【018】 宿題
帰国した僕は、まず山路さんに電話をした。
しかし呼び出し音は鳴るものの、受話器が上がる気配はなかった。
全国大会後、江東球友クラブには練習試合の申込が殺到していた。
優勝という事実は、僕らが思っていたより重くインパクトのあるものだったようだ。
そして……秋の大会を前に藤堂さんと榎田さんはチームを離れた。 僕を二代目主将に指名して――
「あ、杉浦主将。 おはようございます」
安藤は僕を茶化すようにそう言った。
「お前、ヤメろよな。 そーゆーの」
「いいだろ、別に。 あ、岡崎副主将。 おはようございます」
安藤はよせばいいのに岡崎にも同じように話しかけた。
岡崎は無言で安藤に蹴りを入れた。
アイツにはそういう冗談は通用しない。
「まだ辞めなくてもよかったのにな、藤堂さんたちも」
岡崎の言葉に僕も同意した。
ドコのチームでも秋の大会までは三年生が出場していた。 もちろん勝っても全国に行けるわけではないんだけど。
「お前、知ってたか。 榎田さんの、肩」
岡崎は言葉を選ぶように、僕に問いかけてきた。
「ああ。聞いた」
榎田さんは大会前から肩の具合が思わしくなかったらしい。
本来であればエースとしてフル回転するはずだったのだろうが、地区大会では五回と三分の一、全国大会では七回しか登板しなかった。
「で、お前は大丈夫か? 肩とか肘とか」
岡崎は僕の方を見ずに呟くようにいった。
「お。心配してくれてんの? なんも問題ないよ」
「バッカヤロ! おめえが投げられなくなったら、ササしかいねえじゃねえか。 それで勝ってけると思うか?」
ムキになって言い返してきた岡崎を横目に見ながら、もう一人の投手、ササ(=笹本)の顔を思い浮かべた……岡崎の言うとおり、勝てないだろうな。
「それによ、お前の球はいつか俺が打つ。 だからそれまではつまんねえ怪我とかすんじゃねえぞ」
「いつかってなんだよ。 いま勝負してもいいんだぞ?」
僕は少し挑発するように言ってみた。
「いや、今はヤメとく。 この間の試合見ててわかった。 だからもうちょっとしてから」
岡崎は手のひらで払うような仕草を見せた。
僕らは笑っていた。
チームが優勝したことで仲間の結びつきが強くなってきていることを実感していた。
「藤堂さんと榎田さんもさあ……こんな約束してたらしいな」
亮がいってたよ。 岡崎は手にしていたボールを見つめて呟いた。
「へえ……」
僕はその話の続きを聞くつもりはなかった。 どちらかというと聞きたくなかった。
「まあとにかくだ。お前は俺のライバルということにしてやるから……覚悟しとけよ」
岡崎はそう言うとさっさと立ち上がり、僕を見下ろした。
「そういえば用田もさあ、川内霧島の用田な? アイツも、次は絶対に岡崎には打たせねえ、っていってわ。 お前に打たれたことネに持ってるな。あれは」
僕は岡崎を見上げ笑みを浮かべた。
「……そおかよ。 返り討ちにしてやんわ」
偉大な三年生が抜けて、チームは十三人になった。
でも勝つことを経験し、それぞれに目標を手にした僕らは今まで以上の活気に満ちていた。
そして僕は中学二年生になった。
入学した頃と比べて、背は二十センチ以上伸びた。
麻柚も今では僕のことをチビとは言わなくなった。 僕の方が大きいのだから当然だ。
去年の夏以来、グラウンドにはたくさんの人が集まってくるようになった。
私立高校の関係者、スポーツ紙の記者から、○○の紹介者とかいう得体の知れない人等々……。
グラウンドでは内野ノックが続いている。
僕と吉村はその輪から離れ、ブルペンに向かった。 得体の知れない大人たちも後を追うようにブルペンに向かって移動し始めた。
途中、ベンチに立ち寄り、バッグの中からノートを取り出す。
青い表紙の大学ノートのページをめくり、『今日の練習メニュー』を確認すると、丁寧にバッグの中にそれをしまった。
去年の秋以降、僕はブルペンでの投げ込みとシャドゥピッチングを中心に投球フォームを固めてきた。 ただひたすら黙々と。 山路さんの指導のもとに。
山路さんは僕に筋トレの類をさせなかった。「意味がない」といった。 また長時間の練習でザツになることも嫌った。 だから山路さんの練習は短かった。 でも毎日同じ練習を繰り返した。 その練習は今でも変わらない。 あの時からなにも―――
***
去年の十一月八日、僕はいつものように中学校の正門に寄りかかり、山路さんの迎えを待っていた。 しかしその日来たのは峰岸さんだった。
「おお。 今日は山路、風邪引いちゃって来れねえんだって。 だから俺と練習だ」
「へえ。 珍しいですね」
その時、僕はあまり気に留めていなかった。
