【020】 焦燥
――ビシィィ!
ミットを叩く心地よい音がブルペンに響く。
一冬を越え、基礎体力が付いた分、球威は増しているような感じはする。 コントロールも……まあ、だいたい狙ったところに行くくらいにはなったかな。
「悪くないんじゃないか?」
キャッチャーの吉村が、クールダウンの為のキャッチボールの距離を詰めながら言った。
「まあ、真っ直ぐはな……」
唯一の武器でもある『ストレート』に関しては問題なかった。 自分でもハッキリとした手応えを感じていた。 しかし――
「あんまり気にすることはないと思うけどな。 去年よりはマシだろ?」
確かに吉村の言うとおりだった。
去年はストレート以外にマトモに投げられるボールはなかった。
それに比べれば、今年は一応チェンジアップがある。 それに二種類のカーブ……曲がるカーブと曲がらないカーブがある。 もっとも投げ分けることはできないが。
どちらにしても練習試合限定の球。 競った試合ではおっかなくて使えない。
大会まで残された時間はあと僅か。
その間に変化球の精度をどこまで上げられるか……正直、あんまり期待はできないだろうな。
***
今日はめずらしく、朝から雨が降っていた。
今年は梅雨にに入ってからもあまり雨が降らず、暑い日が続いていた。
僕は雨の日が嫌いだったが、それでもこの時期にコレだけ晴れの日が続くと、久しぶりの雨に少しほっとするような気持ちになる。
西の空は明るいからスグに止んでしまうのかもしれない。 それでも弱々しいこの雨が、僕に一服の清涼感を与えてくれてるような気分だった。
そんなことを考えながらいつもより少し遅い時間に学校に滑り込み、階段を三階まで上ると、教室の前の廊下には岡崎と亮が立っていた。
「お、来やがった」
先に僕に気が付いたのは岡崎だった。
「なあんだ。 遅刻かと思ったのによ」
にやけた表情の亮が、両手をポケットに突っ込んだまま僕の方に顔を向けた。
「ギリギリセーフだろ」 僕は遠慮がちに手を水平に広げた。
僕と同じクラスの亮と、隣のクラスの岡崎。
僕ら三人は登校すると、ここで『ミーティング』をすることが日課となっていた。
とはいっても大した話があるわけでもなく、始業のチャイムが鳴るまで、ただ喋り続けているだけだったのだが。
江東球友クラブのメンバーのうち、今井、笹本、控えの内野手の桑原、それと麻柚が僕らと同じこの中学に通っている。 今年からは岡崎の弟・誠二も入学した。
だが、奴らが『ミーティング』に参加することはマズない。 理由は知らない。
「――でよ。 あのバット、グリップの感じがいいだろ?」
岡崎はそう言って、バットを構える仕草をした。
「そうかあ? 俺はもうちょっとグリップが細い方が――」
「おはよう。杉浦くん」
突然掛けられた声に振り返った。
そこには小柄な女の子が立っていた。鞄を両手で抱え込むようにして。
「おはよう。」
彼女はもう一度そう言った。 今度はさっきよりも小さな声で。
「は? ああ、オハヨウ」
僕はよく状況が呑み込めないまま、オウム返しのように返事をした。
状況が呑み込めていないのは亮たちも同じだった。 誰も口を開かず、ただ彼女の方を見ていた。 彼女も何かを話すわけでもなく、ただ立ちつくしているといった感じだ。
彼女の顔に見覚えはあったが、名前は知らなかった。 クラスも違うし話をしたこともない。
もちろん挨拶をしあう仲でもない。 だからなんで突然声を掛けてきたのかはわからない……あ!
