【033】 scouting report07 ゲームセット
「――いいんですか? 呼びましょうか?」
江東球友クラブの監督・峰岸正一はグラウンドを指さした。
「いえいえ、ホントに大丈夫です! 練習の邪魔に来たワケじゃないですから、ホントに」
善波彰夫は大げさに手を振り「本当に」を繰り返すと、手にしていたバッグから一冊の大学ノートを取り出し、峰岸に差しだした。
「彼に渡しておいていただけませんか? あ、いや、たいしたものではないです――」
峰岸は受け取ったノートを見つめていた。
「私からのアドバイスというか……一年の時からずっと見てきた、感想みたいなものです」
善波は恐縮しきりといった感じで、早口で捲し立てた。
普段テレビで目にする冷静な采配ぶりからは考えられない、まったく正反対な慌てぶりに、峰岸の頬は自然と緩んでいた。
手にしたノートのページをめくることはしなかったが、その使い古したような汚れ具合……そこには善波の熱意が溢れているような気がしていた。
「判りました。 ちゃんと渡しておきます。 これだけ見てくれてる人なら安心して送り出せますよ、私としても、ね」
峰岸はそう言うと軽く一礼し、善波に向かって右手を差しだした。
***
善波がこの晴海のグラウンドを訪れるのは先月以来だった。
そのときと比べるとギャラリーの数は少ない。
今年の争奪戦は既に終わっているということを、善波はこのとき初めて実感した。
彼が率いる成京学館は今年出場したセンバツで準優勝、そして夏も優勝候補の最右翼と目されていた。
間近に迫っている東東京大会の開幕。 そんな大事な時期にチームを離れてココに足が向いてしまうほど、来年入部予定の『ゴールデンルーキー』に惚れ込んでいた。 即戦力としてその実力を高く評価していたのだった。
善波は歩きながらポケットに手を突っ込み、クルマのキーを探った。
グラウンドの入口から2台目。 善波の愛車・ボルボのエステートは、夕日に照らされた赤いボディがキラキラと輝いていた。
昨年、何度かここを訪れたときには、いつも満車で路上駐車を余儀なくされていた。 しかも随分と離れないと路上にも空きスペースがなかった。 いまではとても考えられないくらいだ。 善波はキーを取り出し、ドアロックを解除した。
ドアを開いた善波は、車内から溢れ出た暑い空気に顔を顰めた。
陽射しに晒され、サウナのように暑くなった車内。
善波は半身で乗り込むと、ブレーキを踏み素早くエンジンを掛ける。 そしてエアコンを全開――やや遅れて吹き出す熱風が顔面を襲う。
「……?」
豪快に吹き出すエアコンの風を浴びながら、善波は微かな違和感をおぼえた。
エンジンを掛けたまま車を降りる。 車体の後部に回ると違和感の正体、微妙な傾きの原因はスグにわかった。 左の後輪は見事にぺしゃんこになっていた。
「嘘だろ? パンクかよ……」
善波は腰に手を当て、天を仰いだ。
「まず……修理工場に電話してあとで取りに来させないとな」
善波は自分に言いきかせるように呟いた。 しかし……問題は「どうやってココから帰るか」だった。
いま立っているこの場所は、海に張り出した埋め立て地の果て。 最寄りの駅まで歩くのは非常に骨の折れる作業だ。
左手に嵌めた時計に目をやる。 針は五時を少し回った時間を指している。
「さて……どうしたもんかな……」
善波はボルボのタイヤを見つめ呆然とし、大きく息を吐いた。
「よ、成京さん――」
不意に背後から掛けられた声に、善波は慌てて振り返った。
止まっていたのはグレーメタリックのハイラックスサーフ――運転席から顔を覗かせていたのはトガシだった。
「やあ、どうもご無沙汰です」
車から降りてきてそう言ったトガシに、善波も軽く会釈した。
彼と会うのは一年ぶりだった。
その前に会ったのも多分その一年くらい前……つまり、それほど親しくはない。
「あ〜あ、ヒドイね。 イタズラされちゃったのかな?」
トガシは善波が口を開く前にパンクに気付いたようで、大げさに首を振りながら息を吐いた。
「これから帰るの?」
トガシは善波の顔を窺った。
「はあ、まあ……」
「どうやって帰るの?」
矢継ぎ早に質問を重ねるトガシはどこか楽しげだった。
「まあ、適当に歩いて帰りますよ」
善波はなげやりな感じで呟いた。
そんなに心配されなくてもどうとでもなると思っていた。 電話して誰かに迎えに来させればいいだろ――。
「乗っていきなよ」 トガシは呟いた。
「は?」
「駅まで乗っていきなよ。 どうせ通り道だからね」
トガシはそう言うと運転席に乗り込み、善波を急かした。 楽しげな表情はそのままだった。
