【019】 scouting report05 as time goes by
善波彰夫が晴海の試合会場に到着したとき、グラウンド脇の道路は路上駐車のクルマでごった返していた。
ナンバープレートを見ると、他県からの来客も多いようだ。
彼がクルマを車列の最後部につけると、グラウンドの入口付近にいた男が歩み寄ってくるのが見えた。
善波は男の顔に見覚えがあった。
男は神奈川県の某大学の系列高校の監督で、名前は「トガシ」といった。
トガシは探るような視線を善波に向けながら言った。
「成京さんも『杉浦詣で』だろ?」
「ま、そんなトコです。 で、ご本尊は?」
善波はそんなトガシの視線など気付かぬふりで、グラウンドの方へ眼を這わせた。
「さっきまでブルペンで投げてたよ。 ちょっとモノが違うね、ありゃあ」
トガシは首を捻りながら、呻くように呟いた。
「それにしても目立つよ、それ。 アイツらを刺激するだけだから、あっちに停めて来なよ」
トガシは善波のクルマをみて顔を顰めた。
目立つと言われても、善波はコレしか持っていない。 善波のクルマは、赤色のボルボのステーションワゴンだった。
しかしトガシの言うとおり、彼の肩越しに見える人集りはこちらの様子を見ているようだった……敵意のこもった視線で。
善波は一つ息を吐くと、クルマをUターンさせ、少し離れた工場の建設予定地の看板の前に横付けした。
善波にしてみれば、周囲からのそんな視線には慣れたものだった。
彼が監督をつとめる東東京の強豪・成京学館。
野球留学の名の下に、積極的なスカウト活動で選手を集めてくるやり方が他校の不評を買っていることも承知していた。
しかし周囲から「寄せ集めチーム」などと揶揄されることなど、彼にとっては全く気にもならなかった。
善波はかつて成京学館が甲子園初出場で初優勝をした時の野球部主将だった。
六大学から実業団を経て母校のコーチに就任、そして前監督・徳田和人の後任に抜擢されて七年。
華やかな球歴の始まりは、善波にとって中学最後となってしまった試合での徳田との出会いだった。
試合後、敗戦で涙に暮れる善波を待っていたのは、成京学館野球部の「セレクション」への招待だった。
決して裕福な家庭に育ったとは言えなかった善波にとって、私学への憧れはあったものの、現実的な選択肢には成り得なかった。
しかし徳田からの熱心な誘いもあり、『軽い気持ち』でセレクションへの参加を決めた。
それが全ての始まりだった。
もしあのとき徳田と出会わなければ、おそらく善波にとっての野球は高校の三年間で幕を下ろしていたのだろうし、今の自分もなかったのだろう。
だから彼としては、埋もれた才能を見つけ出し、そして活躍の場を用意してあげることが自らに課せられた使命――そう強く信じていた。
彼の信念は、周囲からのやっかみに心が揺れるほどヤワなものではなかった。
グラウンドでは試合前の練習が終わった様子だった。
善波は走り出したい衝動を堪えてゆっくりと歩を進めた。
***
善波が杉浦を見るのは二度目だった。
前回見たのは六月頃、地区大会が始まる前だった。
あれから五ヶ月―――
目の前にいる投手は別人になっていた。
以前は不安定だった投球フォームが、いまでは見違えるように安定している。
バラバラだった球筋も定まっている。
それに、マウンドで打者と対峙する姿勢――マウンド捌きに余裕を感じる。
間合いを取るのが非常に上手くなった。
打者が完全に杉浦のペースに嵌っている。
優勝で自信を付けたのか、それとも…… 「――そういえば、榎田ってオタクに決まったらしいじゃない」
善波の思考を遮るようにトガシが口を開いた。
不意を突かれた善波はつい「ええ」と答えてしまった。
「じゃ、ピッチャーはいいだろ。 杉浦はウチに譲ってよ」
相変わらずトガシは笑顔だった。
「あ、知りませんでした? 榎田はサードにコンバートする予定ですよ。 やっちゃったらしいんで」
善波は重そうな素振りで右の肩を回した。
「本当? ……でもなあ、小林のときにもそんなこと言ってなかったっけ?」
「はは、そうでしたっけ?」
善波はアタマを掻いた。
四年前、成京が甲子園で準優勝した時のエース・小林。
中学時代から注目されていた小林の進路を巡っては、全国の私学のあいだで争奪戦が繰り広げられていた。
しかし秋になるころには獲得を断念する学校が相次ぎ、最終的には成京学館だけが残った。
理由は「小林は肘を痛め、投手としての再起は難しい」という噂がまことしやかに広まったためだった。
小林が肘を痛めていたのは事実だった。
ただそれが言われていたほど重症ではなかった、というだけの話だ。
「あれ、オタクの誰かが流したんだろ? ったく策士だからな」
呆れたような男の言葉に、善波としてはただ笑うしか無かった。
だが善波は知っていた。 リークしたのは成京の関係者ではないことを、そしてリークした人物をここでトガシに明かす必要のないことも。
グラウンドでは、試合も終盤に差しかかっていた。
序盤から押し気味に試合を進めていた『江東球友クラブ』だったが、中盤以降はうって変わって淡泊な攻撃を繰り返していた。 まるでわざとアウトになろうとしているように。
それでも試合の趨勢には影響はなかった。
何しろ杉浦はまだ一人のランナーも許していないのだから――。
