【029】 挑戦状
その日、潮見のグラウンドに着くと、ベンチ前にちょっとした人集りができていた。
僕が近づくと人集りが崩れ、輪の中心にいた人が顔を上げた。
迎えてくれた懐かしい顔……そこにいたのは成京学館に進んだ榎田さんだった。
「元気でやってるか?」
「はい! いっつも峰岸さんに虐められてますけど……なんとかやってます」
僕は峰岸さんの方を窺いながら舌を出して言った。
「ははは、そうか。 連覇を逃して落ち込んでるんじゃないかって心配してたんだけどな」
まったく変わってなかった。
一年ぶりに会う榎田さんは、相変わらず優しい人だった。
榎田さんは夏の東東京大会、ベンチ入りメンバーからは外れていた。
しかし新チームでは一番・セカンドのポジションを掴んで秋の都大会で優勝、神宮大会出場を決めていた。 来春のセンバツ出場もほぼ確定しているといってよかった。
「――久しぶりにキャッチボールでもしようぜ」
榎田さんは小振りなグラブを掴んで立ち上がると、僕に向かってボールを放り投げてきた。
塁間くらいからはじめて、徐々に距離を広げていく。
芝の切れ目に掛かったあたりで、僕は足を止めた。
「いつ以来だっけな?」
「さあ……。 多分、去年の春頃ですよね」
キャッチボールをしながら榎田さんが尋ねてきたが、僕もハッキリとはおぼえていなかった。
榎田さんの投げるボールは相変わらずきれいな球筋だった。
中学入学直後の僕は、榎田さんのボールに憧れていた。
ピンッと糸を張りつめたようにきれいな球筋はとても肩を痛めている人の投げられるボールだとは思えなかったし……待てよ? つうかホントに痛めてたんだよな……?
「おいおい。 気にしないでどんどん下がっていいぞ!」
榎田さんは苦笑いを浮かべて言った。
声に促された僕も苦笑いを浮かべた。 そして再び少しずつ距離を広げはじめた。
***
「まったく……またタマ速くなりやがったな。 手が痛てえよ」
キャッチボールが終わると、榎田さんはグラブを外し、大げさな仕草で手を振り、顔を顰めた。
そうですか?
僕が惚けた顔をすると、手にしていたグラブで僕のハラを突いてきた。
「そういや、進路は決めたのか?」
「え……。 いや、まだですけど……?」
僕がそう応えると、残念そうに「ふ〜ん」と呟いた。
そういえば僕が初めて榎田さんに会ったときには、既に榎田さんの進路は決まっていると聞いていた。 おそらくその頃には藤堂さんも決まってたハズ……。
「榎田さんが決めたのって……いつ頃ですか?」
「最終的に決めたのは去年の二月だったかな。 でもいまくらいの時期には二つに絞り込んでたよ。 地元の学校に進みたいって思ってたから両方とも『東東京』だけどな」
榎田さんは顔の前で二本指を立て、そう言った。
「お前も早めに決めておいた方がいいかもしれないぞ。 来年の今ごろになったらこんな騒ぎじゃ済まないだろうからな、藤堂んときみたいにさ」
去年の秋ごろ……確かに藤堂さんの進路を巡っては私学の争奪戦が激しかった記憶がある。
全国大会終了後には、スカウトを名乗る人たちがグラウンドに大挙して訪れ、練習に支障をきたすこともあったくらいだった。 まあ藤堂さんみたいなケースはあんまりないよな。
「最終的に成京に決めた理由って、ナンだったんですか?」
「理由かあ。 ハッキリしたものはないけど、家から割と近いってことと、野手として高く評価してくれたってことかな?」
榎田さんはグラブの型を気にしながら、時おり捕球の動作を反復していた。
高校進学と同時に内野手にコンバートした榎田さん。
もともと天才肌で器用な人でもあったからドコでもそつなくこなせるのだろうけど……肩を痛めたとはいっても、いまだにあれだけのボールが投げられるコノヒトが、なぜピッチャーをやらないんだろう? 僕は不思議に思った。
「あのぅ、ヘンなこと聞きますけど……ピッチャーを、ですね? もうちょっとやってみようとか……なんていうか、そういう……」
「ないよ」
榎田さんは真顔で僕を見据えてそう答えたが、すぐに頬を弛めて言葉を続けた。
「俺も山路さんに指導を受けてた時期があったんだ。 前のチームにいた頃で、肩を痛めるよりずっと前だけどな」
