【030】 髭の男
昨夜、京葉工科大学の斎藤さんから電話があった。 いつも室内練習場を借りてる大学の監督だ。
「……はあ、わかりました。……はあ……じゃあ、正門のところで……はあ、お願いします……」
斎藤さんは一方的に用件を告げると、受話器を置いた。
練習場を借りるときは、いつも自転車で行ってるのだが、明日はちょっと早く来てもらいたいので学校まで迎えに行くというのだが……なんでだろ?
「ナンなの、アンタの受け応えは! 男のクセにまったく覇気のない――」
受話器を置いた僕の背中に、母の小言が浴びせられた。 が、いつものことだから気にしない。
僕は母を無視して冷蔵庫からポカリを一本掴み出すと、そそくさと自分の部屋に戻った。
***
「やっぱすげえよな? だって成京のレギュラーだぞ? しかも神宮大会優勝だぞ?」
亮は一昨日の試合の興奮が醒めやらぬ様子で、もう二日くらい同じ台詞を繰り返している。 岡崎もいい加減うんざりといった表情だ。
確かに試合後は僕らも興奮していた。
応援している高校が優勝する瞬間を見たってだけでも大騒ぎだったのに、そのチームの中心には僕らの先輩がいて、しかも大活躍っていうんだから興奮しないわけがない。 しかし――
独りだけおかしなテンションで盛り上がっている奴を見てると周りは冷めてしまう……ちょっと退いてしまうというか。 僕らは早々に素に戻ってしまったのだ。
十一月に入っても僕らの朝練は続いていた。 誰もヤメるって言い出さないからこうしていまだに続いている。
亮を三塁手として育てる為にスタートした朝練だったが、その亮もいまでは三塁手を諦め、右翼手にコンバートされていた。
もともと足と肩のある選手だし、若干不安の残るまま三塁を守らせておくよりよっぽどいい。 奴の思い切りのいいバッティングを活かすには、きっとベストな配置転換だったと思う。
そして秋以降、岡崎が主将になったこともあって、朝練を仕切るのも奴の仕事になった。
岡崎が組む練習メニューにはムダがない。 非常に効率のいい練習だった。 やっぱりこういったものもセンスの一つなんだろうか……?
***
「なあ。 今日アキモトに行くんだけど、付き合ってくんない?」
昼休み、机に突っ伏していた僕に向かって亮が呟いた。
アキモトってのはよく行くスポーツショップだ。
ちょうど僕も買いたいものがあったのだが――今日は斎藤さんが迎えに来るんだった。
「悪いな。 今日は用事があんだよ」
僕は顔を上げ、言った。
「また京葉工科大?」
「ああ」
僕は机に肘を突いて、亮を見上げるようにして言った。
「あんな遠くに行ってナンの練習やってんの? 大学じゃないとできない特別な練習なのか?」
亮が片眉をつり上げ、言った。
いわれてみれば、確かにそこでしかできない練習っていうものはない。
強いて言えばビデオがあって、フォームのチェックがマメにできるってことぐらいか? それとスピードガン……。
ふと、二つの顔が脳裏を過ぎった。
「まあ、どんな練習をやってるかは内緒だが……天才投手育成プログラムのひとつってトコ――」
僕はふざけて言ったが、亮は最後まで聞かずに立ち去ってしまった。 意外と気の短い奴だ。
実際のトコロ、僕としてもあそこでの練習がどこまで意味があるのかは判らなかった。 自転車で往復するだけでも結構かったるいと思うことがあるし。
ただ、ひとついえるのは『あの場所』を僕は気に入ってる。 それだけは間違いなかった。
***
放課後、僕が正門に辿り着いたときには、すでに斎藤さんのクルマはそこにあった。
黒塗りのセダンは、窓ガラスを黒いフィルムで覆われて中の様子は窺えない。 国産車だと思うが何て言うクルマなのかはよく判らない。 ただ見た目がイカツイということは疑いようがない。