結局、善波はトガシの好意に甘えることにした。
この炎天下のなかを意地を張って歩くことにナンの意味も見いだせなかったと言うこともあった。 しかし――
同乗させてもらったはいいが、まるで話題がない。 駅までたかが十分程度の距離だったが間が持たない。
善波としても乗せてもらっているという立場上、車内の空気にはいつも以上にナーバスになっていた。 なにか話さなければ――。
「きょ、今日は、少なかったですね? 同業者は」
取りあえず当たり障りのない話題を振った。
「本命が消えちゃったからね」
トガシは意味ありげな視線を善波に向けた。
「な、なるほど。 確かにそうですよね……」
善波はそれ以上に話題を展開することができずに、再び沈黙に嵌った。
「ところで……今日これからどうです?」
トガシは笑みを浮かべ、グラスを傾けるマネをした。
「はあ、いや……」
善波としては、できれば勘弁して欲しかった。
「美味い刺身を食わせる店があるんですよ、新橋なんですけどね――」
「いや、でも……」
「まあ、お互い、夏の大会前の景気づけというか……激励会でもいいかな?」
トガシは、善波が口を挟むスキを与えない勢いで喋り続けた。
結局ここでも善波はトガシの勢いに押し切られ、一杯だけ付き合うことを余儀なくされた。
善波は酒が嫌いなわけではなかった。 寧ろ飲み歩くのは好きな方だった。
しかし同業者と飲みに行くことは稀……どちらかと言えば避けているといってよかった。
新橋の駅にほど近いこぢんまりとした店。
暖簾をくぐると、間接照明だけの薄暗い店内にはまだ先客はいなかった。
トガシのあとに続いて一番奥の席に着くと女将に焼酎をオーダーし、続いて「好き嫌いはあるのか」と善波に向かって尋ねた。 善波が「ない」と答えると、トガシはカウンターに向かって二本指を立て「おまかせで」と言った。
やがて目の前にお通しとグラスが並んだ。 焼酎は「芋」だった。
「成京さんが羨ましいですよ。 榎田にくわえて杉浦と岡崎だろ? 三年間は安泰だな」
トガシは善波のグラスに酒を注ぎながら、卑屈そうな声で呟いた。
「あの、ですね……勘違いされてるようですが……ウチじゃないですよ。 杉浦は」
善波は否定した。
しかしトガシは信用しなかった。
決してだまされまいというように疑いの眼差しを善波に向けていたが、それでも強く否定する善波の態度にやがて頷き、首を傾げた。
「じゃ、ドコに行ったんだ?」
杉浦の進路について善波は大凡の見当はつけていたが、敢えてここで口にするつもりはなかった。
「さあね。 東東京以外ならドコでもいいですよ」
善波は呟いた。 さして興味がないとでもいうように。
するとトガシはフッと笑みを浮かべた。
「そうだよな。 確かにドコでも同じか……ま、千葉以外ならいいけどな」
呑気に呟くと、グラスに手を伸ばした。
トガシはかなりイケるクチだった。
酒に関しては善波もかなりいける方だと思っていたが、呑むペースとしてはトガシに後れを取っていると言ってよかった。
「しっかし、杉浦を深追いし過ぎましたよ。 お陰で一人、いいのを逃しちまいました。 近所のクラブチームの子なんですがね、コレがまた右のサイドからキレのいい球を放るんですよ――」
トガシは赤くなった顔を時々顰めながら、しかしどこか楽しげに『逃したサカナの大きさ』具合を語っていた。 表情を目まぐるしく変えながら話すその姿は、ただの野球好きのオヤジにしか見えない。
コノヒト、本当にいい人なんだろな……。
嬉々として語るトガシを眺めながら、善波は頬を弛めた。
「――でもね、ウチの安藤はいいですよ」
トガシは突然話題を変え、入学が内定した『期待のルーキー』の自慢を始めた。
善波も安藤に関しては獲得リストの上位でマークをしていた時期があった。 しかし最終的には世代最高の野手である岡崎を選んでいた。
「走攻守すべてにおいてハイレベルで、そうだな……完成度では今年の内野手ではおそらくナンバーワン――」
「!」
その言葉に善波は反応した。 スカウトとしても一流と自認する善波にとって、トガシの『安藤こそナンバーワン』の発言は聞き捨てならなかった。
「いや、ちょっと待ってください。 野手で言えばウチの岡崎がナンバーワンですよ。 間違いなく」
「いやいや、現時点でのチカラを総合的にだな――」
「――いやいやトガシさん。 確かに安藤はいい選手ですが、ウチの岡崎と比べたら――」
善波はトガシの言葉を遮ってまで持論を展開した……というよりまたやってしまった。
彼としてもわかっていた。 これが自分のイケナイところであるということが。
