黒揚羽舞ても少女の武に涯てはなく
本編そっちのけスピンオフ第4弾ッ!
満を持して「軒島二胡鳴」の登場だ!!
悦司ぎぐ様よりオーダーいただいた時の題名は
『何らかの外的ショックを受けた後遺症により武力とは無縁の淑やかな少女になってしまうニコナ』
先に言っておく! ニコナから武力を取ったら何も残らん!!
昔者荘周夢に胡蝶と為る
栩々然として胡蝶なり
自ら喩しみて志に適えるかな
周たるを知らざるなり
俄然として覚むれば 則ち蘧々然として周なり
知らず 周の夢に胡蝶と為れるか 胡蝶の夢に周と為れるかを
~ 荘子:斉物論第二 ~
黒揚羽が庭先の花の一つに留まる。蜜を取るためか翅を休めるためか。
その、ゆっくりと閉じられゆく翅を、老人は庭先に面した縁側に座り目を細め見つめる。
「我が生に涯てありて、武や涯てなし、か。」
齢八十にしても武の探求心は未だ衰えず、そして未だ頂は見えず。武は矛を止める也と言えど、矛とは何処に在りき也。己が心の内か。
もし……。老人は思う。もし武の道を進んでいなかったら自分の人生はどうだったのか。いや、それこそ「胡蝶の夢」か。
黒揚羽が花を離れ次の花を求め、ひらりひらりと晩春の柔らかな日差しの中を優雅に舞い上がる。
「じっちゃん!」
「おぉ、ニコナ。学校の帰りか。
なんぞ、儂に制服姿のお披露目に来よったんか。よう似合ってるのう。」
「そういうわけでもないんだけどね。でもなんかさぁ、慣れてないから落ち着かないよ。」
「これから毎日着るんじゃ。そのうち服が馴染むじゃろ。
中学校はどうじゃ、上手くやっていけそうか。」
「そっちもね、まだ落ち着かない感じ。」
「ふむ、それとてじき馴染む。」
「そうかなぁ。」
少女が老人の横に腰掛ける。
営む武術道場の門を叩いたのは、この子が10歳の頃。才覚、というものじゃろうか。2年もするうちにこの道場で学べる全てのものを吸収しおった。教えたわけではないが、奥義も習得していることだろう。そして1年ほど前に出奔。より高みへ、より広い世界へと飛び立った。この黒揚羽のように。
とはいえこうして儂の前にたまに顔を出す。ほんと孫娘のようじゃ。
二人はしばらくの間、静かに庭で戯れる黒揚羽の軌跡を見つめていた。
「ねぇ、じっちゃん! 久々にあれやろう!」
少女が傍らに鞄を押しやり、くるりと舞うように立ち上がる。
そしてまるで舞踏の申し込みのように左手を腰の後ろに回し、右手を前に差し出す。
「やれやれ、儂もいい年なんじゃが。」
そう言いつつも老人はその誘いに応じ、立ち上がって同じように構え、そして互いの右手の甲を合わせる。
二人がゆっくりと深く呼吸をし、吐くと同時に体を沈める。しばしの沈黙。
どちらからともなく右手が下ろされ、ゆっくりと弧を描く。さらにそこに互いの足の動きが加わるが、合わせられた手の甲は触れたままだ。押し、引き、旋回、緩急。歩み回り続け踊り続ける。
「こないださ、ムエタイの体験に行ったんだ。」
「ほう、操出が速かったじゃろ。」
「うん、すっごく早かった! そこでね、すっごい膝蹴り見たよ!
ほんとすっごいの!」
「どんぐらいじゃ?」
老人が笑いながら誘う。
「こんぐらい!」
少女が一度身を引いたかと思うと右手の甲を回し二人の間に空間を作り、そしてそこへ飛び込むかのように膝蹴りを放つ。
老人の脇腹に膝蹴りが当たったかのように見えたが、合わせられた右手で少女の体軸をわずかにずらし、老人は寸で躱す。
「そんでね、あたし思いついちゃった!」
「何をじゃ?」
空間が一瞬、蜃気楼のように歪む。張り詰めた気がその場を支配する。
ピキーーーン! 少女の目が鋭く光る!
「ニコニコ・真空・膝小僧!」
ピキーーーン! 老人の目が呼応して光る!
「十二秘奥義の一つ、夢幻・吼威鋼狼!」
二人の間に激しい衝撃波が発生し、砂煙が竜巻になって立ち上がった。
その衝撃で少女は盛大に吹っ飛び、庭にあった石灯篭に激突する。
「うわー! 儂やっちまったー!
