【022】 scouting report06 夢をみる資格
午後から降り始めた雨も、いまでは小降りになっている。
近藤と名嘉村が赤坂で合流したのは、午後八時を少し回ったところだった。
六本木通りから外れた奥まった路地にある天麩羅屋。
十人ほどが座ったら一杯になってしまいそうな、カウンター席だけのこぢんまりとした店内には、客は近藤たちの他に一組の老夫婦がいるだけだった。
カウンターのなかでは、ゴマ塩頭の寡黙そうなご主人が黙々と仕込みを行っている。
女将に促されてカウンター席に着くと、名嘉村は慣れた手つきで、日本酒を二合オーダーした。
「珍しいスね。 居酒屋以外って記憶にないな」
近藤はおしぼりに手を伸ばし、老夫婦の目を気にしながら顔を拭った。
「無性に天麩羅が食いたくなったんだよ」
「で、わざわざ東京まで?」
近藤は疑わしげな目を向けたが名嘉村は視線を逸らし、運ばれてきたばかりのグラスを二つ並べて酒を注いだ。
まったく素直じゃない人だな……近藤は名将と呼ばれる男の横顔を見ながら思った。
名嘉村は年に何度か東京にやってきていた。 その度にこうやって、近藤と酒を酌み交わしながらお互いの近況を報告し合う。
つい先月、五月終わり頃にも上京してきていた。
羽曳野学園定例となっている東京遠征。
東京や神奈川、埼玉などの強豪私学との練習試合。 なかには甲子園でも滅多に見られないような豪華な顔合わせもあり、近藤も毎年楽しみにしているが、今年は近藤の都合がつかずに試合会場に足を運ぶこともなく、『会合』も開かれずじまい。 試合の結果はまだ聞かされていなかった。
「今年は何試合やったんです?」
「四試合。 明桜と東旺と……ホントは成京ともやりたかったんだけどな。 今年は日程が合わなかったよ」
名嘉村はそう言ってグラスに口を付けたが、それほど残念がっている表情ではなかった。
「へえ……。 で、どうだったんですか?」
「三勝一敗。 明桜とのダブルヘッダーの二つ目を落とした」
「へえ。 いいんスか……? 今年の明桜は」
「今年はいいね。 いいピッチャーがいたよ。 上背があって……なかなかいい球放ってたな。 冴島さんが言うには『久々の本格派』だってさ」
名嘉村は意味ありげに『久々〜』を強調したが、近藤はそれに気付かないふりをした。
「そういや聞いたことなかったけど、なんで辞めたのよ? 野球」
名嘉村は、カラになった近藤のグラスに冷酒を注いだ。
「え。 いや、辞めたくて辞めたわけじゃないっスよ。 辞めざるをえなかっただけです。 実力的に」
一応、プロを目指していた時期もあった。 ケッコウ本気で。
「そういう意味じゃなくてさ……どうして指導者の道を選ばなかったんだって訊いてるんだよ」
視界の端に映った名嘉村の顔は、茶化すような顔ではなかった。
近藤はかつてプロ野球選手を目指していた。
高校三年生時、一九〇センチの大型右腕として注目され、母校の当時の最高成績である西東京大会ベスト4入りに貢献した。
その年、母校の監督を務めていた就任一年目の監督は、近藤の才能を高く評価し、六大学で野球を続ける道を拓いてくれた。
その監督が後に母校を初の甲子園出場に導くことになる冴島だった。
明桜学園野球部出身の近藤にとって、当時の監督である冴島は色々な意味で頭の上がらない相手の一人だった。
「――指導者ね……考えたこともなかったっスよ」
近藤はそう言うと、グラスに残った酒を呷った。
カウンターに並んだ近藤たちの膳には、ご主人が揚げたばかりの海老が並んだ。
近藤は断然「天つゆ」派だったが、名嘉村の強い薦めもあり、「塩」で食す。
「……美味ぇ」
思わずこぼれた近藤の声に、カウンターの向こうのご主人が微かに頬を弛めた。
「ところで……見に行くんですよね?」
近藤は箸を置き、名嘉村のグラスに酒を注ぎたした。
名嘉村は何も答えずに、曖昧に首を傾げている。
図星だ。
夏の大会直前のこの時期に、監督がチームを離れるなんてことはあまり考えられない。
そうまでして、名嘉村がこの時期に東京にいる理由……スカウト活動以外にはない。 おそらく杉浦を見に来たのだ。
「今年も江東球友クラブですかね?」
近藤はあえてストレートに名前を出した。
すると名嘉村は、近藤が切り出すのを待っていたかのように、口の端に笑みを浮かべて話し出した。
「ああ、頭一つ抜けてる。 用田んトコもいいが、戦力的にはむしろ差が開いた気がするな」
「じゃ、二連覇はカタイですかね?」
「かもな。 実際、いいのが揃ってるよ。 打つ方ばかりが目立ってるが、投手力を含めた守備のレベルが非常に高い」
「ほう。 ようやく認めましたね、杉浦の潜在能――」
「チカラがあるのは去年から認めてるだろ?」
名嘉村は近藤の言葉を遮った。
「言っとくがな、俺が狙ってるのは吉村だ。 アイツは肩の強さはもちろんだが、キャッチングが非常に柔らかい。 これはもう天性のものとしか言いようがない。 確かに杉浦のボールは速い。 そして重い。 今年は幾分まとまってるようだが、去年は荒れ球でどうしようもなかった。 なのにバッテリーエラーはゼロ。 どういうことか判るよな? 杉浦の自由奔放なピッチングは、吉村というキャッチャーの存在抜きにはありえないんだよ」