一週間ぐらいたったころ、峰岸さんは僕に一枚の紙を持ってきた。 そこにはびっしりと一週間分の練習メニューが書かれていた。
「なんかまだ調子よくなってないみたいだな。 しばらくは自主練習ってことだ」
以前、藤堂さんが言ってたことが頭を過ぎる。「――忙しいヒトだから、見込みのある奴しか――」
僕は浮かんでくる否定的な考えを掻き消すように、黙々と一つ一つメニューをこなしていった。
どこかに漠然とした不安を抱えながら。
十一月二三日。
この日は晴海のグラウンドで練習試合が組まれていた。 相手は埼玉のチーム。 一昨年の全国大会にも出場したチームだ。
いつものように自転車をとばして晴海のグラウンドに着くと、ベンチに懐かしい顔を見つけた。
彼は僕を見つけるとにんまりと顔を崩した。
僕は飛びかからんばかりの勢いでベンチに走り寄った。
「大丈夫なんですか? 心配してたんですよ!」
山路さんは笑顔のまま、手にしていた青いノートで僕の視線を遮り、「まあ落ち着けよ」といった。
「メニュー通りにやってるか?」
「もちろんです!」
山路さんは満足そうに頷いた。
僕は正直ほっとしていた。
「今日は絶対いいピッチングしますから。 約束しますよ」
山路さんはまた満足そうに頷いた。
あの日の僕は最高に気合いが入っていた。
感覚が研ぎ澄まされていた。 抜群にキレているというか……
あのときのピッチングが、僕にとってのベストピッチだったのだろうと今でも思う。
四回を終了してベンチに戻ったとき、僕はみんなに「もう点は取らないでくれ」と小声で言ってまわった。 言葉の意味をみんな理解してくれた。
峰岸さんは気付いていたようだったが、気が付かないフリをしてくれていた。
最終回、最後のバッターをツーストライクに追い込んだとき、そっとベンチに目を向けた。
山路さんは目を拭っていたような気がする。
僕はもう一度自分自身を鼓舞するように、グラブにボールを叩きつけると、右打席に立つ打者をマウンドから見下ろした。
キャッチャーの吉村がインコースにミットを構える。
僕は頷き、ゆっくりと投球モーションに入る。
ワインドアップから渾身のチカラを込めてミットに投げ込んだ――
――バシィィッ!!
インコース低めを突いたストレートがミットを叩き、小気味よい音をグラウンドに響かせた。
バッターは手を出さなかった。
しかし、やや遅れて球審の右手が挙がった。
「――――――!!!!!」
その瞬間、僕は雄叫びをあげ、ベンチの山路さんに向かってガッツポーズを突き上げた。
僕は生涯初の完全試合を、山路さんの目の前で達成したのだ。
***
「約束、守れましたよね?」
僕は喜びを抑え、山路さんに報告した。
「おう。 最高のピッチングだったな。 本っ当に……」
涙を浮かべた山路さんが僕の頭を掻きむしった。 なぜだか僕も涙が出てきた。
「なあ――」
やや前屈みだった山路さんが顔を上げた。
「ついでで悪いが、もう一つ約束してくれないか?」
僕は山路さんの言葉に背筋を伸ばした。 山路さんはいつになく真剣な表情だった。
「お前が甲子園で投げる姿が見たい。 優勝する姿を見せてくれ。 約束してくれるか?」
僕は少し拍子抜けした。
このあいだ全国大会で優勝したばかりの僕にとって、甲子園にでるなんてことはそれほど難しいことではない。 優勝だって……遠い目標だとは思えない。
「――優勝、すればいいんですね。 本当にしちゃいますよ?」
僕の言葉に山路さんは静かに頷くと、バッグの中からボールを取りだした。
ボールにはマジックで何かの印がついている。 角張った文字で『親指』とか『中指』とか書いてある。
「……なんですか?」
「握りだ。この握りをちゃんと覚えろ」
変わった握りだった。
「チェンジアップだ。 サークルチェンジとも言うけどな」
「チェンジアップ、ですか……?」
あまり聞いたことがない変化球だった。
「簡単にいうとタイミングを外すボールだ。 捻る必要はない。 ストレートと同じ腕の振りでやや抜く――難しいか?」
「はあ。 よくわかんないです」
山路さんは笑顔のままだった。
「ブルペンで投球練習するときに十球だけ、投げるようにしてみな。 変化させようなんて考えるな。 基本は真っ直ぐと同じだ。 俺が……俺が復帰するまでに投げられるようにしておけよ。 宿題だぞ」
「はい!」
山路さんはまた、静かに頷いた。
「その代わり……早く戻ってきてください。 待ってますから」
「おう、待ってろ。 ダイブ良くなってきたからな」
山路さんは親指を立てて笑った。
それからしばらくして、山路さんは僕の前からいなくなった。
落書きだらけのボールと青い表紙の大学ノート、そして……提出先のない宿題を僕に押しつけて。