意外だった。 ここにも僕のセンパイがいた。 尤も榎田さんは本当にお世話になった先輩にはちがいないけど。
「その頃に、お前はピッチャーに向いてないってハッキリ言われたんだ。 ピッチャーに一番必要な資質、責任感がないってな。 結構ショックだったんだぞ、その日は。 藤堂に電話して、話しながら思わず泣いちまったくらいだからな」
「へえ……」
僕は間抜けな相槌を打った。
他に何と言ったらいいのか、ちょっと判らなかったし。
榎田さんはそんな僕の様子を楽しむように口許を弛め、言葉を続けた。
「まあ、あの頃の俺はちょっとテングになっててさ。 負けても野手のせいにしたり、エラーでもしようモンならマウンド蹴り上げてふて腐れて……最低だったよ、いま思うと」
僕にはちょっと想像ができなかった。
どこまでもクールで、感情をあらわにすることなどなかった榎田さんの違う一面。 僕が出会う前の榎田さんの別の顔。
「だけど中学最後の夏、山路さんの言ってたことが少し判ったんだ。 『一度マウンドに上がったら試合中に起こることの全てに責任を持つ義務がある』ってことに。 皮肉だよな? 肩を痛めてピッチャーを断念しようと決めたあとに気付くなんて、な?」
榎田さんは呆れたような笑みを浮かべ、大きく息を吐いた。
「でも……まだ、間に合うんじゃないですか。 肩も……もう大丈夫なんですよね?」
僕は言葉を選ぶようにして言った。
しかし榎田さんは笑みを浮かべたまま首を横に振った。
「まあ、確かに肩はなんともないな。 でも……埋められない才能の差ってのを目の当たりにしちまったからな、いいタイミングで」
榎田さんは意味ありげに笑った。
「俺はいい球は投げられるけど、凄い球は投げられない。 結構その差は大きいと思ったな。 それに俺は今のポジションに満足してる、ていうかようやく手応えを感じてきている」
今度はバットスイングをするマネをした。
「ところで……お前、成京に来ない?」
僕は榎田さんの目を覗き込んだが真意は読めなかった。
「ウチは悪くないぞ? 野球をやるには環境もいいし、全寮だけど割と自由だし、設備も揃ってるし、先輩後輩の仲もいいし、プロや大学とのパイプも太いし、監督はいい人だし……」
真顔で話しているが、途中からは完全に棒読み……言わされてる感がありありだ。
「……というわけで、ウチの監督は是非ともナニがナンでもお前に来て欲しいそうだ。 そのお陰で今日、俺は休みをいただき、こうして懐かしいこの場所に……って止めろよ! いつまで喋らせんだよ!」
榎田さんは突然表情を崩し、ニヤニヤして聞いていた僕にヘッドロックを仕掛けてきた。
「――とはいったもののお前はウチに来る気はないだろ? ホントは決まってんだよな。 とっくの昔に」
判ってたよ。 榎田さんはヘッドロックを解きながら、小さな声で言った。
僕は曖昧に誤魔化した。
決まってるっていうほどハッキリしたものではなかったし、自分でもどうするべきなのかよく判っていなかったし……つうか、いつから気付いてたんだろ? コノヒトは。
榎田さんはそんな僕を見て言った。
「まあ、それはそれとして……再来週の日曜、試合見に来いよ。 神宮でやるからさ」
再来週の日曜日といえば神宮大会の決勝の日。 まだ大会が始まってもいないっていうのに……相変わらず凄い自信だよな。
「……まあ、それが俺からの挑戦状ってカンジかな?」
榎田さんは静かに微笑んでいた。
***
約束の日曜日――
神宮球場で目にした先輩の姿はとても眩しかった。
全国の地区大会を優勝した学校が集まるこの大会、つまり全国大会の決勝戦。
この試合で一番目立っているのは間違いなく僕らの先輩だった。
同じチームで一緒に野球をしていた先輩がいま、全国でも屈指の強豪校・成京学館のリードオフマンとして躍動している。
それは、いままで遠くに感じていた高校野球を、少し現実感のあるものに近づけてくれたようだった。
いつか……そう遠くない将来、僕もあのグラウンドに立つのだろうか。
誇らしげな先輩の姿に自分の姿を重ね合わせ、僕はそっと背筋を震わせた。