【025】 僕らを包む歓声
僕は一塁を駆け抜けたところで立ち止まり、ヘルメットに手を掛けた。
歓声が聞こえていた。 まるで地鳴りのような球場の歓声はやがて、どこか安堵を含んだような溜息に変わっていった。
「ドンマイ。 気にすんな!」
一塁コーチャーの桑原は、僕の手からヘルメットを取り上げると笑顔でそう言った。
一回のオモテ、一死満塁。
先制の絶好のチャンスに回ってきた僕の第一打席。
ワンストライクツーボールからの四球目、インコース寄りのボール(シュート系のボールだったのかもしれない)を叩いた僕の打球は、力無くピッチャー前に転がり、一−二−三と渡った。 最悪のホームゲッツー。
江東球友クラブは絶好の先制機を逃してしまった。
***
その裏のマウンド。
自らの凡打で先制のチャンスを潰してしまった僕にとって、絶対に抑えなければならない大事なイニングだ。
「切り替えていけよ。 ……ま、大丈夫そうだな」
投球練習を終えてマウンドにやってきた吉村が、僕の顔を一瞥しマスク越しに呟いた。
「大丈夫じゃねえよ。 マジで泣きそう――」
「嘘付け!」
吉村は僕の言葉を遮り、ミットで僕の胸を軽く小突いた。
そのまま僕に背を向けると、小走りでホームに戻っていた。
大事な立ち上がりのピッチング。
打席には、既に一番打者が入っていた。
小柄な左バッター、スコアブックには『大浜』と書いてあった……と思う。 昨日、山本を呼びに来たうちの一人だった。
球審が手を挙げ、「プレー」をコールした。
吉村はアウトコースを要求している。
僕は小さく頷き、ゆっくりと振りかぶった。 そして、吉村のミットを見据え、チカラを込めて投げ込んだ。
――バシィ!!
ミットを叩く乾いた音がグラウンドに響く。 少し遅れてスタンドがどよめく。
初球のストレートは低めに外れた。
僕はマウンドから二、三歩おりて吉村からの返球を受け取ると、グラブをハズしてボールを両手で捏ねながら野手の顔を見渡す。
「俺んトコに打たせろや」 岡崎が能天気な声を上げ、グラブを掲げた。
僕は鼻で笑い、吉村に視線を戻す。
ミットは初球と同じトコロにあった。
僕は頷き、ゆっくりと投球モーションに入った。
――バシィ!!
二球目、今度はアウトコースを狙った球がインコースへ。
これも判定はボール。
吉村が返球のときにナニかを言った。 しかし歓声に掻き消されてよく聞き取れない。
ま、たいしたコトは言ってないと思うので適当に頷いてみせる。
立ち上がりがいいとは決して言えない僕。
コントロールがままならないことがあるのも、いつものことと言えばいつものこと。 高目に浮いてるわけじゃない分、今日はいつもよりマシなくらい…… 「だよな?」
僕はロージンを摘み上げ、小さく独り言を呟き、ゆっくりと深く息を吐いた。
結局この回は、先頭の大浜にはフルカウントまで粘られたものの、最後はアウトコース高目のストレートを振らせて三振。 二番打者も三振、そして三番打者はサードゴロ。
難なく三者凡退で切り抜けた。
***
二回のオモテ。
先頭の六番・吉村のレフトへのライナーは、背走したレフトの好守に阻まれた。
ベンチに戻ってきた吉村は、出迎えた僕らに向かって顔を顰めて見せたが、それほど悔しそうな感じではなかった。
この回もツーアウトから死球のランナーを一人出したものの、後続を断たれ無得点に終わった。
「当たりは良かったんだけどな」
ベンチにいた誰かが呟いた。
いい当たりが相手野手の正面をつく。 そんなことはよくあることだし、いちいち気にしてはいられない。
いま僕の頭の中にあったのは、とにかく点をやらないこと。 それから……南部球友会のエース・山本誠。 彼をマウンドに引きずり出すことだけだった。
二回の裏。
この回の先頭打者は、四番・レフトの嶌野。
右打席に入った嶌野は、その大柄な体つきに似合わず、構えは小さい。 打席に入る前のスイングを見た限りでは、振りまわすタイプの四番ではなさそうだ。
さっき好プレーを見せているだけに、乗せない為にもここは慎重に攻めたい。
初球、吉村が選択したのはアウトコースの球。 去年から使っている、やや外に逃げる球。
吉村は『外』を強調している。 慎重にという考えは、僕と吉村のあいだでも一致しているようだ。
僕は頷き、ゆっくりと投球モーションに入った。
――バシィィ!!