「ゴメン。……邪魔、だったよな?」
僕は合点し、端に避けた。
それを見た亮と岡崎も、同じように後退った。
廊下を塞ぐようにして立っていた僕らが、それぞれ壁側に身を寄せると、彼女は一瞬何かを言いかけたみたいだったが、口を噤みやや俯き加減にその前を通り抜けた。
そのまま彼女は早歩きで二つ先の教室へと姿を消した。
「……なんで?」
亮が呟いた。
「ナニがよ」
「なんで、杉浦くんなんだ? 俺と岡崎は?」
名前を出された岡崎は露骨に嫌そうな顔をした。 関係ない話に俺を巻き込むなといわんばかりに。
「知らね。 訊いてくりゃいいじゃん、気になるんならよ」
頻りに首を傾げる亮に向かって言いはなち、ミーティングは散会した。
***
「え〜?! 今日もやんのかよ」
僕は大げさな仕草で天を仰いだ。 午後になって、雨は完全に上がっていた。
「おお。 頼むよ」
亮の眼は真剣だった。
「ったくしょうがねえ……」
僕は恨めしげに、もう一度空を見上げた。
空は薄い雲に覆われていたが、雨が降ってくる気配は感じられなかった。
放課後、僕らは野球部が練習しているグラウンドを間借りして、向かい合った。 距離にして二〇メートルちょっとか。
「さあ、来い!」
ジャージ姿の亮が大きな声を上げた。
“ ったく。 なにが「 サーコイ! 」だよ…… ”
僕は心の中で悪態を吐きつつ、バットを振り下ろした。
亮の練習に付き合わされるようになってから、もう二週間になる。
僕がノックバットを握り、亮はひたすら白球を追う。 右へ左へ前へ後ろへ……。
初めはノリノリでバットを振りまわしていた僕だったが、こう毎日のように付き合わされると、いい加減飽きてくる。 というよりもう勘弁して欲しい。
しかし、いつもへらへらしている亮が真剣な顔をして頼んでくるもんだから、つい嫌々ながら引き受けてしまう。 ま、亮の気持ちも判らないワケじゃないしね――
四月に新入部員が加入し、江東球友クラブは二五人になった。
全国大会優勝チームというネームバリューは大きかったようだ。
去年とは比べモノにならない入団希望者が来ていたが、峰岸さんが入団を認めたのは一二人だけだった。 その中に、岡崎の弟・誠二がいた。
誠二は兄貴にも引けを取らないセンスで頭角を現し、五月の終わり頃には三塁手のポジションを掴んでいた。
それに伴い、藤堂さんが抜けたあとの暫定三塁手だった亮は一塁手へとコンバートされた。
兄貴が守ってきた『ホットコーナー』を引き継ごうと、亮が気合いを入れていたのは傍目にもよく判った。 だから亮の悔しさは理解できる。
だが現状では守備に関しては誠二の方が数段上だっていうのは疑いようがない。 峰岸さんの判断は当然だった。
しかし、亮はまだ三塁手のポジションを諦めたワケではないらしかった。 彼の放課後練習が始まったのは、それからまもなくだった。
「ラストな!」
バットを肩に担いだまま、僕は声を張り上げた。
それに対して一瞬、不満そうな表情を見せた亮だったが、僕の視線の動きに気が付くと、渋々といった感じでグラブを掲げ「じゃ、ラストで」といった。
僕の視線の先には、野球部員たちがキャッチボールをしている姿があった。
もう一時間近くノックを続けているものだから、彼らの練習にも随分と影響を及ぼしているようだった。
彼らが僕らに向ける視線は、好意的とはいえないものだったが、文句を言うでもなく、ただ黙々とキャッチボールを続けていた。
その中には三年生も姿も当然あったが、やはり何も言っては来なかった。
ま、亮が藤堂センパイの弟だってことも関係しているのだろう。
「おら、ナニやってんだよ!!」
亮の急かす声がグラウンドに響く。
僕は頷き、バットの先を亮に向けた。
亮が腰を深く沈めたのを確認すると、右手でボールを浮かせ強くバットを振り抜いた。
***
「じゃな」
校門を出たところで僕は軽く手を振り、亮に背を向けた。
家の方向が違う僕らはここで別れる。 僕は右へ、亮は左へ――
「わかった! じゃあ明日からは朝練にしようぜ!」
「は?」 僕は振り返った。
亮は満面の笑みだった。 おそらく「名案だろ?」とか思っているのだろう。 僕は目を閉じ、首を振った――
「さすがに連日、野球部の邪魔しちゃマジイだろ?」
さっき練習を終えて着替えている教室で僕は諭すようにそう言った。
暗に「自主練は止めにしようぜ☆」という意味で言ったのだったが、亮にはそれが伝わらなかった。「じゃ、朝なら平気だろ」と考えたようだ。
しかも亮のアタマのなかには一番大事な「杉浦くんの都合」っていう概念は組み込まれていないらしい。
「マジでやんの?」
「当然。 お前と違って俺は競争を強いられてんの。……てなわけで七時、よろしくな」
亮は立ちつくす僕にそう告げると、軽く手を挙げて歩いていってしまった。
「……」
七時って……ウソだろ……?