鋭い殺気に儂、無意識に秘奥義を発動させてしもうたー!!」
大きなたんこぶを作り倒れる少女。そして慌てふためく老人。
そこを、何事もなかったかのように黒揚羽が、ひらひらと飛んでいった。
~ ▶◀
靴ひもを結ぶ。履くたびに靴ひもを丁寧に結び直す。
綺麗に結べたときはその日一日、良いことがありそうな気がする。中学へと入学した時に下ろしたスニーカー、白地に黄色いストライプが可愛い。よし、今朝も綺麗に結べた。
「いってきまーす。」
「お? もう行くのか、早いな。」お父さんの声が居間の奥から聞こえる。
「いってらっしゃい。」お母さんが顔を出して見送る。
玄関を開けると、お婆ちゃんが庭先で水やりをしているのが目に留まった。
「お婆ちゃん、行ってきまーす。」
「うんうん、気ぃ付けてなぁ。今日もどっか寄ってくるのかい?」
「うぅん、今日も何処も寄らないで真っ直ぐ帰るよ!」
「おやおや、そうかい。」
可憐に咲く花の一つ一つに挨拶するように、黒揚羽が移ろう。
本当はもう30分遅く家を出ても、学校へは十分に間に合う。だけれど満員電車はあまり好きじゃない。それに早朝の空気感が好き。昨晩に降った雨の残りが、まだアスファルトを濡らしている。水たまりに青空が映る。駅までの道。まだ通いなれていない。毎日、新しい発見がある。
ここのお家、やっぱり犬がいるんじゃん。空っぽの犬小屋は見てたけど、初めて家主を見た。
けっこうお年寄りなのかな? 犬と目が合う。吠えるわけでも尻尾を振るわけでもなく、ジッとあたしの顔を見つめている。
「えっと、おはようございます。これからも毎日ここを通ると思う。」
挨拶してみる。でも犬は見つめているだけ。
そういえば、犬も痴呆症になるって聞いたことがある。大丈夫かな?
ふと、後ろから視線を感じ、咄嗟にカバンを胸元に引き寄せて振り返る。
若い男の人が立っている。誰だろう? ここのお家の人かな? 犬に話しかけてただけだけど、不審者に思われたのかな?
「あの……
「ふふふ、僕に気が付くとは流石としか言いようがない!
だが、いつまでもやられる僕じゃないぞ! スタンディングからの打撃、そこからのグラウンド、絞め技・極め技対策はばっちりだ!」
男は突如、その場で三点倒立をし始める。ちょっとぐらついてるが。
「ほ、本来ならば逆立ちで対応したいところだが、それは僕には無理だ!
だがどうだ? この態勢ならばそうそう仕掛けられまい!!」
えーーー! なになにこの人! どうだ?って聞かれても、仕掛けられまいって言われても!
この人が不審者だよ! 近くに精神疾患の病院だとか施設だとか、刑務所だとかあったっけ?
「ふっ、臆したか。
だがあれだな、これの欠点は思いのほか額が痛いことだな。
骨を切らせて肉を断つ! 違った、肉を切らせて骨を断つ改め、肉を切らせて骨無傷、だな?」
「あの……、ごめんなさい。もう学校に行かなきゃなので。」
カバンを抱きしめ後ずさりする。
「ん? んんん? おや? あれ?」
男の人が三点倒立をやめて立ち上がる。おでこを擦り、何やら思案にふける。
今のうちに逃げた方がいいかな?
「……そうか、ここは……、あれか。
いやいや失敬。今のは忘れてくれニコ……、いや、お嬢さん。人違いだったようだ。ははは。」
バツ悪そうにしながら、それでも柔らかい笑顔を残して男の人がそそくさと立ち去っていった。
なんだか向こうはあたしのこと知ってるみたいだったけれど、記憶にはない。
うーん、新手の勧誘作業かな?