***
最後のバッターが三振に倒れると、バックネット裏に陣取っていた群れが一斉に移動し始めた。
結局、杉浦は最後までランナーを許さなかった。
無安打無四死球のパーフェクトゲーム。
奪三振は14。 そして投球数は……
善波は広げたスコアブックに目を落とし、ブツブツ言いながら数え始めた。
「七十六球だよ」
その様子を隣で見ていたトガシが、囁くように言った。
「……はあ、ども」
善波が顔を上げると周りには善波とトガシ以外、誰もいなかった。
さっきまでココにいた集団はグラウンドになだれ込み、クールダウンする杉浦を取り囲むようにしていた。
「まったくあれで教育者を騙っちゃうんだからね……。 世も末だね」
トガシは呆れたように溜息を吐いた。
「まったくです……」
善波が相槌を打つように答えると、トガシは人懐っこい笑みを浮かべた。
トガシは五十を少し超えた年齢だった。
十年前にセンバツに出場した経験はあるが、夏は一度もない。
毎年、県大会でいいところまでは行くのだが、惜しくも甲子園の切符を逃し続けている。
今年から心機一転、千葉県にある系列校に移ったが、おそらく今年も結果は同じだろうと善波は見ていた。
練習試合で何度か対戦したこともあるが、毎年「機動力があって小技の利く」完成度の高いチームに仕上げてくる。
監督としての知識も経験も指導力も豊富なこの人に「足りないもの」があるとしたら「狡いくらいの厳しさ」なのだろう。
夏に勝てないのはきっとそのせい……。
自分に向ける人懐っこい笑顔を見ながら、善波はそう分析していた。
やがてトガシは腰を上げ、善波に向かって軽く手を挙げ、二言三言、言葉を交わすと、駐車場にむかって歩き出した。
立ち去るトガシの背中を目で追いながら一塁側ベンチに目をやると、そこによく知った顔を見つけた。
***
「ご無沙汰。 なによ、今、ココのコーチなんだって?」
善波はベンチに歩み寄り、男の隣に腰を下ろした。
「ココっていうより杉浦を見てるだけだけどな」
男は腕を組み、脚を投げ出してグラウンドに視線を伸ばしていた。
「ん? 少し痩せたか? 気を付けろよ。 カラダが資本だからな、お互い」
善波がそう言ってタバコをくわえると、男は無言のまま善波の口許に目をやり、『ベンチの外』を指さした。
「ところで――」
「杉浦のことならなんともならんぞ」
男は善波から言葉を奪った。
「まだ何も言ってねえっちゅうに」
「言わなくたってわかるさ。 お前の考えてることくらい」
男は感情の伺えない表情で短く、そう言った。
善波は火のついていないタバコをパッケージに戻し、男と同じように脚を投げ出し、グラウンドを眺めた。
夕刻の柔らかい陽射しの中で、時間がゆっくりと流れていく……善波は懐かしさ感じて口許を弛めた。
「なんかこういう感じ、久しぶりだよな」
善波は西日を顔に受けながら、懐かしそうに呟いた。
「そうだな。 中学以来だろ。 ……ウラギリモノ」
男はいった。
「まあ、そう言うなよ」
善波は苦笑いを浮かべたが、男の言葉を否定はしなかった。
男とは中学時代のチームメイトでもあった。 そして一緒に甲子園に出ることを約束したこともあった。
しかし中学卒業後、男が当時の仲間とともに地元の都立高に進むなか、善波だけは全寮制の成京学館に進学を決めた。
「なあ善波。 野球をやってた高校時代に今の知識があったら、って考えたことないか?」
男の言葉に、善波は「ないな」と答えた。
「俺はずっと考えてる。 本当に甲子園にいきたかったんだ。 いまでもしょっちゅう考える。 あのとき何でこうしなかったんだろうとか、ああすれば抑えられたのに、とかな。 東東京大会の決勝でお前に打たれて以来、ずっとだ」
「そりゃ知らなかった。 ちょっと責任感じるな」
善波は少し戯けた声を出したが、男はそれを無視するように話を続けた。
「だから俺は未来のある連中を指導することで自分を投影してきたんだな、多分」
「なるほど。 つまり、杉浦もお前のコピーってわけか」
「いや、アイツはちょっと違うな」
男はそう言ったきり、口を噤んだ。
善波は男の横顔を眺めていた。
男とは中学時代には仲間として、高校時代にはライバルとして同世代を生きてきた。
善波とはまた違う道を選んできた男の横顔には、深い皺が刻まれている。
それはまるで、コーチとしての手腕を高く評価されながらも、過去に縛られながら生き続けている男の未練を映しているようだった。
「……奴とセットで『俺』を売り込もうと思ってた。 杉浦と一緒に甲子園に行こうと思っていたんだ」
しばらくして、男が不意に口を開いた。
「珍しいな。 そんなに入れ込むなんて」
「ああ。 俺が見てきたなかでも最高の逸材だよ。 杉浦は」
男はそう言うと、一瞬だけその顔に光が差したようだった。
「……なるほど。 いいよ、わかった。 お前と杉浦、両方ともウチで引き受けるよ。 エースと投手コーチ。 何なら『部長』としてベンチに座ってもらったって構わない。 杉浦とお前、そして俺。 三人で行こうぜ。 それならいいだろ?」
善波の申し出に男はチカラなく首を振った。
「どうも甲子園とは縁がないみたいでな……。 杉浦をスタートラインまで曳いて行ってやることすらできないらしい」
「なんだよ。 どういう意味だよ」
男は何も応えなかった。
ただ薄い笑みを浮かべ、グラウンドを眺めているだけだった。