕らも藤堂さんたちに倣って、秋の大会前には『引退』していた。 だから今日の『引退試合』が、潮見のグラウンドでの最後の練習だ。
医師からはまだキャッチボールの許可は出ていない。 「これからだんだん寒くなっていくのだからムリすることはないだろう?」といっていた。 まだ九月なんですよ、と思ったが口にはしなかった。
僕は医師の指示を忠実に守っていた。
彼が山路さんと知り合いだったというのも影響しているのは間違いない。 それだけで信用ができる気がしていた。
「あ、杉浦さん、チワッス」
二年生の辻倉が僕を見つけて駆け寄ってきた。 彼が今年のエースだ。
「おう。 どうよ?」
「はい、ゼッコウチョウです! 露木も調子がいいんで俺も負けないように……」
露木というのは一年生左腕だ。 結構いいピッチャーになるんじゃないかと僕は見ている。
「肩とか肘とか、気を付けろよ。 俺も俺の先輩も――」
榎田さんの顔がよぎった。
成京学館に進んだ榎田さんは、今年の春と夏、ともに甲子園の土を踏んでいた。
「……ま、気を付けててもなっちまうときはなっちまうんだろうけど……でも気を付けろよな」
「はい! 気を付けます!」
露木にも言っといてね。
僕は辻倉に告げ、峰岸さんのいるベンチへ向かった。
久しぶりに会う(とはいっても二週間ぶりぐらいだが)峰岸さんは、少し元気がなかった。 肩を痛めた僕に気を遣ってくれているのだろう。
「どうだ。 痛みはあるのか?」
「全然痛くないですよ。 あの医者、大袈裟ですよね」
僕が舌を出してそう言うと、峰岸さんも表情を崩した。
「とにかく、今はムリするな。 お前には将来があるんだから」
「はい。 山路さんとの約束もありますし、ね」
峰岸さんは曖昧に頷いた。
「明桜が……明桜の冴島監督が、お前と会いたいといってるがどうする?」
「え〜と。 どうしたらいいですか?」
「先方にはお前の肩のことは伝えてある。 それでも来て欲しいと言っている」
僕は大きく息を吐いた。
「僕も明桜に行きたいと思ってます。 よろしくお願いします」
「そうか……判った。 きっと山路も望んでるだろうしな」
西東京の強豪・明桜学園。 二年前、明桜学園の監督を僕の前に連れてきたのは山路さんだった。 目当ては藤堂さんだったらしいが、山路さんに呼ばれて僕も挨拶をさせられた。
僕が明桜を希望したのは山路さんの影響が大きかった。
「肩……大丈夫なの?」
声に振り返ると、麻柚が今にも泣き出しそうな顔で立っていた。
「は? 平気だよ。 つーか、お前いつからそこにいたの?」
僕は惚けてそう言った。
「ずっといたでしょ! お父さんと話してるときから!」
いつもの勝ち気な表情に戻った。 その方が彼女らしいと思う。
「でも、本当はどうなの?」
「ホントに平気だって。 今だって投げられるよ。 ゼンゼン痛くねえモン」
僕が投げるマネをしようとしたのを、彼女が無理矢理止めた。
「まあ、医者が言うには軽くはないってさ。 でも投げられるようになるっていわれてるし」
「そう……でもムリはしないでよね」
グラウンドに目を向けた彼女の表情は僕からは窺えなかった。 ただいつもの軽い調子でないことはわかる。
「――俺さ、明桜に行くんだ。 行って甲子園で優勝する。 だから今は我慢するわ。 ホントは投げてーんだけどな」
麻柚がこちらを振り向いた。 海から吹く風に髪がなびいている。
「……お前、髪伸びたな? 伸ばしてんの?」
「はあ? 一年くらい前から変わってないわよ! バカじゃないの!」
麻柚は顔を赤らめ、僕を罵倒した。
言われてみればこの一年くらい、彼女と向き合うことがなかった……まあ、色んな意味で。
僕の中の麻柚は出会ったころのままで止まっていた。
「……優がさ、投げられるようになったら、応援に行ってやるからね」
「え。 いいよ」
僕は何故か遠慮した。 理由は自分でもよくわからないけど。
「いいってことないでしょ? アタシが決めるわよ。 そんなこと」
麻柚はそう言って小指を出した。
「ナニ?」
「指切りよ。 他になにがあるのよ」
「ええ〜。 いいよ〜」
うるさい、指出せ!