成京の評判の悪さの一翼を担っているのは間違いなく自分であるとアタマでは理解していた。 傲慢だとか、若いクセにとか云々……。
しかし熱くなってしまうと止まらない。 酒が入ってしまうとトクにだ。 だから同業者と飲みに行くのはイヤだったのだ。
いまも善波が話すあいだ、トガシは驚いたように目を見開いて聞いていた。 多分、呆れちゃってるんだろう。
「ふん。 まあ、そういう見方もあるかもしれないけどね……」 突然トガシは鼻で笑った。
そして聞こえよがしに言った。
「何だかんだ言っても、所詮オレもアンタも杉浦には逃げられたのさ」――
善波は驚いた。
いままで参加した宴席では、善波の演説が始まると同席した人間は妙な愛想笑いを浮かべて黙り込むか、ムリヤリ他の話題に振ろうとする。 誰も成京学館の監督である善波とコトを荒立てようとはしなかった。 或る意味『裸の王様』扱いだったのだ。
しかしトガシは違った。
善波の『野球論』を聞いた上で、鼻で笑って言い返してきたのだ。 だが不思議と善波は腹が立たなかった。 トガシもご機嫌な様子だった。 というより、どうやら彼はすっかり酔いが回ってしまっているようだった。
善波は可笑しくなった。 宴席で真っ先に酔うのは、いつもは自分の役目だったのだ。
私学の監督会合での宴席では、自分より先に潰れる人間を見ることは少なかった。
カウンターにグラス二つ並べ、なみなみと酒を注ぎたしながら善波は考えた。
この人とはいい意味でのライバル関係を築けるかもしれないな……。
「富樫さん、今日は徹底的に呑もうぜ。 フラれたもん同士で、さ」
善波は気持ちが急に軽くなったような気がしていた。
***
「――去年もそう言ってましたよね?」
近藤は醒めた口調だった。
「そうだっけ?」
名嘉村は惚けたようにそういうと、カラになったビールのジョッキを弄んだ。
「まあよ、仮にそうだったとしても今年はカタいな。 江東の優位はどうあっても揺るぎようがない」
名嘉村は鼻歌を唄うような軽い口調だった。
「仮にじゃなくちゃんと言ってましたよ! で……名嘉さんお気に入りの用田はどうなんです?」
「ムリだな」
近藤の問いに、名嘉村はにべもなく言った。
「用田のトコロは完全にワンマンチームだ。 用田がいなけりゃ全国大会に出てくることもないだろうよ。 それに比べて江東は違う。 バッテリーを中心に全てのレベルが高い位置でまとまってる。 或る意味オレの理想とするチームのカタチだ。 今年の優勝は間違いない」
名嘉村はやけに自信満々だった。
「……じゃあ、成立しないッスね。 今年も」
近藤は残念そうに呟くと、テーブルに置いた一万円札を指で摘み、胸のポケットに仕舞った。
やがて店員がやってきて、名嘉村はウーロンハイをオーダーした。 近藤はビールと砂肝と手羽先を追加で頼んだ。
「近藤まだ食うのかよ?」
名嘉村は時計に目をやり、呆れたような声を出した。
「ええ。 まだまだ食いますよ」
当然というふうに答えた近藤に、名嘉村は引きつったような顔でひと言「すげえな。」と言った。
もうじき日付が替わるところだったが、店内は混雑していた。 学生風の奴らからサラリーマン風の奴らまで客層に統一感はない。
「――ちょっと前のことなんだが……ウチの卒業生から電話があってな。 話をするのは本当に久しぶりだったんだが、ソイツがいきなり言ったんだよ。 『絶対に杉浦を獲れ』ってさ」
名嘉村は灰皿を引き寄せ、タバコをくわえた。
「ソイツの話じゃ、杉浦の投球を打席で見たらしいんだがな……モノが違うってさ。 ま、ヤツが言うんなら間違いないだろう」
そう言って名嘉村はタバコに火を点けた。
「打席で見たって……誰なんですか? その卒業生って」
近藤は怪訝そうな目で尋ねた。
「卒業生は卒業生だ。 名前は教えないよ」
名嘉村は訝る近藤の様子を愉しむように言った。
「ところで……杉浦、ドコに決まったか知ってるか?」
名嘉村が呟いた。
「さあ……?」
近藤は首を傾げた。
「なんだ。 知らないのか?」
「え。 名嘉さん知ってるんスか?」
そう言って近藤がテーブルに身を乗り出すと、名嘉村はそれを両手で制した。
「そのうち判るよ。 もちろん近藤も知ってるところさ」
名嘉村ははぐらかすように煙を吐きだしだ。
***
八四年八月。
大阪で開幕した選手権大会は、江東球友クラブが二年ぶり二回目の全国制覇で幕を閉じた。
優勝候補の本命視されていた江東球友クラブは、地区大会からの合計八試合を全てコールド勝ちという圧倒的なチカラの差を見せつけての優勝だった。