審判の右手が挙がる。
嶌野は悠然と見送った。 しかしコース的にはちょっと甘いボール……相変わらずアバウトなコントロールに、背中にちょっとだけイヤな汗が滲む。
腰を屈め、指先をロージンに伸ばす。
視界の端で、打席の嶌野がバットを握り直したのが見えた。
バッターに視線を戻すと、さっきまで左の掌に包まれるように隠れていたグリップエンドが姿を現している。 バットを短く持った嶌野の構えは、さっきより幾分コンパクトになったようにも感じる。
結局、嶌野にはツーストライクツーボールから、ファールで二球粘られたもののセカンドゴロに討ちとった。
続く五番、六番もともにショートゴロで三者凡退。 この回もランナーを許さなかった。
しかし、今大会の初戦から継続していた『毎回奪三振』が、三試合目にして途切れてしまった。
「合わされてるな」
ベンチに戻る僕に、吉村が駆け寄ってきていった。
「さすがに準決勝だしな。 そこそこのレベルなんじゃねえの?」
僕もそれには気付いていたが、敢えて軽い調子で応えた。
「いや、二巡目以降ならともかく、初めて見た奴が簡単に当てられるような球じゃねえよ。 杉浦の速球は」
吉村はそう言って眉を顰めた。
僕は少しだけ驚いた。
いつもは感情をオモテに出さない吉村が、ムキになって僕のボールを褒めてくれている。
「……サンキュ、な」 僕はスコアボードに目を向けたまま呟いた。
「え。 なに?」
呟いた僕の言葉は歓声に掻き消され、吉村の耳には届かなかったみたいだ。
三回のオモテ、江東球友クラブの攻撃は一番から始まる好打順だったが三者凡退に討ちとられた。
「この回から、チェンジアップ使っていくぞ」
吉村はマウンドに向かう僕の肩に手を乗せ、耳打ちした。
「はあ? ムリだろ? だってストライクなんて入んねえぞ?」
「いいんだよ。 目先を変えるだけ。 ストレートだけじゃないって思わせるだけだからよ」
だとしても無謀だ。
練習でもマトモに投げられない球が試合で使えるとは到底思えない。 しかもこんな競った展開。 峰岸さんだって絶対「うん」とは――
「大丈夫だって。 俺が絶対に止めてやるから。 それに、峰岸さんは了解済みだし」
ベンチに目を向けた。
峰岸さんは腕を組んだ姿勢のまま、にこやかに頷いている。
「……ったく。 ホントに知らねえからな」
僕はボールを見つめ、大きくため息を吐いた。
***
「ナイピー!」「OK!OK!」
一塁側ベンチでは、控えの選手が総出で、守備から戻った僕らを出迎えていた。
三回の裏、七番から始まった攻撃を、僕は三者連続三振に討ちとった。
この回のマウンドは、僕にとって戸惑いのマウンドでもあった。
しかし――戸惑いという点では相手打線にとっても大きかったようだ。 多分、僕が感じていた以上に。
ハッキリ言ってストライクゾーンに行ったボールはなかったと思う。 しかし相手打者は手を出してきた。 彼らの短く持ったバットが、『ワンバウンドするようなチェンジアップ』に面白いように空を切った。
しかもそれを見せることで、同時にストレートに対してはバットが出なくなった。
僕にとって唯一の武器である『速球』と、そこに新たに加わった『チェンジアップ』。
キレそのものがどの程度あるのか僕には判らなかったが、そのスピードの差は『緩急』という意味では絶大な威力を発揮してくれた。 相手打線は完全に沈黙してしまったのだ。
自分の投球の幅が広がる手応えに、僕は気持ちが高揚するのが抑えきれなくなっていた。
そして試合は四回のオモテに進んだ。
この回の攻撃は、四番の岡崎から。 そこから五番の僕、六番・吉村と続いていく。
マウンドにいる南部球友会の先発は、背番号10の橋本。
さっきまでブルペンにいたエースの山本は、いまはベンチにいる。 三塁側ベンチの最前列に腰を下ろしグラウンドに向かって声をかけていた。
「とにかく一点取ろうぜ、この回」
橋本の投球練習を見守っていた岡崎が呟いた。
立ち上がりの大ピンチを凌いだ橋本は、表情も幾分和らいできたようにも見える。
威圧感はまったくないものの、丹念にコースを突くピッチングでココまで無失点。
まあ、初回に一本出てればまた違った展開に……おそらくはソコで試合は決まってたのだろうけど。
「お前も続けよな」
打席に向かう岡崎は、そう言って右拳を突き出してきた。
「絶対、出塁るからよ」
「OK。 任せとけ」
僕もそれに右拳を合わせた。
右打席に入った岡崎は、いつものようにゆったりとバットを揺らしていた。
天性の長距離ヒッターでもある岡崎だったが、この打席はグリップをやや余し気味にしていた。
橋本がキャッチャーのサインに頷く。
そのまま小さく振りかぶった。
――カキィッ!!
