【002】 僕のいた世界
翌日の休み時間、自分の席で漫画を読んでいた僕のところに、背の高い坊主頭がやってきた。藤堂亮だった。
「よお。昨日、ウチの兄ちゃんと会っただろ」
「会ったかもな」
僕は漫画に視線を落としたまま、なんの感情も込めずに呟いた。
「で、どうだった」
「なにがよ?」
僕は敢えて亮の話に興味がないという素振りをした。実際なんの興味もなかったんだけど。
「いや、ナニがって、野球の話しかねえだろ?」
亮は僕の前の席に座って、反対側から漫画を覗き込んできた……邪魔だ。とても読みにくい。僕はため息を吐いた。
“兄弟そろって同じようなマネしやがって”
僕は徹底的に無視を決め込むことにした。
「なあ。一緒に野球やろうぜ」
亮は僕のそんな気持ちなどどうでもいいらしく、延々と喋り続けている。
こうなったら根くらべだ。僕は漫画を読むことに集中……しようとしたが、うるさくて集中できねえじゃねえかよ。
何かを説明してくれているみたいだが、僕は興味がなかった。
“いいかげん黙ってくれねえかな”
亮は相変わらず喋り続けている。
「なんとか協力してくれよ。なんせ新しいチームだからよ――」
「は? 新しいチームって?」
僕がつい顔を上げると亮は嬉しそうに頷いた。
つまり藤堂の兄貴たちは今までいたチームを離れ、新チームを立ち上げたらしい。同じ硬式でもリーグが違うとか……そのへんはよく分からないけど、セリーグとパリーグみたいなもんかな……多分違うだろうな。
「というわけで一年生中心のチームになるんだよ。だからお前みたいなヤツでも必要なんだよ」
「ちょっと待て。でもってなに?」
つくづく失礼なヤツだ。
「いや。言い方が悪かったけど、ピッチャーは何人いてもいいって――」
「いやいや、だからちょっと待て。俺が誰だかわかってんの?」
「もちろん。投げてるのも見たことあるしよ」
亮はなにかを勘違いしてるらしい。仮にも僕は昨年の江東区の少年野球リーグの『選抜チーム』のエースとして都大会にも出場しているのだ。
「お前にゃ悪いけど、あのくらいの球を投げるヤツは珍しくねえよ。ウチのリーグにはもっと速いヤツがいくらでもいるし」
お前のいた世界は狭いんだよ。亮の言葉にどこか僕を哀れむような含みを感じた。
結局、僕は亮の挑発というか口車にのせられて練習を見に行くことになった。亮が言ってた言葉が気になった、ってのもあるんだけど。
***
次の土曜日、僕は亮に連れられて亀戸にあるグラウンドにやってきた。ヤツの指示通り、ユニホームに着替えて。
到着したころには、既に練習が始まっていた。
思ったより人数が多い。四、五十人はいるかな。
僕はグラウンドに目を向けたまま、一塁ベンチから少し離れたファールゾーンの芝生の上に持っていたバッグを下ろした。
“暖けえな”
僕は空を見上げた。二月だって言うのに今日はなんだか暖かい。こんな日に芝生の上で座ってたら寝ちまうかもしれないな。
「おお。きてたのか」
聞き覚えのある声に振り返ると、亮の兄貴が歩いてくるところだった。見知らぬ大人も一緒だ。……二人とも不気味な笑みを浮かべている。
「いま来たところだよ」
そう答えた亮の陰に隠れるように僕は半歩さがって俯いた。このあいだ逃げるように(実際に逃げるつもりだったのだが)帰ってきてしまったから、なんとなくバツが悪い。
「よく来てくれたな、杉浦」
僕は様子を窺うように顔を上げた。
藤堂さんは笑みを浮かべ、僕に向かって右手を伸ばしていた。僕は自然にその手を握り返していた。
「よろしくな」 藤堂さんの声に、僕はアタマを下げるのが精一杯だった。
「――藤堂」
一緒にいた大人に呼ばれ、藤堂さんが慌てたように振り返った。
