【031】 いつか見た夢
室内練習場はいつも以上の活気に満ち溢れていた。
さっきまでバッティングピッチャーをしていた四年生の河合は、腹を抱えて笑っている。
「もう一回巻き戻せ、最初っから!」
河合はマネージャーの大久保にそう指示すると、大久保も背中を震わせながらビデオの操作を始めた。
先程から再生されている映像は、斎藤が荒井英至を紹介するシーンだった。
怪訝そうな目で髭の男を見上げていた杉浦が、やがてそれが荒井であることに気付いて呆然とし、次第に口が開きみるみる顔から血の気が引いていき、最後に手からグラブがこぼれ落ちるまで――河合を中心とした悪のりした連中が、それを何度も繰り返しては爆笑していた。
斎藤は、ビデオを囲む輪に背を向けている杉浦に歩み寄った。
「想像以上のリアクションだったよ」
斎藤の言葉に、杉浦は憮然とした表情で顔を背けた。
今回のドッキリ企画の発案者は、だぶついたハラを揺らし満足げな笑顔を浮かべていた。
「あの驚きようは見事としか言いようがない。 相当なファンだったんだな」
斎藤はそういって杉浦の肩に手を伸ばしたが、彼はそれを避けるようにくるりと背を向けた。
結局その日の杉浦は、ずっと疑り深い目を斎藤に向けたまま、大久保の運転する車で帰路についた。
「やれやれ。 ヘソ曲げちゃったか……」
斎藤は息を吐いた。
しかしこの時期に彼らを引き合わせたのは正解だったと確信していた。
荒井英至から紹介者を通じて連絡が入ったのは、十日ほど前だった。
『自主トレの為に室内練習場をお借りしたいのですが。 隅っこでも結構ですから』――
京葉工科大と荒井の間には縁もゆかりもなく、斎藤もまた面識はなかったが、元プロ野球選手の低姿勢な申し出を断る理由はとくに見当たらなかった。
***
「ありがとうございました。 いい調整になりました」
荒井は斎藤に向かって、深く頭を下げた。
「それは何よりだ。 で……どうだった?」
「ええ、想像以上でした」
荒井はそう言って、誰もいないマウンドに目をやった。
「挨拶をした時点では、どうかな? という感じで見てたんですが、マウンドでは別人ですね」
荒井の言葉に、斎藤は満足そうに頷いた。
先程のシートバッティング。
もともとは杉浦を一番手で登板させる予定だったのだが、荒井を目の前にした彼の動揺は大きく、最後に変更せざるをえなかった。 実際マウンドに向かう足取りもどこか頼りなく見えた。 しかし――
投球練習を終えた杉浦は、第一球を投じる直前に打席の荒井に向かって言った。 「ぶつけちゃったらスイマセン」。
そして杉浦が投じた一球目は、インコースに外れた。 予告通り、思い切ってインコースを突いてきた。
「ちょっとビックリしましたね。 でもいい度胸してるじゃないか、と」
荒井は鼻で笑い、続けた。 「でも、スイッチが入りましたよ、アレでね」
結局、15スイングで安打性の当たりが13本、そのうち室内じゃなければサク越えしていたであろう当たりは実に7本―― 杉浦の投じたボールを、完膚無きまでに打ちのめした。
「ちょっとオトナゲないかな、と思いましたけど……本能的なものかもしれませんね」
荒井はアタマを掻いた。
「スイッチが入った本当の理由はそれじゃないだろ?」
斎藤の言葉に荒井は口許を弛めた。
杉浦が投じた三球目、インハイのストレートにバットが空を切った瞬間の荒井の表情を、斎藤は見逃さなかった。
圧倒的なチカラの差を見せつけた15スイングの中で、一度だけ喫した空振り。 かつては将来を嘱望された男の目に浮かんだ一瞬の驚きと焦燥。 そして――
「むかし……自分が野球を始めた頃ですから二十年以上前の話ですが――」
荒井が笑みを浮かべたまま話し出した。
「オヤジに連れられて初めてプロ野球の試合を見に行きましてね。 そこであるピッチャーを見たんです。 感動しました、あまりのボールの速さに。 相手チームだったんですけど……応援してたチームが完封されてオヤジがボヤいてましてね」
荒井は苦笑いを浮かべ、ある投手の名前を口にした。
「そのときオヤジと約束したんです。 いつか俺がアイツのボールを打ってやるって。 まあ、その約束の為に野球を続けてきたようなものなんです」
対戦は叶いませんでしたが、ね。
彼はそう言うと、はにかんだような笑みを浮かべて俯いた。
「実は、さっきの打席でそんなことを思い出しました。 きっと……いいピッチャーになりますよ、彼は」
荒井は小さく息を吐いた。
「まだまだこれから、だがね」
斎藤は呟いた。
「ええ。 とてつもなく未完成、といったところですね。 ……末恐ろしいですよ」
荒井がそう言って天を仰ぐと、斎藤は満足そうに頷いた。
「とにかく、自分としても楽しみが増えました。 さっきアタマを過ぎったことがあったんです。 いつか彼に抑え込まれる日がくるんだろうなって」
荒井はそう言って口許を弛め、左手で軽く膝をさすった。
「もちろんその為には自分が復帰することが大前提なんですけどね。 意欲がさらに湧いてきましたよ。 まだ終わるワケにはいかないな、と」
彼の口許には相変わらず笑みが浮かんでいたが、目に湛えた光は勝負の世界に生きる男のそれだった。
「監督――」
帰り際、荒井が斎藤を振り返った。
「彼にあったら伝えてほしいんですが」
荒井が向き直ると、斎藤は小さく頷き、言葉を促した。
「今度はスタジアムで会おう、と」
荒井はそう言うと、もう一度深く頭を下げ、足早に練習場をあとにした。
***
――ビシィィッ!!
「OK! ナイスボール! どうしたんだよ、今日はまた」
キャッチャーの大久保が驚きの声を上げると、杉浦はマウンドで満面の笑みを浮かべていた。
あれから二日経った今日、杉浦は何事もなかったかのように京葉工科大を訪れていた。
挨拶に来た杉浦に、斎藤は荒井から預かったメッセージを伝えた。 「――だってさ。 キミはどう応えるんだ?」。
「次ぎ〜、アウトコース低めに行きますよっ!!」
杉浦の声がブルペンに響く。 その声に大久保が慌ててミットを構える。
「まったく……単純なヤツだ」
斎藤はマウンドで躍動する、孫に近い年齢の少年の姿に目を細めた。