初球を叩いた岡崎の打球が三塁線を破った。
やや左寄りに守っていたレフトが、打球に素早い対応を見せている。
岡崎は一塁を蹴って二塁へ向かう。
レフトの強肩・嶌野からダイレクトのボールが二塁に返ってくるが――
「セーフ!」 二塁塁審の手が広がった。
二塁でのクロスプレーは、スライディングした岡崎の脚がやや早かった。 僕は思わず拳を握りしめた。
ノーアウト二塁――。
二塁ベース上の岡崎は左手を腰に当てたまま、僕に向かって右拳を突き出した。
僕は小さく頷いた。 そしてベンチを窺う。
峰岸さんは素早く両手を動かしている。 僕は頭の中でそれらを反芻し、ヘルメットのツバに手を持って行った。
打席に入り、軸足の位置を決めるように右のスパイクで土を掻く。
さっきの打席での球筋を思い浮かべながら、横目で内野の守備位置を確認する。
二塁ランナーがいる分だけ、二遊間と三遊間は少し広めか。
バットのグリップを握り直し、ピッチャーに向き直る。 橋本の顔にはまだ動揺のいろは見られない。 ま、初回のピンチに比べたら……ってことかもしれない。
橋本はキャッチャーに向かって大きく頷くと、ぎこちない仕草でセットに入った。
そして二塁ランナーを目で牽制しながらモーションをおこした。 と同時に僕はバットを持ち替えた。
――パシィ
初球はアウトコースに外れた投球。 僕はバントの構えからバットを引いた。
打席をハズし、もう一度ベンチのサインを窺う。
峰岸さんはさっきと同じように両手を素早く動かしているが、今度の動きには特別な意味はなかった。
球審に促され、打席に戻る。
軸足の位置を決める振りをしながら、もう一度三塁手の位置を確認した。
初球のバントの構えに対し、三塁手の反応はワンテンポ遅れた感じだった。 二塁ランナーの動きが気になって三塁ベースから離れられないみたいだ。
それに橋本は牽制はあまり得意としていないのか、二塁にボールを送る気配はみせていない。
橋本はすでにセットに入っていた。
岡崎は挑発するように、また大きくリードを広げている。
橋本としてもやはり二塁ランナーは気になるようでジッと睨み続けてはいたが、こちらに目を戻すとクイック気味に投げ込んできた。
――コンッ
二球目のアウトコースの球、僕はそれを三塁方向に転がした。
“決まったろ?!”
あの位置と僕の足なら、充分いけるはず――
「Go! Go! Go!」「バカ! 止まるな!!」
一塁を全力で駆け抜けた僕に向かって、ベンチから罵声が浴びせられる。
気が付くとボールが一塁後方のファールゾーンを転々としていた。
バックアップの右翼手が迫っていたが、思い切って二塁へ向かう。
ワケもわからずに二塁に滑り込む、クロスプレー覚悟で……けど、ボールは来ない。 なんでだ?