グラウンドからは、僕らから「練習場所を取り返した」野球部員たちの威勢のいいかけ声が響いている。
野球部の練習場所の確保と引き替えに『僕の睡眠時間が削られることになった』という事実は、きっと彼らに伝わることはないのだろうな――
そんなことを考えながらグラウンドを眺めていると、突然、腰の当たりに鈍い衝撃を受けた。
「――痛ってえな……」
振り返ると、そこには麻柚が立っていた。 体当たりしてきやがったのか……? この女は。
「よ!」
彼女は僕の顔の前に手のひらを翳すようにして言った。
「よ! じゃねえ。 危ねえだろ?」
僕は声のトーンを抑え、睨みつけた。
「今日も練習?」
麻柚は僕のクレームなどまるで無視だった。 まあ、コイツはいつもこんな感じだ。 マイペースというか自分勝手。
「……。 つーかお前まだいたんだ」
「いろいろあってね。 というわけで一緒に帰ろうよ」
なにが「というわけ」なのか判らないが、彼女に背中を押され、促されるままに僕は歩き出した。
僕の家と麻柚の家は同じ方角だったが、こうして一緒に帰った記憶はない。 多分一度もないはず。
だいたい僕は、家に真っ直ぐ帰ること自体が殆どなかったし。
「――笑っちゃうでしょ? それでさ――」
麻柚はいつになく上機嫌だった。
実に取り留めのない話を、僕が口を挟む間がないほどの勢いで話し続けた。 彼女が野球以外にも興味を持っているものがある、それはそれで新鮮な驚きでもある。
暫く並んで歩くうち、ふと違和感を覚えた。
隣を歩く麻柚はいつものジャージではなく、制服を着ていた。
学校の帰りなんだから当然と言えば当然なんだろうけど、クラスが違う彼女とは学校で顔を合わせることも殆どなかったから、あまり印象にない。
それに……こんなに小さかったか? コイツ。
僕の中では麻柚=大女のイメージがあった。
しかし、いま隣を歩く彼女の頭は僕の肩の辺りにある。 一瞬「縮んじゃったのか?」と思うくらいだった。
それに……こんなに華奢だったっけ? 麻柚はもっとタクマしいっていうか、イカツイっていうか――
「ん? ……なによ」
僕の心の声が聞こえてしまったかのように麻柚は突然立ち止まった。 動揺した僕の視線は彼女から逃れるように宙をさまよった。
「……べつに」
僕の言葉に彼女は眉を顰め、やや上目遣いに睨んだが、やがて何もなかったかのように歩き出した。
明治通りを渡りしばらく歩くと、仕込みを始めている小料理屋の店先から『もつ煮込み』のいい香りが漂ってきた。 僕は強烈な空腹感を覚え、そっとハラを押さえた。
「今年は優次第よね」
その時、麻柚が呟いた。 それは独り言のような、そして他人事のような響きだった。
「だ・か・らあ……。俺はユウじゃなくてマサルなんスけど。 何で憶えらんねえの?」
僕は微かな苛立ちを覚え、少し声を荒げた。
「どっちだっていいじゃない」
麻柚は憤る僕を醒めた目で見返してきた。 あまりにも思っていたとおりのリアクションに『声を荒げた自分』がアホらしく感じて、可笑しくなった。
いつの頃からか、彼女は僕のことを『チビ』とは言わなくなった。 そのかわり、最近では『ユウ』と呼ぶようになった。 間違えてると何度指摘しても聞く耳を持ってくれない。 帰ってくる言葉は「小さいことを気にするな」。 ……ゼンゼン小さいことじゃねえだろ。
「でも本当に頼んだわよ? ユウしかいないんだから」
「あいよ……」
僕は気のない返事で誤魔化した。
自分が、という気持ちは誰よりも僕自身が感じていた。
チームの浮沈の鍵を握っている自覚が、少なくともいまの僕にはあった。 時にはそれが窮屈に感じるほどに。
***
ブルペンの周りでは今日も大人たちが場所取りを始めている。
彼らは言葉を交わすこともなく、ただ黙って僕の投球を見守っている。 お互いに一定の距離を保ち、牽制仕合ながら。
そんな『緊張感』の漂う中、僕はいつものように投球練習を始めていた。
キャッチャーを立たせたまま十球、座らせてからストレートを三十球、そしてチェンジアップを十球―――
「だんだん良くなってきてるとは思うけどな」
ブルペンを出るとき、キャッチャーの吉村が呟いた。
「そうかなあ?」
どうもしっくり来ない。
僕は未だにモノにできていないチェンジアップに戸惑っていた。
山路さんに言われた抜くという感覚が掴みきれていない。 本当にすっぽ抜けちゃってることも多いし……。
大会が目前に迫ったいま、僕の焦りは小さいとは言えなくなっていた。