~ ▶◀ ▶◀
「おっはよー! ニコナ! 今日は普通に来たの?」
普通。普通って何だろう。ヒヨリンが笑顔で覗き込むように尋ねる。
「おはよ。ヒヨリン、琴子。」
靴ひもをほどき、紐が下につかないように靴の中にしまって下駄箱に入れる。
横に並んだ琴子も下駄箱にローファーを入れ、少し心配そうな顔をしながら問いかけてきた。
「おはようございます。元気ないねニコナ、今朝はなんかあったの?」
「んー、来るときに変な人に会った。」
「うわー! なになに朝から変質者? 全裸紳士?」
一層、目をキラキラさせ割り込むようにヒヨリンが腕に絡んでくる。
「なにそれ?」
「あのね、あのね! 服を脱げば脱ぐほど強くなる変態なんだけど、紳士の初老!」
「ハハハ。わかんないけど、そういうんじゃなかったなぁ。」
「昨日さ、深夜アニメで見たの!」
「もぅ、ヒヨリンったらすぐ影響受けるんだから。」
琴子が優しくヒヨリンを窘める。
朝の陽光が差す廊下を三人並んで教室へと向かう。途中の教室から挨拶、冗談や笑い声が漏れてくる。
入学から1か月。緊張が解け、それぞれが「自分の居場所」を求め小さなコロニーを形成していく時期。早々にポジションを取る者、未だ試行錯誤に小コロニーを渡り歩く者、そして「我関せず」と自我を貫き通す者。各々が各々の「これからの生活基盤」を見定め落ち着いていく時期。
実際のところ、ヒヨリンや琴子に声をかけられなかったならば、ニコナはこの世界で孤立していたかもしれない。だがそれはそれで、本人にしてみたら特に気にするに値しなかった。所詮は「和」を求めようと求めなかろうと「個」という存在は変わらない。孤独だろうと誰か友達、仲間がいようと関係はない。その相手はどこまでいっても「自分」ではないのだ。「個」は「個」であることから離れられないのだ。
ニコナはいつも心のどこかに「この世界」と「自身」に些細なずれを感じていた。
それが何なのかはわからない。だが指先に刺さった植物の刺の如く、日常に支障を与えずに「それ」は自己主張を続ける。「お前は孤高」なのだと。
孤高? そんな崇高な値があたしにある? 何を言うか、あたしは普通の中学生だ。なにも特別なことばどは無い。
黒板を板書するカカカという音、先生の嫌に巻き舌なイングリッシュ。それらをBGMに窓の外、校庭を見るとなく眺める。時折、カーテンが視界を遮るように風にはためく。
なんだろう? 野良犬? 首輪はしていないようだけど。
校庭に入ってきた。薄汚れた白い犬が腰を下ろして校舎を見つめる。忠犬ハチ公を彷彿とさせる。
いや、その犬は校舎を見つめているのではない。あたしを見ている。間違いなく目が合った。
「それぃでぃーわ、Ms.軒島?」
「はい。」
「このparenthesis、
あーん、括弧にはぃーる接続しぃ、わ?」
ヒヨリンがわざわざ教科書を立て陰を作り、不可思議なジェスチャーを送ってくる。
んーS? O?
「becauseです。」
「いぇーす、ここsoとぅ、間違いやすぃーのでぃ、気をつけるよぅに。
OK?」
ヒヨリンが項垂れ、琴子が密かに苦笑いしている。
ここ最近、定着してきた日常。もちろんヒヨリンに悪気は無い。
▶◀ ▶◀ ~
「それでさー、ニコナはどの部活に入るか決めた?」
ヒヨリンが席に着くなり話題を振ってくる。うちの中学は私立だから給食はなかったが、その代わり食堂があり、格安で学食が提供されていた。もちろんお弁当などの持ち込みもできる。でもあたしたち三人はその他大勢の生徒と同じく、お昼ご飯はここの学食を利用していた。悩むのはABC定食の三択ぐらいだ。
「んー、まだ。」
「ヒヨはねぇ、新体操部が気になっているのだよ!