「――アウト!!」
審判のコールに振り返ると、ホームベース上では、岡崎が俯せで倒れていた。
岡崎は顔を顰めて起きあがると、僕に向かって申し訳なさそうに手刀を切った。
僕は一連の流れをアタマの中で整理した。
おそらく僕のセーフティーバントは成功した。 ライン際に転がった打球は、相手の守備(おそらく三塁手だが)の送球ミスを誘い、僕は二塁へ。 二塁走者の岡崎もそれを見てホーム突入を図った。 しかしバックアップした右翼手の思わぬ好返球で刺された――だいたいそんなところだろう。
とにかく、アウトカウントは一つ増えたが、チャンスが潰えたわけじゃない。
二塁ランナーは俊足だし、六番の吉村は今日は振れている。 先制のチャンスは継続中だ。
「意外と器用なんだな、お前」
南部球友会の襲撃手・大浜が、二塁ベース上の僕に歩み寄ってきた。
大浜は人懐っこそうな笑みを浮かべていた。 その表情からは敵意がまったく感じられない。
「タマタマですよ」
僕は素っ気なくそう答えた。
大浜という選手は、近くで見ると本当に小柄な人だった。 打席に立っていたときよりも更に小さく感じる。
しかし声は大きい。
さっきのピンチの場面でも内野陣を引き締めるように、鼓舞するように大声を上げていた。
おそらくチームの精神的支柱ってところなんだろうが……。
「そういえば、エースはどうしたんですか?」
僕が気になっていたもう一人の精神的支柱、温存されたエースの存在。
しかしそれについてはナニも応えてくれなかった。
打席には六番・吉村が入っていた。
第一打席でいい当たりをされているだけに、バッテリーのサインの交換も慎重になっているようだ。
やがて、サインを窺っていた橋本がセットに入ると、僕は外野の位置を確認し、大きく塁から離れた。
橋本は僕を眼で牽制しながら投球モーションに入った。
――パシィ
初球、アウトコースのカーブが低めいっぱいに決まる。 吉村は手を出さなかった。
キャッチャーは満足そうに何度も頷き、チカラのこもったボールを橋本に返した。
ボールを受け取った橋本は、早いテンポでセットに入った。
そして、この試合初めての二塁へ牽制球を挟んで、二球目、三球目ともにカーブを投じてきた。
これでボールカウントはワンストライクツーボール。
キャッチャーのサインを窺っていた橋本が二度、小さく首を振った。
吉村は第一打席ではストレートを叩いている。
当然この打席では変化球中心となることは予想していたが、ここまでの三球は全てカーブ。
カーブで追い込むつもりだったんだろうってことは容易に想像できるが……。
ここで橋本はプレートをハズした。
キャッチャーがタイムをかけてマウンドに走り寄ると、内野手もマウンドに集まった。 と同時に、ベンチにいた山本がブルペンに走る姿が目に入った。
僕は二塁ベース上に立ちスタンドを見渡した。
準決勝と言うこともあり、昨日よりも観客の数は多いように思える。
バックネット裏の最前列には、去年と同じように揃いの帽子とポロシャツを着たおじさん達が陣取っている。
それ以外にもユニホーム姿の奴らが何人かいる。 その中に見覚えのあるユニホームと顔を見つけた。
既に決勝進出を決めていた川内霧島クラブのエース・用田誠の姿だった。
やがて内野手が守備位置に散った。
プレー再開。
橋本はセットポジションに入った。
キャッチャーはインコース低めに構えている。
橋本はコチラを横目で見ながら、ゆっくりと足を上げた。
――パシィ!
四球目。
バッテリーが選択したのはストレートだった。 インコース低めいっぱいに決まってツーストライク。
キャッチャーは嬉しそうに何度も頷いている。
逆に吉村は一旦打席をハズし、悔しそうな表情で一度スイングをした。
ツーストライクツーボール。
追い込んだ橋本はキャッチャーのサインを覗き込み、セットに入った。
そしてゆっくりとしたモーションから、五球目を投げ込んだ。
――カッキィッ!!
アウトコースのボールを叩いた打球がライトに上がった。
捕球体勢に入った右翼手は、定位置からやや後ろに下がったライン寄り……イケるか? ギリギリで。
“イチかバチかなら、行くべきだろ?”
僕は迷いを振り切り、ハーフウェーから二塁に戻った。 そして深く重心を落として、耳を澄ませた――
「GO!!」
コーチャーの声に反応し、タッチアップからスタートを切った――。
***
歓声が響き渡るなか、三塁ベース上で、僕は天を仰いでいた。
三塁コーチャーが僕からヘルメットを取り上げ、慰めるように無言で背中を叩いた。
僕の判断は間違ってはいなかったと思う。
スタートも悪くなかった。
ただ右翼手からの送球が抜群だったってこと。
そして……僕はイチかバチかの賭けに出て、見事に負けてしまった、というだけのこと。
立ちつくす僕の横を、三塁ベンチに戻る南部球友会ナインが『ガッツポーズ』で通り過ぎていく。
〇対〇のままなのに、まるで勝ったかのような騒ぎ……つまり、今のプレーの重要度を物語っている、ともいえるけど。
「ま、お前らにとっちゃ準決勝で負けるわけにはいかないんだろうけど――」
一人の選手がすれ違いざまに僕に向かって呟いた。
「え?」
振り返ると、そこに立っていたのは遊撃手の大浜だった。
「負けられない理由なら、コッチにもあるんだよ」
そう言った彼の横顔からは、なんの感情も窺うことができなかった。
グラウンドには歓声が鳴りやむこともなく降り注いでいた。
僕らを包む歓声。
そこにはナニかの『期待感』が含まれているようで、僕の背筋を固くさせた。