「あ。すいません。コイツが前に言ってた――」
「杉浦くんか?」
この見知らぬ大人は僕のことを知っているようだった。新しくできるチームの監督だと言った。
「峰岸だ。よろしくな」
「はあ。……よろしく、です」
僕は少し戸惑いを感じていた。あくまでもただ『見に来ただけ』なのだ。よろしくと言われても……弾みでよろしくって応えちゃったけど。
「……意外と……人数多いんですね」
僕はなにか喋らなきゃいけなような気がして、無難な質問をぶつけてみた。峰岸さんは笑みがこびり付いたような顔で僕を見返すと、訥々と話をしてくれた。
峰岸さんの話によると、今日は別のチームとの合同練習なんだそうだ。新しくできるチームの名前は『江東球友クラブ』。いまのところメンバーは藤堂兄弟と、もう一人の三年生の榎田さんという人、あとは一年生が何人か、といった具合。つまり目の前でいま『高度な連係プレー』を見せている選手たちは違うチームの人たちってことのようだ。
「じゃ、ゆっくり見ていってくれ。あとで打たしてやるから」
峰岸さんはそういってバットスイングするような仕草をすると、藤堂さんと一緒にいってしまった。
「峰岸さんはさあ、ああ見えても去年の全国大会の準優勝監督なんだぜ。その時のエースだったのが榎田さんで、三番打ってたのがウチの兄ちゃん。まあ、今度はリーグが違うけどな」
亮は時折ハナの穴を膨らませながら、興奮気味に喋り続けた。
「そんであっちにいるのは俺らと同じで今度入る奴ら」
亮は三塁側のベンチの方を指さした。
「なあ、ちょっと待て。俺、入るなんてヒトコトも言ってないからな」
亮は僕のそんな指摘も耳に入らないようで、話を続けている。
「――で、あの一番右にいるのが岡崎。アイツが去年リトルの全国大会で優勝したチームのキャプテンだったヤツ」
「岡崎ぃ?」 僕は三塁側ベンチの方を覗き込んだ。
「なんだ。知ってるのか」
「まあな。ふ〜ん、アイツが岡崎なんだ」
なんか生意気そうなヤツだ。
僕はそいつの名前だけは知っていた。僕のいたチームの監督から聞いたことがある。僕と同い年でスゴイヤツがいると。「アレは小学生レベルの投手じゃ抑えるのはムリだな」とどっかの監督と話していたのも。
「でも、アイツんちってこの辺じゃないだろ?」
調布だか国立だか、その辺のチームだったと聞いたような気がする。
「引越してきたらしいよ。いまは北砂っていってたかな?」
ウチの割と近くだ。ちなみにウチは南砂。
「そうだ。お前、アイツも知ってるだろ。あの左から……五番目くらいにいる小さいヤツ。帽子を逆に被ってる」
亮が指さす方を見ると、ソコにいたのはどこかで見たことあるような顔のヤツだった。絶対に会ったことがあるはずだが思い出せない。
「え。知ってるだろ? 安藤っていうんだけど――」
「アンドウ?! 東陽の?」
安藤龍二。アイツのいるチームとは何度か試合をしたことがあった。東陽のチームでショートを守っていた。小さいけど、メチャクチャ守備の上手いヤツ。だけど五年生になったころから姿を見かけなくなった。だからもう野球なんてやってないんだと思っていた。
「安藤はさ、五年のときに俺がいたチームに入ってきたんだ。そのときに言ってたよ、お前のことも」
やたら球の速いヤツがいた、ってな。亮は意味ありげな笑みを浮かべた。
「俺らも向こうにいこうぜ。二人でココにいたってしょうがねえじゃん」
そう言って亮が立ち上がると、それに気付いたように安藤が僕らに向かって手招きをした。
“岡崎と安藤が入るんだ……ふん。思ったよりマトモそうじゃん”
僕は亮の背中を追いかけながら、不思議と頬が弛んだ。
“アイツらをバックに投げるってのは悪くないかもな”
僕の勝手な妄想はどこまでも広がっていった。