ね、ね、決まってないんだったらさぁ、放課後に一緒に見に行かない?」
ヒヨリンは小柄だったが、確かに動くのは好きそうだし向いているかもしれない。
あたしは、うーん。自分が躍っているところが想像つかない。
ヒヨリンの誘いをそれとなくかわすべく、琴子に話題を振ってみる。
「琴子は部活に入るの?」
「美術部に入ろうかなって思ったんだけど、油絵とかデザイン画中心だからやめようかな。」
「そなの?」
「うん、私がやりたいのは彫刻だしね。」
あたしには特にやりたいことはない。
しいて言えば、少し料理に興味がある程度だ。
喧騒、楽しそうな話し声、明るく賑やかな空気。周囲には平凡な日常が転がっている。
ヒヨリンが天然ボケを発揮し、琴子が穏やかにツッコミを入れる。二人が笑っている。あたしも多分、笑っている。フォーカスがボヤける。自分の目で見ている光景なのに、他人の目で見ているような、テレビ画面を経由してみているよな錯覚を覚える。
そんな時、道を歩いててほんの僅かな段差や小石に躓くことがあるように、唐突な悲しみがあたしを襲ってくる。何もない平坦な道だと思ってたのに。
いや、実際のところ「何か」に躓く理由があったわけじゃない。ただ急激な孤独感に襲われて悲しくなる。理由もなく。
「ごめーん、ちょっとお手洗い行きたいから、先に行くね?」
二人がまだ食べ終わっていないのを確認し、あたしは残りのスープを飲み干し席を立った。
笑顔は維持できている。使用済み食器カウンターへ配膳を下げ、食堂を出る。
目的を持たずに廊下を進む。いや、目的はある。
おあつらえ向きな空き教室を見つけ、誰もいないことを確認して滑り込む。窓際のカーテンの陰に隠れる。校庭でサッカーをする男子生徒たちが目に留まったが、さらにカーテンを引き寄せ、あたしは一人になった。
誰の目にも留まらない安堵感とともに涙が零れる。止めどなく流れる涙が頬を伝う。あたしは声を殺して泣く。訳の分からない悲しみに胸が締め付けられ、呼吸すらままならなくなる。
ぎゅっと目をつぶり、絞り出すように最後の涙を振り切り、あたしは目を開ける。ぼやけた視界に日常が戻ってくる。黒揚羽が青空を横切っていく。
▶◀ ~
学校が終わりヒヨリンと琴子と別れ、あたしは独り帰路に着く。電車を降りてからいつも通りに歩く。
いつも通りに歩いいていたはずなのに、見慣れない建物が並ぶ。考え事し過ぎて曲がり角を間違えたのかなぁ。
古ぼけたアーケード街を歩く。忘れ去られていく時代の取りこぼしのように、ひっそりと錆びついている。
お店の半分くらいは開いているみたいだけど、人の気配がしない。薄明かりだけが外に漏れている。
なんかお化けが出そうで、ちょっと心細くなる。
行く先の方からギターの音が聞こえてくる。視界の端にギターを弾く男の人? を認める。
そのまま進んでいくと、その人は女性だったことに気が付く。細身の、中性的な感じ。
あたしが立ち止まり正面に立つも、まるであたしがいないかのようにギターを弾き続ける。
傍らに伏せていた毛の長いラブラドールが片目を開けてあたしを見る。目が合う。ラブラドールが顔を上げてしっかりとあたしを見つめる。尻尾をバタン、バタンと地に打ち付ける。
「チロが人に反応するなんて珍しいな。」
女の人がギターを弾きながら呟く。
優しいギターの音色に交じり、甘く緩やかな声がアーケード街に響く。
「シロ? 毛並みが白金だから?」
「違うよ、この子は、チ、ロ。
この子で4代目かな、チロって名前なのは。」
ギターの旋律が感情を表すように少し躍動的になる。
「ごめんね、名前間違えて。チロ。」
「犬が好きなのかい?」
「うーん、なんかよく犬に好かれます。」
答えが答えになっていないような気がして、慌ててしゃがみこんでチロと視線を合わせる。
チロがあたしの匂いを嗅ぎ、顔を近づけると鼻と鼻がくっつく。
「お姉さんは……、いつもここで弾いてるんですか?」
「そうだね、20年ぐらいになるかな。」
「!」
驚きの表情が顔に出てしまう。その表情をチラッと見たお姉さんがクスッと笑う。
「ロックは死なない。」
あたしはお姉さんの顔を見る。ギターに落とした視線は、その目は強く、優しく、そして「確か」だった。そしてその声色は美しく、あたしの心を揺さぶった。
「お姉さんはその……、歌わないんですか?
……ごめんなさい、質問ばかりで。」
「歌かい? 歌うよ、歌いたくなったら。
君は歌わないのかい?」
歌う……、歌うか。
あたしの中でくすぶってるこの想いは何だろう?
この哀しみはなんだろう?
この悔しさはなんだろう?
この衝動はなんだろう?
この慟哭はなんだろう?
『孤高を喜べ! 嗤え! 詠え!
阻むものを噛み砕け! 蹴散らせ! どこまでも駆け上がれ!
全てを蹂躙し、己を打ち立てろ!
薙ぎ倒し、我此処に在りと己を咆哮しろ!!』
誰? 君は誰?
「ほら、お客さんだ。君のね。
歌わないのかい? 君は歌わないのかい?」
ギターの旋律が一気に激しくなる。強く。強く。強く。
チロが低く唸る。重厚に唸り声を上げる。
「え?」
チロの視線の先を追いかける。
「え? え? えーーーーーっ!」
何? 何この人たち? 落武者? 落武者のゾンビ?
無理無理無理無理! ゾンビとか無理だって! お化けは無理!!
爛々と紅い目を光らせた「落武者ゾンビ」がアーケード街を埋め尽くさんと迫ってくる!