麻柚はそう言って嫌がる僕の左腕を掴み、無理矢理指切りさせた。
「――よし、杉浦優OK」
麻柚はポケットから取りだした小さいノートに何やら書き込んでいる。
「……ナニ書いてんの?」
彼女が見せてくれたノートには、僕らの名前が書き込んである。 名前の横に書いてあるのは『進路(予定)』のようだ。
「全員と約束してんの? 指切りして?」
麻柚は当然という顔で頷いた。
「だってみんな男子校ばっかりじゃない。 女の子の応援は貴重でしょ?」
「さあ? どうかなあ」
僕は答えに困っていた。 大阪とか山梨とか、青森の学校に行く奴までいるけど、彼女はそこへも行くつもりなんだろうか?
「よっ! お待たせ」
振り返ると安藤だった。 みんな集まってきている。
「大丈夫か?」
みんな同じことを聞く。 僕は同じように答える。
「医者から止められてるから今日は出ないけどな。 来年の春には全快だな、多分」
僕は少し強がって言ってみた。 それについては誰も何も言わなかった。
「ったく、てめえはホントに怪我しやがってよ」
声に振り返ると岡崎が厳しい表情で立っていた。
「おう。 でもつまんねえ怪我じゃねえぞ。 タイヘンな怪我だ」
自分でもつまんないことを口走ったと思った。 場の空気が凍てついたカンジだ。
「チッ……で、治んだろうな?」
「ああ、治る。 ちゃんと投げられるようになるって言われてる」
「だったら早く治せよ。 じゃなきゃお前と違う高校に行く意味がねえ」
岡崎は成京学館に内定している。 榎田さんと同じ高校だ。
「お前と亮は明桜なんだろ?」
ああ、僕は軽く頷いた。
「俺とは甲子園に出ねえと当たんねーぞ」
僕は挑発するように岡崎に言った。
「わかってんよ。 甲子園でやる為に西は避けたんだからよ」
「ほう、大きく出たな。 明桜は俺と亮が入るからしばらく安泰だけど東はキツイんじゃねえか?」
「バカヤロウ。 俺がいればヨユウだよ」
そういって笑った岡崎の目は、ガラにもなく潤んでいるような気がした。
***
ブルペンに足を運んだ。
僕はこんもりとしたマウンドに上り、思った。
すべてはココからスタートしたのだ。
僕はココで仲間と出会い、藤堂さん、榎田さんという強烈な個性に引っ張られ、彼らの背中を必死に追いかけるウチ、気が付くと頂点に登り詰めてしまっていた。 あれから二年――。
僕は成長した。 自分の弱さを認めることで、身の丈に合った強さを身につけた、と思う。
そして今日、江東球友クラブの一期生は解散する。
常勝を誇った僕らの神話は、持ち主である僕らの手から離れ、いつか僕らの知らない誰かへと語り継がれて行くのだろう。 少しずつカタチを変えながら、尾ひれが付き……やがてそれが伝説となっていくように。
「――おい! スギウラ!! なにやってんだよ!」
岡崎の怒鳴り声が聞こえる。 写真撮影の準備ができたみたいだ。
「悪い! いま行くよ」
僕は軽く左手を挙げ、応えた。
潮見のグラウンドには海からの風が強く吹き付けていた。
あの時と同じようにバックネットを留める金具を軋ませながら。