僕が歩み寄ると助手席ガラスが下がり、斎藤さんが顔を出した。 斎藤さんは親指で後ろの座席を指し、それに促されるまま、僕は後部座席のドアを開いた。 運転席にいたのはマネージャーの大久保さんだった。
後部座席に乗り込んだ僕は、車が走り出すより先に口を開いた。
「ちょっと早めって……ナンかあるんですか?」
「ああ、客人が来ててね」
斎藤さんは運転手に出発を促すと、バックミラーに映る僕に言った。
「シートバッティングのピッチャーを探してたんだが……杉浦くん、キミ投げてくれよ?」
「え?! 僕ですか?」
僕は自分を指さし、声を上げた。
斎藤さんは笑みを浮かべたまま、ミラーに向かって頷いた。
バッティングピッチャー、か。
まあ、いつもはブルペンでただ投げてるだけだから、たまにはバッターがいてくれた方が雰囲気があっていいのかもしれない。 普段はチームの練習でもフリーバッティングで投げることもあったし。 しかし今向かっているのは大学。 てことはつまり……。
「キャクジンって大学生ですか?」
僕はミラー越しに尋ねた。
しかし笑顔の斎藤さんはあからさまに僕から目を逸らした。 聞こえないふりをして、わざとらしくラジオのボリュームを上げたりして。 ちっジジイめ……ナニか企んでるな。
大学には二十分ほどで到着した。
いつも自転車で一時間くらいかけて通っている僕としては、いつも迎えに来てくれたらいいのに、と正直思う。
「じゃ、着替えたらいつも通りブルペンで準備しててな。 あとは大久保の指示に従って……」
斎藤さんはそう言って更衣室に向かう僕を見送った。
室内練習場にはジャージを着た大男がランニングをしているのが見えた。
遠目でハッキリとは判らないが、口の周りに髭をたくわえているように見える。 もちろん僕の知らない人だ。
「大久保さん。 キャクジンってあの人ですか?」
彼はグラウンドに目を向け、一度だけ頷いた。
「大学生……じゃないですよね? ナニモノですか?」
続けて尋ねたが、大久保さんは応えてくれなかった。
曖昧に首を傾げ、妙な笑みを浮かべたまま僕から目を背けた。 さっきの斎藤さんと同じように……。
***
――バシィィ!!
「OK! ナイスボール! もういっちょ同じコース!」
キャッチャーを努めてくれている大久保さんは、僕を持ち上げるように大声を張り上げていた。 しかし――
僕は気分が乗り切れていなかった。 ずっとイヤな予感がしていた。
ハッキリとは言えないが、何かに嵌められたような気がしている。 いいようのない胸騒ぎというか……。
「そろそろ。 いいか?」
ブルペンに顔を出した斎藤さんの表情は、いつになく険しいものだった。
僕は緊張で身を固くした。
グラウンドに足を踏み入れる。
ホームベース付近には、斎藤さんの他にココの大学生ピッチャーが三人立っている。 そしてヒゲヅラが……。
“でかいヒトだな”
僕はヒゲヅラを上目遣いで、気付かれないように観察していた。――ん?
ふと何処かで会ったことがあるような気がした。
妙な懐かしさのようなものを感じる。 どこかで会ったっけ……?
そう思った刹那、ヒゲヅラと目が合う――
「え。」
僕は声を失った。
頭のてっぺんから爪先まで全身に緊張が走り、肌が粟立った。
視界が急に狭くなった気がする。
ちょっと動悸が激しい……やばいくらいに。
斎藤さんがこっちを向いて何か言っているが、もう声も耳には入らなかった。
ナンで気付かなかったんだ?
髭なんか生やしてるから正面に立つまで本当に、まったく気付かなかった。
つうか、ナンでこんなトコロにいるんだ――――
「――よろしく。」 突然、ヒゲヅラが右手を突き出してきた。
大きくて、ごつごつとした手……僕は俯いたまま、その手を握り返した。
決して顔を上げることはできなかった。 目を合わせることなんてとてもじゃないがムリ。
僕が追いかけていたライバル。 見失いかけていた夢……。
ヒゲヅラの正体は、元プロ野球選手・荒井英至だった。