どゆこと? なんで? なんでどうゆうこと?!
あたしは反射的に駆けだす。反対側へと。
さっき来たはずの道なのに、ずっとアーケード街が続いていたはずなのに、コンクリートの高い壁がそびえ立ちあたしを阻む。戻る道は無いのだと。「普通」なんてものは「まやかし」なのだと。
あたしの背中を追いかけるように、お姉さんの歌声が世界を支配する。
激しいギターの音色、チロの重低音な唸り声、そしてリズムを刻むかのような「落武者ゾンビ」達の無数の足音。
横を見て発見した脇道、細い路地裏へと咄嗟に飛び込む。
極端に狭く、ゴミ箱やらなにやらが置かれ、人ひとりが通れるほどの路地裏。
右へ左へ、一本道なのに複雑に絡む。そしてそこに上り坂、下り坂、階段が絡み平衡感覚が失われていく。あたしは登っているの? 落ちているの?
モノトーンの道が、壁が、多角形の幾何学模様に構造を変化させていく。
より複雑に、より白く眩しく変化していく。
あたしは何処にいるの? あたしはあたしなの?
視界の端に黒揚羽が横切る。
あたしは加速する。黒揚羽を、モノトーンの幾何学から逃れるように。
あれ? あたしってこんなに疾く奔れたっけ?
黒揚羽が増えていく。移り変わる白い幾何学模様を覆い隠さんと黒が支配する。
無数に飛び交う黒揚羽。狭まる視界。
あたしは、あたしは、あたしは誰?
突如、視界が開ける。
そこに安堵するあたしを嘲笑うように、黒く、赫く、渦巻く一際大きい「落武者ゾンビ」が正面に現れ進路を塞ぐ。あたしを覆いかぶさんと眼前に迫る。
「だから! だからそういうのは無理だって!!」
あたしは心の限り叫ぶ。吠える。咆哮する。
奔る勢いをそのままに身体を沈めながら回転させる。
身体を立ち上げ回転速度を上げる。全ての速度を回転運動に変換する。
無数の黒揚羽を振り切る。最高速に達する力を右足に託す。
「ニコニコーーーーーっ」
あたしの奥底から歓喜が湧き上がる。自然に嗤いが込み上げてくる。
「スピン!!」
あたしは「黒」を突き破る。
~ ▶◀
「起きたか。」
縁側の日陰に、座布団を枕に寝かされていた少女が、むくりと上体を起こす。
大きなタンコブは未だ消えてはいないが。
「じっちゃん……、なんか変な夢見た。」
大きなタンコブは出来ているものの、脳波、生体エネルギー、いわゆる「気の流れ」に異常は見られない。この緩慢な流れは一時的な寝起きによるもの。大丈夫じゃろ……。
うん、大丈夫じゃよね? 一応儂、「気」を注いだし大丈夫じゃよね?
「ど、どんな夢じゃ?」
「うーん、忘れちゃった!
なんで夢って秒で忘れていくんだろうねぇ。」
少女が立ち上がり、両椀を上げて大きく背伸びをする。内に籠った余分な「気」を排出し、代わりに「大気」を自身に取り込む。
「でも、変な男の人とねぇ、チロがいた!」
少女が庭へ降り、基本型式を行って体をほぐす。ゆっくりと優雅に。
うん、これだけ動けてるし、しっかり喋れてるから大丈夫じゃろ。
チロというのが何なのかわからんのじゃが。
「ねぇじっちゃん! あたしはやっぱり闘うことが好き!
もっともっと強くなりたい!」
少女が破顔する。
「そこに涯てがなくともか。」
老人が少女の笑顔に応え、優しく微笑みながら尋ねる。
「うん! だってそしたらさ! ずっと遊べるってことじゃん!」
少女が旋回しながら虚空へと蹴り・裏拳・肘打ちなどを次々に放つ。そして勢いをそのままに、縁側に置いてあった鞄をキャッチする。あー、それって奥義の吼威鋼狼……
ゆるりと旋回を停止させた少女は、老人へと向き直り一礼する。
「んじゃね、じっちゃん! また寄るね!」
「あぁ。
そのなんじゃ、ニコナ。帰ったらちゃんと、頭のぶつけたところ冷やすんじゃよ?」
聞こえていたか聞こえていないか、少女は舞うように去っていく。
一度振り返り笑顔で手を振る姿に、老人は片手を挙げて応えた。
「涯てがないからずっと遊べる、か。」
老人は微笑み、目を細めて庭先を見る。
黒揚羽に代わり、少女が置いていった爽やかな春風が、咲き誇る花を静かに揺らした。