その点については近藤も同感だった。
杉浦の中学生離れした快速球にあの荒れ球。 あれを難なく受け止められるキャッチャーはなかなかいない。
「それに引きかえ、用田はキャッチャーにはトコトン恵まれていない。 去年はまだしも今年のは話にもならん。 用田のスライダーにまったくついていけてないんだ。 練習試合を含めて何試合か見に行ってるが、今年はスライダーをほとんどと言って良いほど使ってない。 あれじゃあ枷をはめられてるようなもんだ」
名嘉村は溜息を吐くと、グラスに口を付けた。
「だから俺は用田に着いてるリミッターをハズしてやりたい。 持ってる力を出し惜しみさせることなく、思う存分、投げさせてやりたいんだ。 今の羽曳野に、用田と吉村のバッテリーが加われば、史上最強チームだって夢じゃなくなる」
「ほう、史上最強っスか。 ズイブン大きく出ましたねえ」
茶化すような笑みを浮かべた近藤を無視し、名嘉村は言葉を続けた。
「そこで頼みがあるんだが。 杉浦のデータを集めてくれないか? 今はそれほどでもないが、このまま成長すればウチにとって脅威にならないとも限らない。 対策を立てておくにこしたことはないだろ」
「なんか……らしくないっスね?」
近藤は不満そうな声を出した。
「まあな。 だが杉浦にはチカラがある。 それは認めざるを得ない。 それに……山路洋一って知ってるか?」
近藤は曖昧に首を傾げた。
山路洋一。 面識はなかったが、近藤も名前には聞き覚えがあった。 プロを何人か育てたという、アマチュア球界ではかなり有名な投手コーチだ。
「杉浦は山路の秘蔵っ子らしい。 あの男の最後の教え子にあたるっていうんだから……大化けする可能性は充分にある。 まあそれだけが理由じゃないが……」
名嘉村はナニかを言いかけたが、それっきり口を噤んだ。
***
会計を済ませて暖簾をくぐると、雨はすっかり上がっていた。
駅まで続く細い路地は、ところどころ大きな水たまりができている。
往きはタクシーだったので気にならなかったが、歩いてみると布地のシューズで来てしまったことを少し後悔する。
通りにでると、今までの静けさとは別世界のような日常が待っていた。 週末の金曜日ということもあり、交通量も歩いている人も多い。
信号待ちの列にカラダを紛れ込ませ、雨上がりの通りを眺めていたとき、名嘉村が呟いた。
「なあ、ウチでコーチやってみないか?」
「はあ? 俺っスか?」
近藤は確認するように、自分を指さした。
「ああ。 投手経験があって、自分のテツガクがあって、信用のおける奴……そう考えたら、近藤しかいなくってよ」
名嘉村はそう言って近藤の肩を叩いた。
コーチ……。
近藤としても野球に携わる道を完全に捨てたつもりではなかった。 スポーツライターを目指したのも、何らかのカタチで野球に関わりたいという気持ちが少なからず残っていたためだった。
そう言う意味では、名将と呼ばれる名嘉村の元で指導者としての経験を積むことは、自分にとってもマイナスにはならないように思える。
しかし近藤には迷いがあった――
学校や恩師の期待を一身に受けて進んだ大学では、まったく芽が出なかった。
近藤としても既に気付いていた。
高校三年の夏が終わった時にはもう燃え尽きてしまっていたこと、そしてこの先野球を続けていける余力なんてもう残ってないってことを。
しかし『野球のない生き方』というものがどうしても上手く描けなかった近藤は、自分を誤魔化しながら『夢』と付き合っていく道を選び、大学に進んだ。 尤もそれすら結果として二年と保たなかった。
リーグでの成績は一向に振るわず、肘を痛めたことも重なり、二年生の秋のリーグ戦を前に退部、そして同時に退学。
彼にとっての野球人生は、華やかだった高校時代から一転してひっそりと幕を下ろした。
彼が大学を辞めたあと、冴島が酷く落胆していたという話は同期だった奴からさんざん聞かされてはいた。 しかし会いに行くことは決してなかった。
過去の栄光を知る人物と会うことで、今の自分との落差を再認識させられそうで怖かった。 つまり……結局、自分は逃げ出したのだ。
中途半端に自分の限界を知り、過去としっかり向き合うこともせず、後悔と妥協を繰り返しているだけ……そんな自分がいま、将来ある高校生を指導することなどできないのではないか? だから傍観者で居続ける道を、自分は選んだのではなかったか――
「いいよ。 別に返事を急いでいるわけじゃない」
名嘉村は呟いた。
近藤の心中を察しているかのように、それ以上何も言葉を求めなかった。
名嘉村は正面を見据えたままで、その視線は真っ直ぐに通りの向こうへと伸びている。 近藤も同じように視線を伸ばす。
この人はその視線の先に、いったい何を捉えているのだろう……。
近藤は、陽に焼けたその横顔を見ながら、置いてけぼりをくったような気分に包まれた。
やがて信号が青に変わった。
動き出した人波に流されながら近藤は、座標を見失い掛けている自分に微かな、でも確かな焦りを覚えて始めていた。